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「チュニジアより愛をこめて」 第6話

 ――彼と出会ったばかりの頃、彼がイスラム教徒であるということを、さほど意識してはいなかった。私は日本人であり、建前上は仏教徒であったが、日本に暮らす他の多くの人々と同様、あまり宗教に対して高い意識を持っているわけではなかった。それどころか、日常生活において、教義とか信条といったものから、私はかけ離れたところにいた。そして、そういったことは、彼との付き合いの初めの頃には、あまりお互いの会話に上るものでもなかったのだった。
 彼が 〝神〟 について初めて口にしたのは、モントリオールで私達が一緒に過ごすようになって間もない頃だった。 〝北米のパリ〟と呼ばれるこのカナダ随一のヨーロッパ色の強い国際都市で、私達はひと月あまりをともに過ごした。その前後のインターネットで繋がっていた時期はあるものの、この時だけが、私達が恋人同士として手を伸ばせば触れられる距離にいた唯一の期間だった。――彼は言った、「神はただ一つ。その神が世界の全てを作った。我々は神の教えに従わなければならない。そして、その為には預言者ムハンマドに従わなければならない」そして、何の前置きもなく、「今から俺の後について同じ言葉を言って」と言った。
「神の他に神は無し」 
「ムハンマドは最後の預言者である」
私は彼の言う通りに、オウム返しにこの二つの言葉を発音した。「よし」彼は嬉しそうに微笑んだ。「これでお前はムスリム、、、、だ」
 その時から私はイスラム教徒ムスリムになったらしい――少なくとも、彼の中では。……非イスラム教徒の女性と付き合う時、彼らが彼女に対してする事の中には、必ず 〝教育〟 が含まれているようだ。彼らにとってはイスラムの教義が全てであり、人生において最も重要なことなので、それを知らないで・・・・・生きている相手に教えてあげることは、親切であり、ある意味愛情表現の一種でもあるのだろう。イスラムの教えを知らないまま生き続けていたら、罪を重ねて最後死ぬ時になって、地獄の業火に焼かれてしまうから。いつか必ずやって来るとされる最後の審判というものを、彼らは恐れている。この審判の時に、天国に入ることを許されるよう、彼女の魂を助けてやるというわけだ。そして彼女を救うことによって、自分も大きな徳を積むことができる。自分も彼女も、幸せになれるということだ。だから私があの二つの句を無事に口にした時、彼は心底嬉しそうだったのだ。この二つの句を証人の前で口に出して言うことは、 〝信仰告白シャハーダ〟 といって、「イスラム教徒になります」という宣誓のようなものになる。
 しかし、とは言っても、何も知らない、イスラム教徒になりたいと思っているわけでもなかった私が、その瞬間以降いきなり敬虔けいけん女性イスラム教徒ムスリマになるなどという奇跡は、起こるはずもなかった。二人でスーパーに行った時、私の手を引きながら、「俺がいいと言うもの以外の食品には、目もくれるな」と言われ、ゼラチン入りのヨーグルトとそうでないヨーグルトを見せられ、ゼラチンという豚の成分の入っているヨーグルトは買ってはいけないといましめられたり、魚介類は何でも食していいと習わされたり、アルコールを一切禁じられたりしたのは、はっきり言って辛かった。興味本位に、一定期間そういう生活をしてみる、というのならまだしも、それが生涯続くのだ。
「時間はかかる。ゆっくりとでもいい。けれど、確実に」
 彼はそう言った。その言い方に、私はある種の恐ろしさ・・・を覚えた。彼にとっては生まれた時からの当たり前の考え方、当たり前の習慣だが、私にとっては、全く新しい、見知らぬ世界なのだ。その、彼としてはブレることも揺らぐことも決してない固い信条と生活様式に、私がどれだけ近づいて同化することができるか……まるで全てはそれにかかっているかのようだった。
 それでも私は、未知なものであるイスラムへの興味から、彼の教えてくれることを参考に、色々学ぼうとした。一緒に過ごした間、私達の交わす会話のほとんどは、彼が私にしたイスラム教についての講釈だったように思う。
 彼はその話をする時、労をいとわなかった。毎度毎度、神への愛、預言者ムハンマドに対する尊敬を表しては、感情のこもった、陶然としたような表情で、何度でも根気強く説明した。彼の教えてくれたことを全て覚えているわけではないけれど、幾つか印象に残っているものがある。「脱いだものを床の上に置いてはいけない」と彼は言った。また、男性の身だしなみとして、腋毛と陰毛は、常に短く切るか剃るようにしておかなければならなかった。彼は腋毛を工作用のハサミでジョキジョキと切っていた。「全部 〝本〟 に書いてある」と、彼は言った。 〝本〟 というのは、無論あの聖典、コーランのことである。
 彼はこんなことも話してくれた。同じチュニジア出身で、今は結婚してモントリオール郊外に家を構えている友人がいるのだが、彼の奥さんという人がカナダ人で、彼と結婚するに当たってイスラム教に改宗しているという。「彼女は熱心で、芯から改宗して、自分から進んでヒジャブをかぶりさえしているんだ。……そうすることで、より神に近づけると言ってね」彼女に会った時、とても感動した、と、胸に手をあてて瞳を潤ませながら彼は言った。彼はまた、カナダのある都市でムハンマドの頭髪が展示された時に訪ねて行ったという話もした。「その時、どんな風に感じた?」私が聞くと、彼はもう一度胸に手をあて、声を震わせながら、「……それはもう、深く感動したよ……。感無量だった」と答えた。

 ――問題は、そういった時に私が何を感じていたかということだった。「それってすごいことね」と心から感動し、目を輝かせて彼に同意するという態度を示すことができていれば、全ては上手くいったのかもしれない。けれど、私が考えていたのは、どうも中に入っていけない、部外者の視点からのものだった。例えば友人と結婚したというそのフランス系カナダ人ケベコワの女性のこと。彼女には元々キリスト教の基盤があるじゃないか、と私は思った。カナダを代表する国際グローバル都市の一つであるこのモントリオールでさえも、ほんの三十年前まで政教分離が成されておらず、子供が小学校に入る為には洗礼を受けなければならなかったということを私は知っていた。そんな社会に生まれているのだから、よっぽど急進的な家庭で育っていない限り、キリスト教の教えは彼女の中に深く根づいていることだろう。そして、キリスト教とイスラム教とは、同じ源に端を発する、親戚関係にあるような宗教なのだ。その定義や解釈において色々と細かな違いはあろうけれど、共通する事柄も多く、それはまるで同じ地盤に咲いた別種の花のようなものだ。キリスト教を知る人の頭の中には、イスラム教に対する予備知識がある。その理念に共感できさえすれば、改宗する人にはもはや何の障害もないのではないだろうか、と私は思った。彼女には、打てば響く、 〝基礎的な素養〟 があったのだ。

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