「X世代」から始まり「Z世代」で終わりではないことを、(恥ずかしながら)初めて知った。
Z世代、という言葉を聞くようになったのは、それほど昔ではないのだろうけど、定着するまでは比較的早く、いつの間にか、「今の若い人」と同じようなニュアンスで使う人が増えて来たと思う。
Z世代
ただ、こうした冷静な分析よりは、「ゆとり世代」を「ゆとり」などと呼び、「今の若者の悪口」になったように、「Z世代」も「若い世代の悪口」として使われるようになってしまうのだろうか、というような嫌な予感もする。
世代論
まだコロナ禍が今よりももっと危機感がある時期に「Z世代」に関して当時のTwitterで話題になったことを、それが書籍化されて、初めて知った。
読者としての自分の直感は、私自身も新入社員の頃、歓迎会のあるような会社ではなかったが、やっと、こうして自分の意志を行動に移せるようになって、これは、自分たちができなかったことをしてくれる人たちがあらわれた、という気持ちだった。
そして、この書籍では、「Z世代」について、比較的、冷静に書かれているようだった。
どうしてZなのか、と思っていたが、それはXから始まったから、あっという前にZにまでなったようだ。
同じ世代ということで、全てを説明するのは、自分がされることを考えたら、とても愚かで嫌なことだとは思う。
だけど、時代によって環境が違っていて、その違いによる影響を考慮に入れた方が、もしかしたら理解に届きやすくなるとは思う。
X世代
「Z世代」は、「X世代」があってこそ存在しているはずだ。
最初に「X世代」と、ある世代に対して貼られたラベリングが、かなり印象も強く、おそらくは、その上の世代にとっても、そのある世代が「X世代」と呼ばれる納得感があったからこそ広まって、そこから続いてきたのだと思う。
だから、やはり「X世代」のことを、少しでも知った方がいいのだろう。
ロバート・キャパは、X世代も含めて、こうした言い方をするのは安直かもしれないが、あこがれの対象となるような写真家だった。
そのロバート・キャパから見て、X世代は50年ほど下になるから、子どもどころか孫世代になる。
そして、「X世代」と名づけて、しかも「未知の世代」という意味が込められていた、ということは、憶測になってしまうが、「もう自分たちとは違う」という意味合いもあるのだろうし、同時に希望も込められていたのかもしれないけれど、それよりも大きいのが、さらに年月がたち、1991年の「カナダの作家・ダグラス・クープランドが小説『ジェネレーションX-加速された文化のための物語たち』を出版。この小説がベストセラーになったことをきっかけとして、X世代という言葉が世界的に知られるようになったのです」ということだと思う。
その世代論は、ロバート・キャパが名づけてから、かなりの時間が経ち、X世代が20代になり、社会で働き始めた頃に定着した呼び名のようなので、やはり、今の若いやつはわからない、というニュアンスが込められていたのかもしれない。
この中で、デジタルイミグランドが、ややわからないので、この記事の中でも丁寧に説明がされている。
このX世代の特徴や、見られかたのニュアンスを考えると、日本の場合で最も当てはまるのは「新人類」だと思う。
新人類
1980年代、今から振り返ればバブル前夜の時代に、気がついたら、自分たちの世代が「新人類」などと呼ばれるようになっていた。
その上には、団塊の世代がいた。
その存在感は良くも悪くも重くて、だけど、「新人類」は、すでに「世代」でもなく「類」であって、まるで、「これまでとは違う得体の知れない違う人類」という扱いのようだった。
そして、「朝日ジャーナル」という今ではなくなってしまったけれど、文化的には「偉い」とされていた雑誌に「新人類の旗手たち」という連載が始まり、そこに登場した人たちは、「新人類の文化人」のように扱われるようになった。(その中に秋元康もいた)。
自分も、その「新人類」と呼ばれてもおかしくないような年齢だったけれど、個人的には「新人類」という人たちの中で覚えていたのは、泉麻人、中森明夫、野々村文宏で、上の年代の世代から見て、「理解しがたいけれど、新しいことをしているように見える若い人」のことを指すようだ、と思うようになった。
ただ、恥ずかしい呼称だと感じていた。
そのうちに、「新人類」は、「今の若い奴への悪口」のようになってきて、自分たちが名乗ったわけでもないのに「新しい」とされていて、その「新しさ」は、「新人類の旗手たち」のような位置にいる人にとっては武器であり、売りかもしれないけれど、そうでない同世代にとっては、邪魔な見られ方でもあった。
ただ、実際に「新人類〜」などと言われた記憶もなく、街中の居酒屋で悪口として聞こえてきた記憶もないから、それほど口に出されたわけではなかったのかもしれない。それは、やはり発音するのも、ちょっと恥ずかしく感じるせいかもしれなかった。
「新人類」という世代が、もし、それ以前の世代と違っていたとしたら、物心ついてから、もしくは生まれたときから家にテレビがあり、そのメディアで育ってきた、ということではないだろうか。
だから、本を読まない、とすでに言われていたし、ぼんやりと覚えているのは、テレビで育った世代は集中力が15分しか持たない。それは、そこでコマーシャルが入るからだ、といったことを、結構まじめな顔で、確か評論家と言われる人が、テレビで話していたような気がする。
スマホというコンピュータを自然に使い、SNS、という誰もが発信できるマスメディア、の中で育ってきたZ世代に対して、その上の年代の人間が抱く警戒心や恐れと、「新人類」に対して向けられた感情は、少し似ているかもしれないが、そういった関係性は、いつの時代でも共通することなのだろう。
新入社員のタイプ
毎年4月に会社に入社する新入社員に対して、その年の「新入社員のタイプ」として、キャッチフレーズのようなものがつけられていた。
それが、毎年、小さいニュースのようになっていた時代が、思ったよりも長かった。
例えば、平成18年の新入社員は、「ブログ型」と命名されている。
この命名を、30年にわたり、1人の人物が行なっていたことを初めて知った。
申し訳ないけれど、マイルドな悪口に思える。
そして、上の世代に対しての「説明」のようだけど、誰にでも当たるような占いのようにも感じるし、この命名をされた新入社員だった世代は、これから18年が経っているから、40代になっているはずで、こうした命名に対しては、どう思っていたのだろう。というよりも、言われた方は、あまり気にもしていないのかもしれない。
繰り返しになるけれど、この「新入社員のタイプ」の歴史は長い。
いくつか例として挙げてみる。
すでに、意味がわからない人も多くなったと思うが、その前年に流行ったものや出来事に例えて、今から考えると悪口としか思えない言葉が並ぶ。
そして、この時の新入社員は、大卒だと仮定し、昭和48年で23歳とすると、2024年で74歳になるはずで、会社員ならば退職している人が多数になるはずだ。今振り返ると、この命名を、どう思うのだろう。
そして、それから30年が経った頃は、「新入社員のタイプ」は、こんなふうだった。
申し訳ないのだけど、ずっと同じ「芸風」に見えるし、この発表は、新入社員を迎える4月の前なのだから、働かないとわからないのにとは思うけれど、この命名が何のために行われていたのかは、よく分らない。
新入社員という若者は、常に悪口を言われていそうだけど、最初は未熟で当たり前なのに、とも思う。そしてこの言葉を、本当に会社員の人たちは使っていたのか。もし使っていたとしたら、入社何年目くらいからなのか。本当にその会社の「会社員」として仕上がると、これから入社する新入社員は、このように「わけのわからない存在」に見えるようになってしまう、ということなのだろうか。
この「新入社員のタイプ」がかなり流通していたとすれば、それほど意味もわからず、「今の若い人」に対して、「Z世代」という2020年代と、似ているのかもしれない。
個人的には、会社にいた期間が3年と短いため、実感としてはわからないけれど、組織に長くいた人は、こうした「新入社員のタイプ」に対して、共感できるのだろうか。逆に全く関心がないのか。それとも、このタイプについてああだこうだ言えるようになって、初めて「我が社の社員」の証のようになっていて、そのためにこの「新入社員のタイプ」は存在したのだろうか。
実はまだこの「新入社員のタイプ」は発表され続けている。
ただ、この「新入社員のタイプ」が成り立つための条件があるとすれば、それは、新卒一括採用という日本独自のシスステムがあって、同じ世代の人間が、4月に一斉に入社してくることだ。
近い将来、新卒一括採用のシステムが徐々に姿を消す頃には、この「新入社員のタイプ」を命名することもなくなりそうだが、これも、日本社会の会社システムとの相性が良かったのかもしれない。
この「新入社員のタイプ」は、会社員の一体感の形成に役立ったりもしたのだろうかとも想像するが、いまだに、この「新入社員のタイプ」の存在理由がわからない。
「Z世代」の「次の世代」が、すでにあった
よくわからないという意味も含めて、「X世代」という呼称が生まれたのは、ただの偶然のはずだった。(「X線」の命名と近いのかもしれない)
アルファベットのXは、たまたま並びの最後の方で、「X世代」から始まると、そのインパクトが強かったせいか、「Y世代」が続いて、さらに「Z世代」になった。
それは、たまたまインターネット、SNSの時代が本格化して、「新しい世代」という印象も強くなったから「Z世代」という最後のアルファベットも、すごく合っているような気がしたのだろうか。
だから、「Z世代」は、それが名づけられた国だけではなく、日本にも定着し、その最初の設定とは少し違うニュアンスも含めて広まっていったのだろう。
同時に、とても個人的な印象だけど、スマホという携帯できるコンピュータが普及してしまったら、本質的には次の「新しい商品」はあり得ないのではないか、と思い、同時に、21世紀になっても、これまでと同様に世界は混乱し、ずっと人類は愚かなようなので、いつかはわからないが確実に人類は滅亡するという確信も強くなった。
そして、「Z世代」というアルファベット最後の世代になった。
ということは、もう先がないから、人類共通の認識として、もうすぐ終わるといった予感が形になっているのかも、などとも思っていた。
ただ、それが間違いらしいことも、最近知った。もしかしたら、自分が知らないだけで、多くの人にとってはすでに当たり前のことかもしれない。
この書籍は、伊藤忠商事の会長を務め「名経営者」と言われた著者が、85歳になって、老後の過ごし方を語る、という内容だった。こういう人が、年齢を重ねたら無理をしない方がいいと伝えてくれるのは、高齢者になった「男性」が聞いてくれそうかも、と思っていたら、読み進める中で、急に(自分にとって)意外なことを知った。
「Z世代」で終わりではなくて、すでに、その次の世代の名称が決まっているようだ。
それも、「α」。ギリシャ文字の最初だから、それ以降も続ける気満々ということになる。
ただ、ギリシャ文字は、それほどなじみがないから、そのうちにうやむやになりそうな予感もするしけれど、「Z世代」のままにしておくと、やはり、人類が終わるような気がして、誰かがまた「α」にしたのかもしれない。
そして、もし「Z世代」の次の世代は、この時代の変化の速さから言えば、新しいということで「α世代」がイメージぴったりになって、注目される可能性もある。
そう考えると、人類は存続したい執念のようなものが、すごいのだろう。私も一員だけど、おそらく人類は滅亡すると思っている方だから、その凄さをよくわかっていないのかもしれない、と思った。
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