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『21世紀の「頭がいい」とは何か?』を考える。(前編)

 頭がいい、という事については、ずっと関心を持たれているけれど、人類は知力で生き残ってきたのだから、それも当然だと思う。

ゼロから考える力

「あなたは、頭が良いと思いますか?」…なんとこれ、イギリス・ケンブリッジ大学で実際に出た面接問題!問われるのは「ゼロから考える力」

(「NHK」より)

 世界の大学の入試をバラエティーとして放送している番組の中で、面接問題として出題されて、それに対して、社会的に「頭がいい」とされている出演者が模擬面接に挑む、という形をとっていた。

 それは、答えがないことを考える、という意味で「ゼロから考える力」という言葉につながっているようなのだけど、でも、まったくのゼロではなく、何かしらの考える材料があるのに、などとは思っていたが、番組としては興味深かった。

 その話の中で、定義についての話題が出ていた。

 つまり、自分が頭がいいかどうかを語る前に、「頭がいいというのは、どういうことか」を仮説でいいので定義する、が大事らしいということは、聞いていて少しわかった。

 そして、改めて考えれば、「頭がいい」とは何か?は、実は時代によって変化してきていて、同時代を生きている人の間でも、「頭がいい」の定義は違ってくるような気がする。


紀元前

 とても浅い知識に過ぎないけれど、世界の4大文明があったのは、紀元前のことのはずだ。

 それは、どこも川のそばだったり、気候が温暖だったり、と生存に有利な環境が共通しているらしいけれど、だからこそ、考える余裕ができて、道具や文字を生み出せたのだとは思う。

 人類は肉体的には、他の動物と比べても弱いから、頭脳を使って生き延びて発展してきたのは明らかで、道具や文字ができることによって生存の確率が高くなったこともあるだろうから、そういうものをつくりだす人は、大事にされたはずだ。

 だけど、それぞれの文明が同時多発的に発生したのだろうから、誰か突出した頭の良い人間がいたかもしれないが、おそらく知恵を集めるということはしただろう。

 それでも、その世界の中では、何かを覚えるのは、文明を伝えるという意味で重視されたと思うけれど、それは記憶力の優れた人間は、役割としての頭の良さであって、それよりも、今の生活を少しでも安定させ、豊かにしていくための工夫や発明を考え出すような「頭の良さ」の方が、おそらくはより大事にされ、ある種の魔法のようにも思えたかもしれない。

 だから、紀元前で、文明ができていく段階では、「頭がいい」というのは、これまでにないけれど、みんなの役に立つこと、生活が豊かになることを考え出せる人、ということになると思う。

 おそらくは人類初期の「頭の良さ」というのは、それこそ「ゼロから何かを生み出せるような頭の良さ」だと思う。

枢軸時代

 さらに、「頭がいいとは何か」を考えるとすれば、この「枢軸時代」のことは避けて通れないのだと思う。

カール・ヤスパースは、1949年に『歴史の起原と目標』(Vom Ursprung und Ziel der Geschichte) を刊行して自らの歴史観を述べ、あわせて歴史の将来と歴史の意味について語っており[注釈 4]、「第1部 世界史/ 第1章 枢軸時代」では、紀元前500年頃を中心とする前後300年の幅をもつ時代を「枢軸時代」と称して、その輪郭を叙述して読者に注意を呼びかけている[3]

この時期には東西にすぐれた思想家が輩出し、その特徴は、「自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定め」[4]、人びとが「人間いかに生きるべきか」を考えるようになった点にあり、これらの思想は、のちのあらゆる人類の思想の根源となったことを指摘している。

(「Weblio辞書」より)

「Weblio辞書」によると、ヤスパースが挙げたのは、中国では孔子や老子をはじめとした多くの思想家。インドには仏陀が生まれ、様々な哲学が生まれる。同様に、中東でも、さらにはギリシャにもホメロスや哲学者たち-パルメニデス、ヘラクレイトス、プラトン。さらにアルキメデスといった名前だった。

 これだけの偉大な思想家と言える人たちが、それぞれ知り合うこともなく、一斉に世界中に現れたのは、それだけ人類が豊かになった、ということでもあるだろうけれど、この時期の「頭の良さ」は、もしかしたらかなり突出しているのかもしれない。

 「人間とは何か」の本質を考えられることが、この時期の「頭の良さ」なのだと思う。

 これは、その後の時代を考えても、これだけ「頭のいい人」が世界各地で誕生した、特殊な優秀な時代なのかもしれない。

軍師 

 そこから、もう少し時代が経って、文明が行き渡り始め、それぞれの地方に、今とは違うかもしれないけれど、「国」のようなシステムができてくると、人間が住める場所には限りがあるし、豊かな土地はもっと少ないから、それを奪い合うことは容易に想像できる。

 さらには、自分の支配する場所を増やしたい、と強い欲望を持った人間も生まれてくるとも予想できるのは、まだ様々な状況が固まっていないから、世界征服、といったビジョンを持つことがまだ可能だったと思えるからだ。

 そうなると、力で自分の領土を拡大しようとする動きが現れて、戦争状態になる。

 それも4大文明と同様に、人類の進化に合わせて起こってくるようだけど、力の時代になり、個人戦から団体戦の戦争のような争いになると、その戦い方は複雑になってくるはずだ。

 そうなると、どう戦うかによって、同じ戦力であっても勝ち負けが分かれてくるはずで、単純に比べられないけれど、現代のスポーツにおいても、名監督という存在があるように、戦いの時代でも優れた大将がいて、さらに戦い方を考える軍師といわれる存在が重要になってくる。

 その中で著名なのが、諸葛孔明という存在だと思う(私でも知っているくらい)。最近では、アニメやドラマでも「パリピ孔明」として名前を聞いたから、やはり、軍師として圧倒的に有名なのだと思った。

 
 この軍師的な頭のよさは、自軍の力と、敵軍の力を正確に把握し、その上で、敵も味方も、関わっている全ての人の心理を理解した上で、戦った時に、今この時ならどう気持ちが動いていくかを予測し、そうした能力が優れていることで、優秀な軍師と言われるのだと思う。

 そうなると、戦いの時代に尊重された「頭の良さ」は、人の心の動きに通じる能力が高いから、今で言えばカウンセラー的な有能さも必要としていたのではないだろうか。だから、その柔らかい力は、大将のように、ひたすら戦う能力とは別なので、分業制になっているのかもしれない。

 ただ、その「頭の良さ」は、戦いに勝つという結果のためのものだから、冷酷さとセットなのだとは思う。

学問の神様

 戦争が落ち着き、権力者が統治する社会になると、「頭のいい」人間は、その中で生きていくしかない。どれだけ「頭がいい」人でも、戦いが日常でなくなれば、軍師はあまり必要でなくなり、場合によっては、権力者によって疎まれ、抹殺されてしまってもおかしくない。

 孔子が、権力を継承するときに「禅譲」を理想とし、「世襲」を良きものとしなかったらしいけれど、それは実際には「世襲」が多いということなのだと思うから、権力を持つ家に生まれなければ、世の中が安定した後では、出世できる可能性は低くなる。

 例えば、中国の歴史上での「頭のいい人間」のあり方は、個人的な浅い知識では、歴史を記録する役割がその一つのはずだ。それも、その時の権力者の意に沿うようなものを書かないと命がなくなったりする。

 それだけ「頭の良さ」というものは、重視されていないような気もするし、そうした時代では、文章を書くことで「頭の良さ」を発揮していたように思えるが、それだけに権力機構の中で、それほど恵まれた地位にいなかった、とも言われているはずだ。

 そういえば、日本でも、貴族が支配する社会で、「学問の神様」と言われる存在だったから、間違いなく、当時の「頭のいい人」だったのが菅原道真だろう。

 菅原道真は、平安時代に活躍した学者・政治家です。幼少期より文才に優れており、勉学に励んで出世を重ねていきました。民衆や天皇からも信頼され、学者の家系では異例ともいえる右大臣まで昇進しますが、政略による左遷が決まり、無念のうちに死去してしまうなど、波乱に満ちた人生でした。

(「マイナビニュース」より)

 やはり、学者の家系では「異例ともいえる右大臣」と書かれているので、学者という「頭がいい人」は世間的な出世は難しいということなのだろう。だから、政治的にも才能があった菅原道真は、より「神様」扱いされるのかもしれない。

菅原道真は父同様に詩の才能があり、5歳で和歌を詠み始めました。道真の邸宅には梅があり、常に梅を眺めた生活を送っていたことから、梅に関する詩が多く残されています。

菅原道真は、33歳で学者の最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に任命されています。

まず、18歳で紀伝道を専攻する学生を指す「文章生(もんじょうしょう)」に合格し、その後は文章生のうち2名が選ばれる「文章得業生(もんじょうとくごうしょう)」となりました。
祖父の清公と父の是善も文章博士であったため、三世代に渡ってその文才ぶりは継承されていったわけです。

(「マイナビニュース」より)

 ただ、その「学問」は、数学など理数系(そうした学問があったかどうかもわからないが)ではなく、漢詩を詠んだり、もしくは「文章博士」という名称だから、あくまでも文系の才能ではないかと推測はできる。

 だから、おそらくは力で権力の座についた人間が支配している社会では、「頭がいい人」というのは、歴史を記録する人であり、詩を詠む人であり、どちらかといえば、文系で、アーティスティックな才能がある人ではないだろうか。

 つまりは、力で統治された時代の「頭の良さ」とは、その社会に精神的な潤いをもたらすような能力のような気がする。

 現代で言えば、「芸術家」としての「頭の良さ」だから、感覚の豊かさを伝えられる「頭の良さ」なのだと思う。だからこそ、現実的な社会では、政治的な能力も発揮して出世もする、ということが稀だったのかもしれない。

科学の時代

 とても浅い振り返りに過ぎないけれど、人類にとって「頭がいい」のは、紀元前から長いこと「文系」的な「頭の良さ」が重視されてきたような印象なのだけど、それが、17世紀を境に大きく変わっていったようだった。

17世紀のヨーロッパにおいて、自然科学の研究は著しく変化した。それまでも自然科学と言われるものが存在していなかったわけではないが、それは錬金術のようなことからおこった即物的な技法や、せいぜいアリストテレス的な自然をそのまま観察して理屈を導く出すことに留まり、カトリック教会の超自然的な世界観を克服することは出来なかった。ところがルネサンス宗教改革に伴ってそれまでの神中心の世界観の重しが取り除かれ、大航海時代の展開によって圧倒的な知識情報量の増大がもたらされ、また主権国家間の抗争は戦争を通じて新たな科学技術の開発に迫られたという背景もあって、17世紀の自然科学の革新がもたらされた。まさに「17世紀の危機」が「科学革命」の舞台となった、と言うことが出来る。

それ以前の科学に対し、何が変わったのかというと、一つは望遠鏡、顕微鏡などの用具の発明に伴う観察・実験という方法論の精密さが実現したこと、数学が自然現象の理論付けに用いられるようになった、ということであろう。その先駆的な役割を果たしたのがガリレオ=ガリレイケプラーデカルトなどであり、17世紀の科学を体系づけたのがニュートンであったといえる。ケプラーは惑星の運行の法則を発見、ガリレオは望遠鏡による天体の観測によって地動説を証明し、物体落下の法則を実験と数学的公式化の道を開き、デカルトは真理の探究での数学的合理論の基礎を探求した。ニュートンは微分積分という新しい数学を創出し、ニュートン力学という、20世紀の原子物理学が出現するまでの自然科学の基本体系をつくりあげた。

(「世界史の窓」より)

 西洋で17世紀まで、科学が発展しなかった大きな理由の一つが「神の存在」であったことは、わかっているつもりだったけれど、改めて実感としては、知らないことだった。そういう制限によって(そういう言い方をすると信じている方には失礼だとも思うが)、人間の発想にブレーキがかかっていたかと思うと、それは、実はいつの時代にもあるのではないかとも思う。

 ただ、17世紀に本格化した「科学の時代」は、その後の産業革命にもつながっていくだろうし、21世紀の現在に至るまで、その「科学の時代」が続いている。

 だから、それ以降、「頭がいい人」の基準の一つが、「科学的に」新しいことを発見したり、「科学的」に新しいものを発明したりできる能力になった。

 それは、客観的という言葉とともに、他の人にもその「頭の良さ」がわかりやすいことが多い。

 それでも、あまりにも新しい発見などは、それが新しいほど、他の人には理解されにくいから、最初は「頭がいい人」というよりは、「変わった人」として扱われていることが少なくない印象まである。

資本主義

 科学の時代を経て、産業革命を迎え、工業化が進むと、大量に商品が作られるようになり、同時に、大量に消費される時代になり、資本主義が本格化する。

 そうした時代になると、「お金を儲けるための頭の良さ」といった事が、とても重視されるようになり、ビジネスのアイデアや実行、さらには、どうすればより売れるか?といったことでマーケティングといった方法も洗練されていき、そこに「頭のいい人」が集まり、より富を増やすようになっていったように思える。

 科学の時代と同様に資本主義の時代は、21世紀の今も続いていて、だから、資本主義に適応し、より利潤を生むことができる能力がある人を「頭がいい」と言われる状況も続いている。

 ただ、そこで、大きく富を生むことができる方法自体を開発し、自身で起業したりする人たちは、「とても頭がいい」のだと思うが、それは当然ながらごく一握りの人たちに限られる。

 それは、21世紀になってから、これまでの人類の科学的な成果と、自分自身の資本主義の中で、より富を得られる能力を生かして、大成功した人たちの例を挙げれば、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの創業者たちのはずだ。

 インターネットという、まだ、どう使えば効果的な分からない新しい技術を、より早く生かしたとも言えるから、これから先に、こうした「とても頭がいい人たち」が登場するとしても、今は、想像もできない形で成功すること自体は、予測ができそうだ。

学歴

 とても未熟だとは思うけれど、人類の歴史を振り返ると、その時その時で、「頭の良さ」の基準は変わる。

 ただ、歴史で考えると、その流れを変え、時代を担うような、一部の突出した「頭のいい人」の話になりがちだ。

 だから、もう少し身近な「頭の良さ」を考えると、日本の場合は、明治以来の「富国強兵」の文化があり、戦後も高度経済成長で、どちらも目指すべきなのは、先行する西欧社会だったので、目標がはっきりしていて、やるべきことがわかっていたから、極端に言えば、任務遂行が素早くできる人が「頭がいい」とされていたはずだ。

 これをやりなさい。と提示されて、それをできる限り早く処理していく。
 そうした「頭の良さ」を持つ人たちが、いわゆる「エリート」になっていた。

 それは、追いつくべき目標(西洋)という「答え」は決まっていて、そこに追いつくための能力が要求されてきたからだったと思う。

 その能力は、学校の入学試験という問題を見て、そこに辿り着くべき答えを早く見極め、そこに向かって、なるべく早くゴールするために「頭の良さ」が要求される場面と、かなり似ていると思われる。

 だから、試験の成績の良さと、「頭の良さ」は、社会の中で一致している時間は長かった。明治の頃から、戦争と敗戦を挟んで、第2次大戦以後のしばらくまでは、大学という学歴と「頭の良さ」は比較的一致していた、と思う。

 だからこそ、最も入りにくい大学が、「エリート」とみなされていたし、それは、戦後も辿り着くべき目標(西欧)は決まっていたから、その「正答」に向けて、なるべく早く到着できる能力が「頭の良さ」として評価されていて、それは、社会的にも共有される価値観だったようだ。

 そのことで、学力と「頭の良さ」は、一致して見られていて、大学生が増えてくると、その中で「頭の良さ」の序列をつけるためには、偏差値が、おそらく便利だった。

 それが、長く続く。

「学歴」≒「偏差値の高さ」≒「頭の良さ」ということへの信頼が完全に終わり始めたのは、バブル崩壊、と言われる頃だったはずだ。

地頭の良さ

「学歴」と「頭の良さ」が一致する、ということが抵抗なく受け入れられるためには、社会全体で、正答に向けてなるべく早く辿り着く能力が、社会にプラスをもたらすことが必要になってくる。

 そういう時は、いわゆる「いい学校」に通っている人は、「頭がいい」ということがすんなり受け入れられていたはずだった。

 だが、バブル崩壊以降は、おそらくは、もう「西洋」、特にアメリカが目指す目標でなくなっていたと思う。

 すでに、「目標」という名前の「正答」が分からなくなっていた。

 ソ連が崩壊し、アメリカ自体も、わかりやすい「敵」を失って、もしかしたら「目標」を見失っていたのかもしれないから、よりモデルとはならなくなっていたのだと思う。

 だから、今までの「学歴の高さ」(そういえば、学歴が高低で表されるのは、権力的なものと関連しているからかもしれない)と、「頭の良さ」が決してイコールで見られなくなってきたのだろう。

 そうした「学歴の高い」人たちは、相変わらず「正答を早く見つける能力」は高かったはずだし、受験勉強の洗練によって、そうした処理能力は、より高くなっていた可能性まで考えられる。

 だけど、すでに、そうした「頭の良さ」が、社会を豊かにしてくれないことに、実は大勢が気づいてしまったサインの一つとして、「頭の良さ」を語るときに使われ始めたのが「地頭の良さ」という表現だった印象がある。

 こうして↑、調べてくれている人もいるのだけど、このブログによると、「地頭」が「頭の良さ」の表現として使われ始めたのが、1990年代のはじめらしいので、やはり、バブルが崩壊して、次のモデルケースを見失い始める時期だと思う。

 安定して、目標がしっかりしている時代と違ってきて、「学歴」と「頭の良さ」が一致しなくなったときに、それだけでは説明できない「頭の良さ」を表すために使われるようになったのが「地頭の良さ」という表現ではないだろうか。

 ただ、「地頭」という表現でわかるように、「学歴」は勉強すれば獲得できる可能性もあるけれど、「地頭」は生まれつきのようなニュアンスがあるから、素質に近い能力でありそうだが、その基準もはっきりしない。

 それでも、「学歴の高さ」に象徴される正答を早く見つける「頭の良さ」だけでは、もうこれからは乗り切れない、という意識が共有されているせいか、「学歴」とは関係ない優秀さを表すために、「地頭の良さ」といった表現は、21世紀になった今でも使われ続けている。

本当に頭がいい人の条件

 もともと、「頭がいい」というのは、答えがないことに関して、考え続け、その上でさまざまな「仮説」を立ててから、さらに自分で検討することによって、これまででなく、これからも必要とされる「思想」を提出できる人だと思う。

 でも、そういう人はいつの時代も少数で、だから、その人は「思想家」だったり「批評家」的な言われ方をされて、尊敬もされるけれど、ただ、今は、難しいことを言う人、として敬遠されるかもしれない。それでも、いつの時代でも必要な存在であることに変わりはないと思う。

 80年代、浅田彰・中沢新一が登場した衝撃、柄谷行人・蓮實重彦の思想、90年代における福田和也・大塚英志・宮台真司の存在感、ゼロ年代に大きな影響を与えた東浩紀。思想と批評がこの一冊でわかる。

(Amazon商品紹介 より)

 これ↑は、この書籍を紹介している文章だけど、ここに挙げられている人たちは、少なくとも「頭がいい人」であるのは間違いない。「学歴的」にも高いし、「地頭もいい」上に、考え続ける持久力と、今は分からないことに対しての創造性もあると思える。

 私は、それこそ「頭がいい」方ではなかったので、こうした思想界の動きのようなものにもそれほど関心もなく、やっとこうした種類の本を読み始めたのは、40歳を過ぎ、だから、もう手遅れかもしれないけれど、面白いし、大事だと思い始めた。

 そして、こうした「頭がいい」と言われている人たちの中で、実際に話す姿を最初に生で見たのは、東浩紀だった。

 東浩紀が自身ではじめた「ゲンロンカフェ」で、さまざまな人と対話をして、それをトークショーとして観覧したのだけど、そのとき、東浩紀が、相手のやや要素の多い話を見事に整理し、その上で、自分の考えをつないだり、積み上げたりする言葉の構築力がすごかったのだけど、さらに、そのスピードが尋常ではなく早く、圧倒的に足が速い人を見るのと同様に、生まれながらの頭の良さを持つ人の気持ちよさ、といったことを感じさせてくれた。

 同時に、こうした「本当に頭のいい人」は、自分が頭がいいと思われるような言動をいちいちはさまないので、聞いている方の思考も、それに完全についていけるわけではないけれど、少し早めてくれるような気がした。

 それまで、自分の頭の良さ、のようなものをアピールするような仕草であったり、言動であったり、言葉も含めて発する人は、結構見てきた気がして、そういう人も、明らかに頭がいい人たちであったのだけど、東浩紀だけを基準にするのは偏っているのかもしれないが、そういうアピールが必要な人は、「本当に頭がいい」わけではないのでは、と疑うようになった。

 この作品↓の中に出てくる東大生に、「自分の頭の良さをアピールすることに神経をとがらせる」ような気配があるような気がする。

独創性・創造性・コミュニケーション能力

 教育という世界の中でも、もしくは社会でも、さらには企業というビジネスの現場でも、「独創性・創造性」の重要性はずっと言われてきた。

 そうした言葉は、個々に例を挙げなくても、30年も40年も、色々な立場の人が訴えてきた印象がある。もちろん、そういった能力は、わかりやすいモデルケースもなく、正解がないこれからの社会には、問題処理能力の高さだけが重視された過去の「頭の良さ」と比べても、とても大事な「頭の良さ」であることは間違いない。

 だが、実際には、今も「頭の良さ」の基準は、処理能力の速さを重視する「学歴」などであることに変わりがないのではないだろうか。

ロジカルであるとは、上手に質問を重ねることができることだ。

質問を重ねず、「わかったこと」にして放棄してしまう。言葉を替えると、これは「思考停止」と同義です。  

質問がうまくできないのはナースだけではない

 医療界全体にはびこる普遍的な問題なんですね。もしかすると、日本全体にはびこる病理といえるかもしれません。(中略)
 官僚同様、医者も頭の回転が速くて、偏差値が高いだけに「答えを出す能力」は秀でています。逆にそれが足かせになって、質問をするのはむしろ人より下手だったりします。プライドの高い医者は多いですが、そのプライドが邪魔してさらに質問はできなくなります。質問するとは「私はわかりません」というカミングアウト、白旗をあげることを意味しますから。    

(「考えることは力になる」より)

 すでに「答え」がわかっている状況であれば、「答えを出す能力」という「頭の良さ」はとても有効に働くはずだ。だが、例えば、今も完全に終息していないコロナ禍において、未知のウイルスへの対応に対して、わからないことが前提で、その上で少しでも有効な対策をとっていくことが大事であると、それは素人でもわかることだと思う。

知性とは知識の総量ではなく、わからないことがわかること

医者も自分の「無知の知」に無自覚な人がほとんどで、したがって上手に質問を重ねるのが苦手です。つまり、医者も案外、ロジカルでないんですね。口が達者な人が多いので、そのように勘違いされてることが多いだけなんです(これ、絶対隣の医者に読ませないでくださいね)。 

(「考えることは力になる」より)

 現在、「頭がいい」と思われている医師でも、この著者の指摘のように「無知の知」に無自覚であるならば、未知の状況に対して「わからないことを前提に考える」能力が欠如しがちで、それが変わらなければ、今後も、未知の感染症に対して、十分に対策が取れない可能性がある、ということだろう。

 それは、現在も完全に終わっていないコロナ禍のように、病気に関しては、医者に頼るしかない人間としては怖いことなのは間違いない。

 同時に、同じ医学の関係者でありながら、こうした指摘をする著者のプロフィールによると、東京という「中央」とはあまり関係がないまま、さらには、海外でキャリアを積んできたことと無関係ではないのでは、と予測ができる。

 他の人とは違う視点を持てる「独創性」を大事にされる環境にいた経験がなければ、こうした指摘自体ができないように思える。著者は、そうした「頭の良さ」が元々あったのだろうけれど、それと同時に、その能力を育ててくれる場所があったと推測ができる。

「学歴フィルター」

 だが、日本の社会では、言葉としての「独創性・創造性」の大事さはずっと言われてきているのに、それに対して実質が伴っていないことも、さまざまな視点から指摘されている。

日本の企業の採用担当者にヒアリング調査をすると、これまで無業や非正社員の時期があった若者に対する採用を躊躇する理由として、「そういう人は自由が好きなんでしょう。うちの会社に骨をうずめて一生懸命頑張ってくれる気になってくれるかどうかわからないんですよね」などと答える。しかし、それは明らかに経歴に対する差別である。

(「もじれる社会」より)

 本当に「独創性」を重視するのであれば、他の人とは違う経歴を持った人間が入社を希望してきた時に、積極的に関心を向けるはずだけど、そうはなっていない。

無業の若者に対する調査結果では、就労上の阻害要因として、自分にどのような能力があるのかわからないという不安が多く挙げられている。それは、日本社会においては具体的な職業能力についての教育や、それを可視化する基準・指標の整備が非常に希薄であり、「コミュニケーション能力」「人間力」「生きる力」などの無内容な言葉でしか表現されないような事態がずっと続いていることの弊害である。 

(「もじれる社会」より)

 現代の「頭の良さ」の程度を考えるときに、その能力をはかるしっかりした基準も、今だにないようだ。ただ、「創造性」や「独創性」だけではなく、最も言われているのが「コミュニケーション力」や「人間力」といった、何かを語っているようでぼんやりとした基準でしかない。

 そうであれば、「学歴」といった指標が、21世紀の現代にフィットしなくなっていると薄々感じながら、表向きは「コミュニケーション能力」といった不明確な基準を掲げながらも、実は「学歴」に頼っている状況は変わらないのではないだろうか。

 それを証明するかのように、「学歴フィルター」として、ある特定の大学以外の募集を受け付けない企業も存在すると言われている。

 学歴フィルターを採用している企業はほとんどが大手企業や有名企業などといった学生から人気の高い企業と言われています。学歴フィルターを採用している企業では、企業説明会などにおいても一定以上の偏差値の学校で登録すると空席が表示されるのに、基準を満たしていないと満席に表示されるなどといったことが起きます。

(「JAIC」より)

 とても未来は感じられない。

(※「後編」↓に続きます)。




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