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この素晴らしき世界に

自分は誰にも遠慮などしない、おかしいと思うことは躊躇なく言うし、決して偏見者に言いくるめられることはない。何者かに揶揄され馬鹿にされても臆する事はないし、絶対に屈しない。その程度の覚悟で生きてなどいないし、自らをエクソシストと自称しているので悪魔のような者による言葉には愛、その神の心の言葉によって対峙する。


混沌による支配などまかり通ってたまるか、支配するためなら何を言っても良いなんて、それはもう人間の行いではない。従わせるために罵詈雑言を浴びせ、揶揄しこけ下ろし見下し馬鹿にする、怒りと憎しみによる批評にレッテル、そんなことやってる極右と極左の主義者、カルトの陰謀論に洗脳された不道徳な心を持つ者はもう人間じゃない、それは狂暴なチンパンジーの群れであり、それが世界規模で広まるならここは猿の惑星となる。


従わないから言葉による暴力で相手を屈服させるなど絶対にあってはならない。不道徳なる意識が当たり前となるならこの人間社会とされるものは地獄となる。それこそ今後自らの命を終わらせてしまう人も増えてしまう、心弱き人々が生き残れない世界となるなら自分は最後の一時まで1人となっても偏見者、不道徳者と対峙し続ける。絶対にこの心を曲げることはないし悪意に屈する事はない。


我々は何のために生きてる、ごく少数の独裁者、支配する者の道具となり、奴隷、ゴイムとなり生きるために存在してるのだろうか。

民主主義とは何のためにあったのか、それは我々の自由意思と権利と人権を守るためにあったもの。その民主主義を不道徳なる独裁支配によって失うとこの世界は終わる、人間としての価値が無くなるし、全ては独裁支配によって統治される、イエスキリストが最も嫌い反発した理不尽なカルト宗教洗脳と帝国支配が人類に戻ってくる。


なぜ陰謀論洗脳されなければならない、なぜ極右と極左の全体主義に参加する必要がある、そんな群れに属してなぜ人々が幸せになれる、なれるわけがない、独裁支配に人類の幸福など存在しない。


憤る、どうして左右共に怪しむ者が、陰謀論やスピリチュアル、ニューエイジ思想に詳しい者達が偏見者が広めてきたディープステート陰謀論を信じ続ける。この理不尽な支配世界が行き着く先に成功する支配の流れなどあるわけがないだろう。

「自分は物事をよく解ってる、だから認めてほしい」とする意識や、その知恵による承認欲求よりも大事な事があるのに、なぜそれにいつまでも気がつけないのか。

歴史の妄想などいらないし強引なこじつけ、アポフェニアやエコーチェンバーによる確信など必要ない。歴史的な物事なんていくら追求しても、その実態など解るわけがない。真実など解るわけがないだろ。

その陰謀論に結びつけられた近代から古代にかける強引なこじつけの陰謀論が真実であるとする証明など絶対にできない。過去の偉人や歴史的な物事に関わってきた人物の偽善でも、偽りの悪でも、その真意を突き止める術なんか存在しない。誰がその真意を突き止められる、想像するしかできないし、それが想像なら妄想と大差ない。

しかし創世記からある人類の基本的な本能である愛は嘘をつかない。愛こそ真実を教えてくれる、この世の全てを知ることができる真理であり宇宙の全てとなる。


全ての真相を知りたければ神の心である愛に聞く、だから自分は迷いなどないし、その愛に答えを聞いたもの、それを疑う気持ちなど微塵もない。

過去の人物の心を知りたい場合、愛があったならそれが真実であり、そこに愛が有るか無いかなど考えるのは子供でもできることで、それが学校の道徳の時間に教わった道徳心。


人を想うための行動は愛であり、自分のためだけの行動は欲望であり、愛は許しとなり欲望は支配となる。それを踏まえて考えるなら、間違いなく歴史的な物事に関わってきた人物、偉人達にどんな思惑があったのかもしっかり推理できる。だから愛は嘘をつかないと断言している。

例えば三島由紀夫の行動、その心を推理するなら答えは簡単で、それは他者を支配したいとする支配欲であり欲望だった、だから自分以外の人を巻き込み死に追いやったし、自分の事しか考えないからそのような結果となったし、それに協力した人達の人生も滅茶苦茶にした。だからそれは愛ではなく欲望、悪意であったと言う答えとなる。

愛があったなら、そんな行動はしないし、まず自分より他者の人生と命を尊重する。自分だけが犠牲になるなら他者を巻き込まなくて済む。だからイエスキリストは1人十字架の磔となり、誰も巻き込まれる仲間として見られないように弟子達を拒絶した。


誰かを想うなら辛くても哀しくても孤独となり、誰も巻き込まずに1人犠牲となる、それが真の愛である。


もしも自分に愛する我が子がいたとしたら、自らの身勝手な思想主義に巻き込んだりなんかしない。その思想主義に従わせることは愛ではない、それは親の欲望となる。子は次世代のメシアであり、自分の承認欲求を満たすための操り人形ではない。

子供たちに教える大切なことは愛、道徳心。そこに思想主義など必要ないし、何者かを拝む個人崇拝など教える必要もない。陰謀論など教える必要もなければ、スピリチュアルもニューエイジ思想も必要ない、それを行いたいなら自分だけがやればいい、誰かを操り巻き込み支配し洗脳するなど、それは愛ではなく欲望の連鎖にしかならない。たとえそれが自身の家族、我が子だとしても、自分の分身として見て、その思想主義を継承させようなど行ってはいけない事。

孤独とは愛の証明である、神の沈黙は愛である。自分の名前、ネーミングを沈黙の天秤としているのは沈黙するためではなく、その神の沈黙を表現した名前。


その心の中にある愛と欲望を量る天秤。欲望ばかりに比重が傾き、愛を沈黙させる、神の心を黙らせてるのは、我々自身であると、そういった意味がある。沈黙するためにこんなネーミングを使ってるわけじゃない。

だから全ての答えは愛に聞けと、神の心に聞けと言ってきた。愛を沈黙させないように、欲望の混沌に打ち勝つ愛の言葉を素直に言える心になれるように。


愛は孤独であり、哀しく寂しく辛いもの。痛くて苦しくて、嘆き憤る。それを1人抱えるから深い愛の真理を得る事ができる。

しかし1人は確かに淋しい、だから神はもう1人、イヴとする片割れを用意してくれた。


1人では押し潰されるほどに重い愛の比重、二人なら分散できる。2つに割れた十戒の石板として、2つが1つになれば3つになれる、三位一体の力で孤独を克服できる。


どんな悪意にも屈しない強き心のために、二人は互いに愛を補い合い、お互いだけを信じて愛の結晶を誕生させる、未来を担うメシアをこの世に降臨させる。

命の先に見える光、生命の夜明けのために最後の誕生を繰り返す。眩きものは眩きままに、崩れ行くものは崩れ行くままに。


イエスキリストは孤独だった、たった1人で立ち向かい、抗い逆らい、たった1人の意志で道徳心を説いていた。理不尽な人間による世界を変えるために、人々の意識を変えるために、この世界を幸せ溢れる世界にしたいと、そう願う心から。

それは、我々の中にある神の心、この愛が教えてくれている。全ての答えを教えてくれている、キリストの心は全ての人々の中にある神の心。だから、我々はそれを子供たちに継承し言い伝え続けなければいけない。

知恵のマウントなんかいらない、支配のための論破も罵詈雑言も必要ない。神の心である愛に勝る知恵など存在しないのだから。











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