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百卑呂シの『なんのはなしですか』

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なんのはなしです課長コニシ木の子氏に回収された文章。
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#創作大賞2024

全振り、空気

全振り、空気

 一つのことにハマると、リソースをそれに全振りしたい。
 ビリヤードに取り組んでいた頃は、休日はずっとビリヤードの練習をした。
 ある時、同僚の結婚式に呼ばれたのを、他事に時間を使うのが惜しくて断った。そうしてやっぱりビリヤードをしていた。
 断ったのが結構直前だったから、先方も随分迷惑だったろう。最初から断っておくべきだったと、後になって反省した。

 娘もやっぱりその系統で、サザンオールスター

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青空と陰鬱

青空と陰鬱

 店舗配属から一月後、一週間の連休をもらった。配属前に二週間ぶっ続けで新人研修をやった振替である。二週間の研修に対して休みが一週間では割が合わないから、多分日数を間違えて記憶していると思う。
 休みに入る前、「百、連休だな。良いなぁ」と店長が言った。気の利いた返しを思い付かなくて、「良いですねぇ」と答えたら、パートの長田さんが「ふっ」と笑った。この人は自分が何を言っても笑う。暖かく見守られているよ

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祭典の日

祭典の日

 11時頃、そろそろ出かけることにしてブーツを履いた。ブーツは先年柏さんから譲り受けたもので、先が随分尖っている。これを脱ぐ時にはもうライブハウスデビューを果たした後なのだと思ったら、不思議な心持ちがした。

 電車に乗って、まずは辻の家へ行った。辻はメンバーではないが、ライブで使う大きなアンプを彼に借りる約束だったのである。
 じきに他のメンバーも辻の家に集まった。そうしてナベの車に機材を積んだ

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公園、肉

公園、肉

 随分以前、仕事の帰りに公園を散歩した。
 大きな公園で、ボートに乗れる池がある。池の周りを歩いていたら、じきに藤棚が現れた。ちょうど藤の季節だったからライトアップされていて、きれいなものだと大いに感心した。
 藤棚を抜けると、向こうの広場で十人ばかりの男女がダンスの練習をしていた。

 前に夏祭りで、ダンス教室の先生が生徒らを従えて踊るのを見たことがある。
 ダンス講師の割に小太りなおじさんだっ

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紛糾

紛糾

 パスタ屋で店長になって、じきに首都圏の店長会議があった。昔のことだからあんまり判然しないけれど、全部で五十人ぐらい集まったと思う。店長会議に出るのは初めてで、様子がわからないから結構早めに行った。
 時間を潰そうと思って近くのマクドナルドへ入ったら、同じブロックの先輩店長が三人ばかり集まっていた。
「お、百。来たか」と竹村さんが言って手を振った。
 竹村さんは新卒の頃に世話になった元上司である。

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賀茂鶴

賀茂鶴

 オーウェンさんが次の月曜日を最後に退職すると聞いたので、餞別に酒を贈ることにした。
 これまで職場を去る人へ手向けなどしたことはなかったけれど、オーウェンさんには随分世話になった気がする。何かしておかなければきっと後悔するだろうと思ったのである。

 車で酒屋へ向かう途中、信号待ちをしていると、鰻屋の前に老人が座っていた。きっと奥さんが店内で注文して、出て来るのを待っているのだろう。
 ところが

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百洋

百洋

 中学生の時、何年生の時だったかもう忘れたけれど、二年か三年だったろうと思う。理科室の掃除をしていたら、靴裏の異物感に気が付いた。どうも何かが貼り付いたような感じである。
 きっとテープの塊でも踏んだのだろう。取ろうとして靴裏に手をやると、何だか丸いものに触った感触と、一瞬遅れて痺れるような痛みが走った。
「痛っ!」
 慌てて離したら、果たして触った所から血が溢れ始めている。靴裏にはガラスの破片が

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浮遊する

浮遊する

 横浜の南の方に住んでいた頃は、休みの前日に仕事を終えると、よくそのまま一人でドライブに行った。まだ車の運転自体が楽しかったから、行先も決めず適当に走って、大体いつも鎌倉か横須賀の辺りで一休みして帰っていた。
 だから鎌倉も横須賀も随分行ったけれど、着く時間が早すぎて、観光などは全くしていない。何だか勿体ない事をしたように思う。

 ある時、行き着く所まで行ってみようと延々走ったら、とうとう漁港に

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飴と奈落

飴と奈落

 自分が幼い頃、祖父の家は古い日本家屋でトイレが汲取式だった。
 ある時、そのトイレへ行こうとしたら、穴の底から青白い手が伸びてきて尻をツルンと撫でられる気がした。全体どうしてそんな気がしたものかはわからない。何かのテレビ番組でそういうシーンを見たの知らと思うが、もう全く覚えていない。
 自分は何だか怖くなって、あのトイレは使いたくないと駄々をこねた。
 手が伸びて来てお尻を撫でられそうだと云った

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猫の獲物

猫の獲物

 ある時、庭の草取りをしていたら嘉村さんの勝手口から猫が出て来た。
「おや、嘉村さんは猫を飼っているのか」
 すると妻が「あらこんにちは」と、フェンス越しに言った。
 知り合いみたいな調子だったが、相手は猫だから答えるわけもない。ただじっとこちらの様子を窺い、じきにどこかへ消えた。
 茶色のトラ猫だった。ジャッキー・チェンの『スネーキーモンキー蛇拳』に出てきた猫もあんな色柄だったように思う。その猫

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カブトムシ

カブトムシ

 独身の頃、住んでいたアパートの玄関前にカブトムシがいた。
 もうカブトムシで喜ぶ年ではないし、あんまり虫に触りたくもないのでそのまま放っておいたら、翌日もまだそこにいた。さらにその翌日もいた。
 死にかけているのではないか知らと思ったが、別段弱っているようでもない。普通にのそのそ動いている。きっと夜にはどこかへ行って、食事を済ませて戻って来るのだろうと得心した。
 一番奥の角部屋だったから、人に

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紫の雨

紫の雨

 十九の夏、スーパーマーケットの衣料品売場で紫の鼻緒が付いた畳の雪駄を見付けた。それが随分格好良く見えたので、買って帰って早速履き始めた。
 畳敷きだから履き心地が良い。おまけに鼻緒が紫で凄味がある。これはいいものを買ったと大いに満足し、毎日履いた。
 その時分には学生寮住まいで、寮内(屋内)ではスリッパを履いていた。
 スリッパは実家から持って来たものだった。家から持って来たものをいつまでも身に

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BMW

BMW

 小学生の時、隣に先生が住んでいたことがある。
 女性の先生で、石田ゆり子に似ていたように思うが、随分昔のことだからあんまり判然しない。担任ではなく、受け持ちの学年も違っていたから、関わることはなかった。ただ隣に住んでいただけである。
 隣は元々別の人の家で、暫く貸家にしていたらしい。先生は一年か二年ぐらいでよそへ引っ越したようだった。

 やっぱり近所に、高校の世界史の先生が住んでいた。この先生

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メロン

メロン

 娘を連れて帰省した際、山陽道のサービスエリアに立ち寄ったらアンデルセンの店があった。
 アンデルセンは広島の大きなパン屋で、子供の頃に何度か連れて行ってもらったことがある。クリームパンが大いに美味かったように思う。
 ちょうど昼時だったから、そこでパンを買うことにした。

「アンデルセンはね、クリームパンが美味しいのだよ」と娘に教えてやったけれど、娘はあんまり興味もない様子で、別のパンを指差す。

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