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「パリに暮らして」 第19話 最終話
そして、学校の最終日、短期間ではあるもののひと通りの卒業認定を受けて、私は語学学校を後にした。翌々日には、パリを発つ予定だった。
いつものようにカフェ・クレスポでスープセットを食べていると、入口の扉が開いて、柊二さんが現れた。思った通りひどく疲れている様子で、土気色の顔をしていた。
私に気づいた柊二さんは、右手を軽く挙げて挨拶した。そしてカウンターに近づいてムッシュ・グンデルフィンガーにも挨拶をすると、少し二人で話し込んでいた。
――日暮れに近い時間帯で、店のウィンドウから夕陽が斜めに射し込んでいた。それは、やけに哀しさと虚しさを掻き立てる、秋の日に特有の透明感を伴って店の中を不思議な色合いに染めていた。
カウンターからエールビールを手にした柊二さんが近づいて来て、私の座っているテーブルの向かいに座った。やあ、久しぶりだね、と彼は言った。椅子の背もたれに斜めに寄りかかった姿勢は、彼の体と心の疲労ぶりを物語っているようだった。
私も、力無く微笑んだ。柊二さんのような状態にある人に、一体どんな言葉をかけたらいいのだろう、と、心の中で当惑しながら。こんなシチュエーションに陥ったら、自分なら相手に何を言って欲しいだろうと、ここ数日考え続けていたというのに、ろくな言葉が浮かんでこないのだ。そしてそんな自分を、私は恥じていた。
「リザは意識が戻ったよ」
柊二さんは弱々しく微笑んで言った。
「本当に?」
にわかに弾んだ声が出て、そんな自分に驚いてしまった。
目をしっかり開いて柊二さんは言った、
「少しずつだけど会話もできるようになってる。頭の中に銃弾が残っているから、いずれ手術をして取り除かなければいけないけどね」
「……そう……。……でも、良かった」
「とりあえずはね」
柊二さんは、エールを一口飲んだ。そして続けた。
「けれど、一緒に行った女友達のエマニュエルは犠牲になった。即死だったって。……リザはまだそのことを知らないけどね」
これからは、彼女の心のケアもしていなかければならない、と、柊二さんは言った。
「……リザは、回復するかしらね……いつか……」
私は声をつまらせながら、ようやくそれだけ言った。柊二さんは、力無く笑って、
「わからない」
と言った。
「でも」
気を取り直すように、それとも自分を奮い立たせようとするかのように、柊二さんは前を向いた。
「こんなことがあって気づかされた。彼女はもう、僕にとってたった一人残された家族なんだってね。……犠牲になったのがリザだったかと思うと、僕はもう、この先生きていけないような気がした。まだこれから彼女がどうなるかは本当にわからない。以前のように、元気な姿に戻るかも……。でも、僕はやってみるよ。時間はかかるかもしれないけれど……、やっていくしかない。リザは僕の娘なんだものね……」
そう言った時の柊二さんの顔は、胸を打つほどに健気だった。そしてその瞳は、あのカフェに座っていたパリの人達と同じ強い光を放っているのだった。私はハッとして、微笑み返すしかすることを知らなかった。
――いつだったか、彼は私の目を見つめながら、こんなことを言った。
「……それは、汚れたガラスの瓶を洗ってるようなものだよ……。最初は、普通に、順調に、汚れは落ちていく。……だけどその内に、どうしても取れない汚れがあることに気づくんだ。厚みのあるガラス瓶の、どっち側についてるんだかわからない汚れを、矯めつ眇めつしながら、表から裏から、全部こすってみる。――そうやって、終に気づくんだ。ガラス瓶の底のところは最初っから割れていて、そのヒビの部分に汚れが入り込んでしまっているから、それは決して落ちないんだって。割れたガラス瓶なんて、何の役に立つんだい? ……そうだな、せめて観賞用に使うことができるかな、それが綺麗なガラス瓶だったならね……」
――割れたガラス瓶の、ヒビの奥深くにこびりついた汚れは、永遠に消えることはないのかもしれない。瓶はその修復しようのない汚れた傷を抱えたまま、割れて粉々に砕け散る日が来るまで存在し続けなければならないのだろう。……ならばせめて、観賞に堪えうる綺麗なガラス瓶になれるよう、できる限り、輝こうとしなければならない。
――二日後、シャルル・ド・ゴール空港からエール・フランスで、私はチュニスへ発った。柊二さんは、遠慮する私をどうしてもと説き伏せて、車で空港まで送ってくれた。
「……パリで出会ったのが柊二さんで良かった」
運転する彼の横顔を眺めながら私は言った。少し痩せて、くたびれては見えるけれど、ゆっくりとハンドルを操作する自分の手元を見ながら、彼はいつものように感じのいい穏やかな表情を浮かべていた。
「アパートに泊めてくれてありがとう。あと、美味しい食事も。出発までにレシピを習っておけば良かったな」
私は笑った。すると、彼もちらっとこっちを向いて笑った。
「チュニジアへ行ったら、フランスでのように大手を振ってワインは飲めないよ」
柊二さんは言った。
「摂生します。代わりにしばらくミントティーでデトックスね」
私は舌を出した。
私達の間には、今私達自身が置かれている現実から、どこか浮き上がったような空気が流れていた。空々しいような……、それでいて、本当はこっちが真実だとでもいうような。二人とも、テロの話やリザのことは口にしなかった。私の、これからのことさえも。……二人とも、暗黙の了解があるかのように、黙っていた。二人とも、言いたくても言えないことを胸に抱えているような顔をして、うつむいていた。
「寂しくなるよ」
不意に顔を上げて、柊二さんは言った。
「ワインが飲みたくなったら、いつでも戻っておいで。僕の家はもう君の家のようなものだからね」
Mi Casa、 Su Casa、 と彼は呟いた。
「なあにそれ、フランス語?」
私は笑って聞いた。
「スペイン語」
柊二さんも笑った。
――ターミナルで、柊二さんの乗ったプジョーが発進するのを見送りながら、急に私は感傷的な気分に襲われた。後追いする幼子のように、一瞬手を伸ばしかけ、それがバックミラーの視界に入らなかったようだったことがわかって、ふっと安心する自分を見出すのだった。
……あの時、猫の目に映った柊二さんと私の姿は、正確無比な記録者たり得るそのレンズを通して、永遠にパリの記憶に留まるのだろうか。
きっとそうなる、と私は思った。そしてそれと同時に、パリの街の全てを包含する猫の目のレンズの外側に、自分はもう弾き出されてしまっているのだということを知った。
午前十時四十五分発のエール・フランス一二八四便の座席は、拍子抜けなほど空いていた。
機内では、流石にアラブ人の比率が高くなっていた。ほとんどが浅黒い肌の頑健で実直そうな中年男性で、頭にヒジャブを被っている婦人の姿もちらほら目につく。三割ほどが、欧米系だった。よく日焼けしている人が大半で、赤黒い顔の真ん中で碧眼をギョロつかせている。多分、向こうで暮らしている人達なのだろう。キャビン中を一通り見渡して、気がつくとアジア人は私ひとりだった。
私は座席に真っすぐ座り直し、背筋を伸ばした。
気持ちを切り替える必要がある。
……けれど、今の私に、それができるだろうか。体から力が抜けていくような感じがした。
飛行機はゆっくりと離陸し、あっという間に高度を上げて、パリの上空に達した。
素晴らしく澄んだ青い空と、秋の薄い陽光の下、パリは輝いて見えた。飛行機の小窓に額をつけて、私はずっと眼下に通り過ぎていく街を見下ろしていた。
まるで何事もなかったかのように、そのうっとりするほど美しい、たおやかな腕を広げている街。
私は柊二さんとリザのことを思って、少しの間泣いた。
~終~
※ 2部作後編 『チュニジアより愛をこめて』 に続きます。