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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

最近読んだ小説・古典・見た映画など

※当記事は性暴力に触れています


今回扱う本の六割方はnoteの元記事がある。私の独りよがりな文より百倍分かりやすい。
なので今回参考にした記事を最後に一覧にしてある(何ならそこだけ見てほしい)。


Ⅰ.現代文学における古典の試みなど

谷田博幸「国家はいかに楠木正成を作ったのか」

中島久萬吉くまきちという商工相が昭和九年、突如辞任させられた。理由は何か―とある雑誌に足利尊氏を褒め称える記事を寄稿した―たったそれだけであった。

しかし、この事件はその手前の、南北朝の正当性を巡る論争を知らないと意味が取りにくい。
考えてほしい。仮に足利尊氏の建てた北朝が正統とすると、現天皇家は後醍醐天皇の南朝に背いた「逆賊」の末裔となってしまう。
そのため(明治四十四年の幸徳秋水の大逆事件をきっかけに―南北朝の両論併記がこうした不敬の輩を生むとして―)南朝を正統とする(正直無理のある)歴史改変が、教科書の記述変更、当時広く顔の知られた知識人である徳富蘇峰とくとみそほうの発言などによって、次第に国民意識に刷り込まれていった。
(先立って明治五年には明治政府によって湊川神社の建立が行われている)
だから中島商工相の足利尊氏礼賛は、そのまま北朝礼賛につながり、ひいては「畏れ多き天皇陛下」の正当性に傷をつける―という話に発展するのである。

怖ろしい話だが、さらにこの後には美濃部達吉の天皇機関説が誹謗中傷を浴びる。
権威や権力という名の、偽りの永遠に縋る人々の暗い怯えと暴力とは、ひたすら哀れである。

長野まゆみ「都づくし旅物語」

今回は長野まゆみ氏がJR情報誌に掲載した変わり種の小説を読んでいきます。
長野氏の小説は幻想的な言葉遣いが魅力的です。薔薇ばら銀木犀ぎんもくせい雪花石膏せっかせっこう、三日月少年、夜天そら
軸となるストーリーを綺羅星の如き言葉が覆い、散文詩と童話の「あいの子」とも呼ぶべき読後感を醸し出します。
しかしこの幻想の輝きを私たちの地べたに引きずり落とすのは、なかなか難しい。 
どれを扱うか悩んだ末、この作品なら、我ら凡夫との接点も見つかるかと持ち込んだ次第です。

今回は「白雲母きららに眠る―京都・天竜寺」を紹介します。
先に要約すると、
「「私」の友人はこの頃桜の夢を見る。夢では少年が何かを埋めている。その後、夢と同じ光景に「私」たちは出くわし、夢の少年が友人の十年前に亡くなった弟と判明する。」
夢の光景が現実を、(弟という)死者が生者を侵す夢幻劇的な筋立てですが、これだけでは魅力が伝わらない。
そこで、本作の、長野氏固有の言葉遣いだけを切り取って、以下に並べてみます。

さくらの夢―窓硝子ガラス―満開の櫻の下―浄土―枝垂しだれ桜―谷を渡るうぐいすこえ―澄明な大気―連翹れんぎょう樹檣じゅしょう碧霄そら天蓋てんがい白雲母きららそら復活祭イースター櫻石さくらいし
こうした言葉遣いが大筋の夢幻劇を包み、詩的酩酊めいていをもたらします。

もし本作の気に入った方はぜひ倉橋由美子の「よもつひらさか往還」も読んでみてください。
長野まゆみ氏の作品が真昼の少年の夢なら、倉橋由美子の作品は夜の大人の夢の風情があって、読み比べると楽しいです。

丸谷才一「輝く日の宮」

タイトル「輝く日の宮」は、現在の「藤壺」直後に置かれていた可能性のある、藤壺と光源氏の馴れ初めが語られた巻―とされる。
ただ、現存する源氏物語では他に、六条御息所との馴れ初め、光源氏の死もそれぞれ語られない以上、初めからなかった気もする。邪馬台国論争同様、どう足掻いても仮説の域を出ない話である。

ただし「輝く日の宮」は攫われる姫君―マクガフィンで、本筋は十九世紀文学を専門とする安佐子が、この不毛な「源氏論争」に巻き込まれるおかしみにある。
また、途中で安佐子の一年の活動が同時代史と共に語られていく下りがあるのだが、そこでオウムサリン事件が箇条書きにされているのが印象深かった。
(深読みし過ぎかもしれないが)オウムサリン事件を前に過剰に騒ぐ言論に対するアンチテーゼとして、静かな作家の企みを感じる。

なお、現存する源氏物語の不在を埋める「源氏補作・偽作」の系譜に本作は連なる。
1.「夢浮橋」をよりハッピーエンドに近づけた「山路の露」
2.「雲隠」で語られない光源氏の死を語った「雲隠六帖」
3.本居宣長が原文の継ぎ接ぎで作った「手枕」
4.末摘花を訪ねる源氏の正体は狐だった怪奇譚「八重葎」
の四作が岩波文庫で読める。興味のある方はぜひ読んでほしい。

三島由紀夫「玉刻春たまきはる」「いのりの日記」

皆さん私の三島紹介にはうんざりだと思う。私もうんざりだ。これでぜひ打ち止めとしたい。
「たまきはる」は命や世に係る枕詞まくらことば
あらすじ。
とある上流階級の女性に恋した学生「某」は、彼女から冷たい返事しか貰えない。
ところが大人になってから、すべては彼女の弟の策略で、彼女はずっと自分を慕っていたことが判る、という話。
過剰に観念的だし(童貞の妄想か)季節描写も秋ははぎすすきと没個性的で退屈。
(「たまきはる」という日記文学がある―「とはずがたり」同様宮仕えした女房が自らの体験を後代に儀式や着物の作法を残すためもあって記したもの―が関係はないだろう)

いのりの日記」は、さる華族女性やす子の幼なじみとの淡い恋愛関係を幼少期から追って書いた作品。
「クレーヴの奥方」と「美徳のよろめき」を思い出した。
貞淑が行き過ぎて夫に自分の恋心を告白してしまうクレーヴ夫人のように、やす子も自らの恋心に適切なアクションを取れず目を逸らす。
「美徳のよろめき」の節子は自らの悪徳を知らない白痴の聖女だが、本作は自らの清純に無知な乙女の葛藤を書いた点で興味深い……訳あるか。(正直三島の作品でなければ読み止めてた)
真面目な話をすると、やす子や節子やクレーヴ夫人はいわば「物語」と「小説」の境界線にいる人物なのである。近代的な自我や心理は物珍しくいかめしい機械のようにそこにあり、すでに物語は破綻しているにもかかわらず、彼女たちは古い物語の登場人物として―意識的にしろ無意識にしろ―生きようとする。
そこで発生する「物語」と「小説」の悲痛な肉離れこそがこれらの小説を成り立たせており、それは近代心理すら古びつつある我らには縁遠い世界だが、彼女たちは彼女たちで一所懸命生きてるのである。
ただし、一つだけ素晴らしい下りがあった。

(略)花野の夜、ふと、秋草をつんでゐたかうべを上げて、野の果てをとほつてゆく汽車を見送󠄁おくるやうなものでございました。汽車はさかんな汽笛で野や谷あひに立ちこめてゐる夜霧をふるはせ、川のなぞへ(注:斜面)にひとときまつ白な煙󠄁けむりはせながら、あのつらねられた明るい窗々まどまどくしのやうにみるみるいて山のあちらへかくれてしまつたのでございませう。その汽笛は、むしがふるやうな花野のさなかで、まだおもたくあら寶石ほうせきのやうに、耳の底にのこつてゐるでございませう。さうやつて半󠄁なかばうつけたもちで立つてゐるわたくしにも、いつたいなにが失なはれていつたかを、合點がてんすることができないのです。

p350.

三島由紀夫は喪失を、滅びを、死を、虚無を、誰より美しく語る力を持った作家だった。

萩尾望都「春の夢」

タイトルはシューベルトの「春の夢」から。
時は第二次大戦下のイギリス。エドガーという美しい少年の吸血鬼が、ブランカというユダヤ人の少女と出会う。エドガーとブランカは互いに淡い思慕を寄せるが、それは「春の夢」のように儚い幻と化してしまう。
以下、各章ごとに筋を追っていく。
Vol.1
エドガーとブランカの馴れ初めが語られる。
水晶の夜クリスタルナハト(ユダヤ人の商店街がナチスの突撃隊(SA)に襲われた事件。割れたガラスが水晶のようだったためこの名が付いた)から逃れてきたブランカは両親と生き別れ、一人で(おそらく多動性障がいを持つ)弟ノアの面倒を見ている。
エドガーはアランという吸血鬼の少年と共に暮らしている。大人びたエドガーに比べアランは子どもっぽいが、思慮を欠く訳ではない。
エドガーは勝ち気なブランカと話をし、その後

ブランカ/きみはぼくの/春の夢だ―

p42.

と(窓の外の光景を見るともなく見ながら)一人思う。
Vol.2
ファルカという奇妙な吸血鬼とエドガーの話。ファルカは胡散臭くも気さくな青年だが、見かけ通りの年ではない。
Vol.3
エドガーはクロエという恰幅のいい中年女性にエナジーを吸われる(これがないと吸血鬼パンパネラは干からびて動けなくなる)。
(「残酷な神が支配する」を思わせる性を利用した支配関係の持つ暴力がおぞましい)
同時に吸血鬼ファルカの人間時代が語られる。彼は過去に妻子を皆殺しにされた領主だった。
車夫のアシュトンは密かにブランカに思慕を寄せており、エドガーに横恋慕と、立場の差へのやっかみ、さらに人種差別のい交ぜになった悪意を向ける。 

(アシュトン:)だ、男爵っ!/ガ、ガキがふたり(注:エドガーとアラン)赤い家で何をしてる?/ブランカお嬢様に何を吹き込んでる?/もしかしてドイツのスパイか?英語が変だぞ!
(エドガー:)アシュトン仕事にもどれ/おまえはただの車夫だろう/ロンドンの上流階級じゃこういう英語を使うんだよ/国王キングのスピーチをちゃんと聞け

p87.

アシュトンは言い返すこともできず(怒りと屈辱から)赤面する。
(ここでアシュトンがエドガーに「男爵」(「お前」とか「貴様」でなく)と呼びかけているのは―細かいところですが―リアリティがあります。男性の暴力は強者よりむしろ弱者が振るうもの、と、弱者側の男性の私の実感から思います。
ここでエドガーに対する敬意の呼称「男爵」を手放せないままエドガーに無差別な悪意を向けるアシュトンは醜く、しかし人間の一つの姿として、極めて正確な描写である、と思います)

その後、薔薇の咲き誇る川辺で春の日を浴び戯れるエドガーとアランは、ただの愛らしい少年たちにしか見えない。
Vol.4
ファルカはアランを強く欲するが、エドガーはその動機にファルカの亡くした子どもの存在があることを看破する。
推理小説的な面白みがある上、Vol.3のファルカの人間時代の話とも繋がる巧みなストーリーテリングである。
Vol.5
極めて高齢の吸血鬼大老キングポーとの対話でエドガーの零す感想「人間は…短い命だから命が惜しくないのかも知れない」が記憶に残る。
ノアが川に流され、ブランカたちは決死の捜索をするが、このとき一人になったブランカをアシュトンは川辺の塔でレイプしようとする。
Vol.6 
エドガーの手でアシュトンは殺される(おそらく生気を吸われた)。エドガーはアシュトンを殺めるとき、妖しく微笑んでいる。ブランカは直感からエドガーが人ならざる存在であることに気づき、困惑と恐怖から塔の真下へ落ち髪が真っ白になってしまう。ファルカが吸血鬼の仲間にすることで命は救われるが、もうブランカは人の世界では生きていけなくなる。
年月が経ち、大人になった弟のノアを物陰から見つめるノアの

覚えてる?あの頃/春の夢を見ていた―

p193.

というモノローグで本作「春の夢」は終わる。
前触れもなく吸血鬼として生きる定めとなったブランカの葛藤は、直接語られないだけ強く身に迫る。

肝心の絵を欠いた説明でもあり、面白みが伝わったか不安である。
ナチス時代を扱う歴史性、ブランカとノアの家族関係、ファルカの正体を巡るミステリ。さらにエドガーとブランカの恋愛模様と隣り合うエドガーとアランの仄かな同性愛、性的搾取・性暴力など人間の暗部にまで踏み込んだ骨太の物語が最終的に「春の夢」という一語に集約され、たちまち幻が覚めるように消えていく読後感は、ちょうど春の河原のシャボン玉が七色に揺れながら割れていく心地である。

なお、本作は連作「ポーの一族」の一つ。この話には出てこない少女の吸血鬼メリーベルがとっても愛くるしいので、ぜひこの他の話も読んでくれると、嬉しいです。

Ⅱ.中世物語集

しぐれ

悲恋物語で、両思いの姫君と貴族が政治的意図による呪術で仲を引き裂かれてしまう。貴族は出家し、その後ひたすら来世に願いを託す彼らの姿は、一度きりの生しか選び得ない人間の憐れさを伝え趣深い。
ところで本作の姫君は割とアヴァンギャルドで、「柱の節抜けの穴のありけるに紙を丸めて」塞いでいたのを引き抜いて、彼の姿を垣間見たりする。

出家した男の送った和歌を引用する。

三瀬川逢瀬ときくを頼みにて死出の山路のいそぎをぞする
(筆者注:三瀬川は三途の川)
現代語訳:冥途へゆく途中にある三途の川には、あなたと再会できる瀬(逢瀬)もあると聞いていますので、それを頼みに死の準備をしています。

p53.

師門もろかど物語

平将門から六代後の師門は二条中将に妻の浄瑠璃御前を奪われるも、御前は六年以内に男と肌を触れると(「六年よりうちにおとこに御ちかづき候はば」)治らない病があるという、侍女冷泉の機転(口からでまかせ)に救われ、操を守る(信じる中将もどうかと思うが、太宰治「満願」を思いだす)。
その後は御前が師門を追って諸国を巡る、説経節で死ぬほど見た展開になるので割愛。
なお本筋とは関係なく、師門一門の月王丸が師門の死を偽装する場面は血腥ちなまぐさく記憶にこびりついた。

(月王丸は「師門が自害した、自分も跡を追う」と嘘を言うと)うたれたる者の(略)首をかき切りてたかき所へ走りあがり、腹十文字にかき切りて、はらわたを取りいだし、さて取りたる首を我腹のなかへ押しいれて、そののちのどぶへ(注:喉笛)に刀をたて、うつぶしにふす。月王丸が最期をほめぬ人こそなかりける。
私訳:月王丸は名乗りを上げる暇もなく斬り殺された死体の首を切り落とし、高所に駆け上がると、自分の腹を十字に裂き、手で内臓を取り出し、その首を己の腹に押し込んで、喉に刀の切っ先を向け、地面にうつ伏せになり自害する。その立派な死に様を誰もが称えた。

p375.

Ⅲ.春の先取り―古典遊覧―

私は一見自己承認欲求が強そうだが実は自己承認欲求が強い。
凡俗にも通じる通俗的な話題を扱って、めちゃくちゃ「いいね」を稼いで、飲み会の席で(行ったことも誘われたこともないけど)
「いや、俺こう見えてもその筋では有名人なんだよね」
みたいな、この世に不幸しかもたらさない自慢をするのが夢である。

よって「春の待ち切れないあなたへ〜桜の出てくる文学十選〜」
みたいな中身スカスカの記事でも書こうと思ったが、さすがに気が咎める。
思えばこうして念仏を疎かにし、人々を仏道へ導こうともせず、下手すると私は山のような書物を抱え浄土の蓮の花に閉じ込められるかもしれない。

幸い私には生半可な古典の知識がある。
今の時代忙しくて手を回す余裕のない方も多いだろう―桜の出てくる古典を紹介し、風が吹けば塵と化す善行を身勝手に積もうと思う。
使ったのは(ほぼ)新潮日本古典集成。素晴らしいシリーズである。いつも地面に五回頭を叩きつけてから読んでいる。
ただ注釈が充実「しすぎている」という贅沢な悩みがあるため、引用は必要最低限に抑えた。興味のある方はぜひ直接お手に取ってほしい。 
(私の扱い損ねた古典があれば(煩雑になるので和歌は除いている)、ぜひコメントで教えてほしい。私の手柄にします。)

花桜折る少将

タイトルだけ見ると美しいのですが、実際はなかなか残酷な話です(なので私は少し苦手です)。
昔から、平安朝の貴公子がやることは決まっていました。そうですね、真夜中に美女をさらって強引に関係を持つ(花桜を手折る)ことです。
この話も、この類の「貴公子物語」―源氏物語に代表される―をパロディー化したものとして読めます。

少将は首尾よく姫君を攫うのですが、その姫君は「古びたる声にて、「いなや、こは、たれそ」とのたまふ。」しゃがれた声で、「いやはや、これはまあ、誰なの?」と仰る。
そう、彼が攫ったのは、哀れな姫君の哀れなお祖母様ばあさまでした……という皮肉たっぷりなお話です。けれど人の老いをいたぶるように笑うこの下り、私はどうしても好きにはなれません。

それでも、例えば以下の箇所は素直に美しいと思います。

(略)暮れゆくほどの空、いたうかすみこめて、花のいといとおもしろく散りみだるる夕ばえを(略)ながめ出でたまへる御かたち、いはむかたなく光みちて、花のにほひも、無下にけおさるる心ちぞする。
私訳:霞の立ち込めて、花の極めて風雅に散っては乱れる夕暮れの景色を見つめる少将のお姿は、例えようなく光溢れるようで、花の色艶いろつやもひたすら喪われていくようだった。

京極殿にて古歌をながむる音有ること

今昔物語に収められたとても美しい鬼の話です。
「今は昔」のこと。一条天皇のお后の、彰子が道長の住む京極殿におわした頃のこと。
「花の盛にて、南面みなみおもての桜えもいはき乱れ(注:咲き乱れ)たりけるに」「いみじく気高く神さびたるこゑて」

こぼれてにほふ花さくらかな

と、何者かが和歌を詠じます。
(注:上の句は「浅緑野辺のべかすみはつつめども」盛りの花びらを霞に喩えつつ、本物の霞から零れ落ちる桜の様子も重ねられています)

屋敷の人々は慌てふためいてこの声の主を探しますが見つからない。
そこで連絡を受けた宇治殿に住む、時の関白頼通よりみちは、「其れは其この(欠損、「くせ」か)にて、常に然様さやうに長め候ふなり」―それはそこの慣わしで、いつもそのように歌を詠じる声がするのです、とお答えになる。

物の怪、あるいは鬼神の類が、この和歌を素晴らしく思うにつけ、桜を見るたび(興深くなり)、このように詠じたのではないか。
当時の人々はそのように想像した、とのことです。

義経千本桜

今、日曜劇場で「三上先生」というドラマがやっていますね。
いい加減、若い役者に教師が説教垂れて、問題がポンと解決するこの安易な筋立ては止めてほしいと思いますが、それはそれとして私たちはやはり、
「負け組と思われた人間が実はすごい力を持っている」
展開が好きなようです。
大昔の「GTO」の鬼塚教師は元暴走族で、三上先生は文科省から左遷された官僚。思えばライトノベルでも、
「魔法も使えない魔法使いはいらないって勇者一行に言われたので田舎で悠々自適なスローライフ〜今さら戻ってこいと言われても畑の世話があるんで無理です〜」
みたいなタイトル、多いでしょう。

話を戻すと源義経もこのタイプ。源頼朝に追われ、最期は奥州の僻地で自害する、まさに大衆のヒーローとなる資格を備えたキャラクターだったわけです。
……と、これだけ喋って何ですが、実は原作の義経千本桜、さほど桜が出てこない。
そう、現在の演出にある、千本桜が花盛りの吉野山は、竹田出雲の原作時点では存在しないのです。

代わりに登場人物(?)の、愛らしい狐の話をさせてください。
彼の名は狐忠信きつねただのぶ
両親の皮が張られた初音の鼓を護るため義経一行に付き添いますが、本物の忠信(佐藤忠信)が現れたことによって正体がばれ、その場を去ります。
ところが、初音の鼓は「ふしぎやいでず。」鼓になってなお「魂残す」初音の鼓は、「親子の別れを悲しんで音をとめた」のです。
義経は「人ならぬ身も夫程それほどに。子故に物を思ふか」と深く哀れに思い、思えば自分も親子の縁も浅く、親代わりの兄の頼朝にも追われる身とあれば、狐忠信の親と生き別れ、果ては畜生として生きる業縁(輪廻転生で背負った罪業)もつくづく「身につまさ」れ、狐忠信を呼び戻し、初音の鼓を手渡します。狐忠信はその礼に追手を化かしに化かし、バトル漫画さながらの勢いで倒していきます。
また彼の狐言葉も見どころです。例えば「桓武天皇」なら、「カーンム天皇」と伸びてしまう。なかなか愉快でしょう?(「乾坤一擲けんこんいってき」なら「ケーンコーンイッンテキ」という感じですかね)玉水物語の狐さんといい勝負の可愛さです。
しかし、もう二度と読みたくはありません。筋が取っ散らばりすぎです。

その他の桜―伊勢物語、謡曲など―

他に、源氏物語「若菜」の桜とか(光源氏の運命が頽落たいらくする瞬間にこの情景を持ち込む紫式部という人が恐ろしいです)、謡曲なら束の間の花盛りに死の気配が差し込む熊野ゆや、老桜の精と西行法師が語り合う西行桜、別れ別れの母子が花盛りに再会する桜川、特に後二つの

(略)白むは花の/影なりけり(略)山陰やまかげに残る夜桜の/花の枕の/夢は覚めにけり/夢は覚めにけり/嵐も雪も散り敷くや/花を踏んでは/同じく惜しむ少年の/春の夜は明けにけりや(略)
(注:「少年の春」は「ともしびを背けては 共に憐れむ深夜の月、花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」という白楽天の詩句から取られています)

「西行桜」

(略)山風の/奥なる花を誘うござめれ/流れぬさきに花掬はん/げにげに見れば山颪ヤマオロシの/木々の梢に吹き落ちて/花の水嵩ミカサはしろたへの/波かと見れば上より散る/桜か/雪か/波か/花かと/浮き立つ波の/川風に
散ればぞ波もさくら川/散ればぞ波もさくら川/流れる花を掬はん
花のもとに/帰らんことを忘れ水の/雪を受けたる花の袖
(注:「花の水嵩」は、花が水面に散り積もるのを、水嵩を増す川に掛けたのでしょう)

「桜川」

は夢のように美しい下りです。

最後に伊勢物語二十九段を引用して終わりとします。

むかし、東宮の女御の御方の花の賀に、召しあづけられたるに、
     花に飽かぬなげきはいつもせしかども
      今日けふのこよひに似る時はなし
私訳:昔、二条后の身内の方の集められた、十年ごとの年齢の祝賀である花の賀で、仕事をしていた業平は歌を詠んで、
「いくら見ても見飽きない(にもかかわらず無情に散る)桜を毎年嘆いてきたけれど、それも今日の今宵に似る一時は未だありませんでした」
(注:在原業平はかつて二条后と深く愛し合っていましたが、やがて清和天皇の下に嫁ぎ、手の届かない存在となってしまいました。(彼女を業平が攫うも連れ戻されてしまう六段の和歌、「白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを」はご存じの方も多いでしょう)
四段の和歌「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」もこの二十九段の和歌も、いずれも業平の無念を伝え哀れ深いものです。
しかし表面上、この和歌は花の賀の終わりを惜しむ臣下の歌として通ります。その「公」(臣下としての寿ことほぎ)と「私」(押し殺した二条后への愛情)がせめぎ合うところに、この話の面白さはあります)

Ⅳ.現代文学など「キッドナップ・ツアー」「鈍色幻視行」「のみのままで」「星が吸う水」「魔天使マテリアル」「倒立する塔の殺人」「コード・ブッダ/機械仏教史縁起」「魔王」

角田光代氏の「キッドナップ・ツアー」は、ハルという少女が父親に「ユウカイ」される愉快痛快な物語だが、反面、ハルが母と暮らす日常世界から異界へ向かう道行として、特に途中の夜の海に父と二人で浮かぶ場面など、死の匂いが微かに漂って印象深い。筆者は不治の家族小説アレルギーを発症しているため充分楽しめなかったが、お勧めである。

恩田陸氏の「鈍色幻視行」は、読む前こそ後期エラリー・クイーン的問題(証拠の確からしさへの疑い)を扱った作品と聞いて(その厚みも伴い)楽しみにしていたが、いざ読むと映像化が試みられるたび人を殺す奇書「夜果つるところ」のゴシック・ロマンス的魅力は充分示されず、不用意に多い登場人物も相まって、非日常性の煌めきはない。
肝心のミステリパートも帽子を目深に被って別人に成りすましていただの、江戸川乱歩の夢想劇でなければ許されない緩さで―本作に夢の香気は乏しいから―ただ散漫な読み心地だけ残る。

綿矢りさ氏ののみのまま」は谷崎潤一郎「卍」から発想された、二人の女性が互いの彼氏を振って恋に落ちる小説ですが、日本国憲法に敗北していました。
そう、人間が個人の自由を(公共の福祉に反しない限り)行使できるこの日本国で、いくら略奪愛だの謳ったところで生ぬるくなるに決まっているのです(森茉莉の「日曜日には僕は行かない」は例外ですが)。
なので私は提案しますが、皆で日本保◯党に投票しましょう。
そして家父長制とお見合い結婚と姦通罪を復活させ、妻側の離婚は死刑に、夫の暴力は妻の「しつけ」であるとする法律を成立させましょう。
その頃私は南極でペンギンと暮らしていると思いますが、女性による略奪愛(あるいは酒呑みの夫に暴力を振るわれる佳人と肉体労働者の粗野だが心根の素直な青年の不倫)は、もう少し輝くに違いありません。
とかく日本国憲法は不倫、略奪愛、その他諸々悪徳のエロスを人権の太陽光の下で漏れなく消毒してしまうのです(素晴らしいことですよ!)。
しかし小説家には辛い時代であるのも事実で、本作にも谷崎の暗くうごめくエロティシズムはなく、真昼のプールの塩素臭だけが立ち込めています。
(まあ、今の自民党は共同親権やら夫婦別姓反対やら、よほどこの手の悪徳がお好きなようですから、この国も間もなく大日本帝国から理想を抜いて裏金を加えたドブ川のようになるでしょう)

村田沙耶香氏の「星が吸う水」は挑発的な作品で、タイトルの「水」はなんと「小便」である。
本筋に入る前に。村田氏の作品を読むたび、「この人は敵の多い作家だな」と思う。作家にも自分の感受性に籠もっていられる鏡花タイプと外界と向き合い闘い続ける三島タイプがいるが、村田氏は圧倒的後者である。
三島において防衛する砦の名は「美」だった。村田氏は「人間」だろう。
問題は三島の切実な美の追求性がときに現実(戦後日本)への失望からシニシズムに堕すように、村田氏の人間の多義性への希求もときに退屈なポリコレと似通ってしまう。
そうした「新しい道徳の教科書」的価値観からどれだけ離れられるかに村田氏の作品の出来は大きく左右されるように(私見としては)思う。「コンビニ人間」は上手かった。本作は微妙である。
過去も未来も気にせず性欲を処理するために男を求める鶴子と、男の目を気にし売れ残りを気にするの対比はやや図式的と思うし、男性の性欲から価値付けられる「女性性」への問題提起も単線的である。
むしろ、村田氏の離人症(あるいは宇宙人)めいた眼差しが見つめる現実世界の描写に、文学の持つ、「今ここ」を得体の知れない魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする異界へと裏返す魔術の匂いは立ち込めている。

志保(注:アセクシャルの女性)の爪は、手も足も全部、均一な藍色に塗られていて、それがあまりになめらかなので指の一部が消滅しているように見えた。

p23.

(略)サングラスごしには(略)窓の四角い光の形だけのこっている建物は巨大な灯籠とうろうに見えた。

p41.

(鶴子の現在の恋人、武人を鶴子がセックスに誘うときの声は)誘拐犯が少女を誘うような、自分でも笑いたくなるほど下心丸出しの優しい声だった。

p63.

藤崎あゆな「魔天使マテリアル」は十代前半で読むべき本である。
即ちニキビと、自意識と、ケチ臭い感傷癖と、親と教師への月並みな反抗を抱え、しかし車の窓越しに見る夜の街が宝石のように輝いて見える、ある一時代に読むべき聖書バイブルである。
……などと大層なことを書いたのは、私が第三巻までしか読んでいないことの言い訳です。このキラキラした明日がある世界に、もう私は足を踏み込めない。
子ども向けでありながら教訓的な要素が少なく、姉のサーヤと弟のレーヤの関係性は魅力的です。マテリアルという超能力を用いて悪魔と闘う物語には起伏があり、読者を飽きさせません。
弟のレーヤが姉を護るとき、マテリアルの力を発動するとき言う文句も素敵です。

光よ!万物を弾く盾となれ!

p178.

光よ!災いをはねける壁となれ!

p181.

何より、敵となる悪魔が人に取り憑く(祓えば元に戻る)のではなく、人間に擬態し襲ってくる設定は、より「悪」の描写として純粋で好きです(私は不治の「悪役の同情できる過去アレルギー」を発症しています)。

なお、紅玉いづき氏の「ミミズクと夜の王」を読んだときも同じことを思いました。異種愛を書いた良作です、ぜひ読んでみてください。

皆川博子氏の「倒立する塔の殺人」は戦時中の女学校を巡るミステリ。江戸川乱歩「鏡地獄」を連想させるトリックが用いられている。
ただ手放しで褒めにくい作品で、一言で纏めるなら「主人公が行方不明」なのである。
真相:普通の鏡の裏にもう一つ鏡を取り付け、左右が反転しない鏡のある部屋に、友人にカンニングをそそのかした罰として閉じ込められ正気を失くした、指を欠いた図書司書がジャスミンの毒を利用した茶で閉じ込めた教師を殺した。
問題はそこに至るまでに語られた戦時中の女学校で生きる欣子千枝の物語が添え物になっていることである。
本筋の鏡による犯行に二人の物語や時代性が絡んでいれば相当の傑作だが、この両者が水と油のように充分混ざらないため、
a.トリックは面白いが、ぽっと出の感を否めない図書司書の物語
b.戦時中の空気を反映し魅力的な欣子と千枝の女学校物語
が一つの小説の中でバラバラに成り立っている感が否めない。素材は一級だが、調味料が一つ欠けた料理といった印象である。
とはいえ、どちらもよく練れている。特に作中内小説を用いた眩惑的な物語の進め方は、日本三大奇書を愛する方には刺さるのではないか。

円城塔氏の「コード・ブッダ/機械仏教史縁起」は純文学と見せかけたSFと見せかけた頭のいい筒井康隆の新作である。
なぜかAI化したブッダが悟りを開くところから話は始まり、現実の仏教史にIT業界の内輪ノリを混ぜたトンチキホラ話が続く。

「阿難よ」ブッダ・チャットボット(注:AI化されたブッダの複製を指す)は微笑みかける。「そんなわけがないだろう」
このブッダ・チャットボットの言葉を耳にした瞬間、リバーシの対戦ボットはすみやかに悟りを得、ブッダ・リバーシとなった。

p76.

「人間なおもて極楽往生す。況んやAIをや」

p314.

人生の時間を無駄にしたい方はぜひ読んでほしい。

伊坂幸太郎氏の「魔王」は異能力バトルもの。
「他人に自分の言葉を信じさせる」能力を持つ政治家の犬飼は(国民◯主党のように)分かりやすい政策を打ち出し、実際はその能力を用いて日本にファシズムを持ち込もうとしている。
それと闘うのは「相手に思い通りの言葉を喋らせる」能力を持つ平凡な市民の安藤である。
エンタメ性と主題性を両立させる野心を感じて快い反面、話が主人公の身内に終始するのはファシズムという社会の病を扱う作品としてやや物足りない感がある。
ただファシズムの不気味さを、たまたまピタリと一列に並んだスイカの種と結びつける下りには詩的飛躍があって記憶に残った。

Ⅴ.波木銅「万事快調オール・グリーンズ

「私たちの人生ってそんな、ブックオフで百円で買えるような物語じゃないから」

p90.

完璧な勃起などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね(略)

p230.

茨城県の東海村の工業高校という三重苦に(筆者は邪悪な地域差別主義者です)苦しむ三人の女子高生が屋上で大麻を育てて一発逆転を狙うという、明らかにリスクとリターンが釣り合わない賭けに打って出る、青春クライムノベルです。
ただ、むしろ道中のタランティーノ的無駄に溢れた会話のセンスが私には魅力的でした。

(女はパンを食べかけで鞄にしまうという偏見を持つ、大麻を育てていたビニールハウスで性行為をしていた男子高校生との会話)
「食い物を粗末にするなよ」
「やだね。どうせしょうもねぇ人生なんだから、食い物くらい好きに粗末にさせろ。私は食い物を粗末にするし、イライラしたら物に当たる」
「最悪じゃねえか」
「お前に言われたかねぇよ。ビニールハウス・ファッカーがよ」

p232.
   

本作の魅力の多くは、この会話文の巧みさに拠ります。思わず口にしたくなる天才的な会話文です。
しかしこのユーモラスさとは真逆の、ドラッグレイプの被害に遭うなど、暴力と悪意に満ちた世界に、本作の女子高生たちは生きています。
そのヒリヒリした「サバイバル」の感覚は―他人事だから言える言葉ではありますが―鮮やかです。
なお、本作の気に入った方はぜひ素九鬼子「旅の重さ」、中脇初枝氏の「魚のように」も、それぞれお手に取って下さると嬉しいです。

Ⅵ.北野武「Broken Rage」

……何と言ったらいいのやら……。
いや、ねずみ、という名の殺し屋が活躍するクライム・アクションが前半、そのパロディーが後半なのだが……、これがまったく笑えない。
笑いのツボが違うとか以前に、小説で言うなら「文体が古い」。
北野武演じる老人が何度もずっこけるシーンも笑いにしては寒々しすぎるが、他にも
1.刑事たちの覗き込む望遠鏡の先が視力検査だった2.覆面捜査に協力するねずみが何度もプロレスの覆面を被る
といった、年末の忘年会みたいなギャグ(?)が連発される。
私は漫才があまり好きでないのだけれど、理由がわかった気がする。
「こちらを笑わせる」という目的に、すべてが賭けられていると、その目的が(今回のように)外れたとき、ひどく無意味な、乾いた抽象画のような、寒々しいものだけが残ってしまう。
そんなに笑わせなくていい、ちゃんと美味いもの食って、温かいところで寝てくれと、柄にもなく言いたくなる。

でも、途中の刑事二人と北野武の掛け合いは、仲のよさが画面越しに伝わってきてほんわかした。ここだけ一時間見たかったぐらい。
(追記)無理やり(ほんとに無理やり)意味をつけるなら、本編の最後は「spin off off」、つまり、スピンオフのスピンオフで終わる。
単なる馬鹿調子と言えばそうだが、思えば私たちもまた、誰かの生の、自分の生の、スピンオフのスピンオフのスピンオフのような、ボロ布のような今日を生きている。
そう思うと、この最後はねずみがそこかしこに体をぶつけ、人が「蝶と戦車」の調子で死に続けるこの無意味な世界に留まり(生き)続けねばならない、かなり悲惨な結末と取れないこともない……かもしれない。

参考記事



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