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あの人と別れて、初めて嗚咽した夜。
同棲したばかりの頃、7年付き合ったあの人とこんな会話をしたのを覚えてる。
「わい、子供が生まれて男の子やったら鉄郎がええんや」
「え、鉄郎?なんで? 」
「今の若者はメンタルが弱すぎる。鉄のようにハートが固い男になって欲しい」
「いい名前だけど、昭和すぎない?哲也とかはどう?」
「いやや、漢字も鉄郎がええんや。これだけは譲れん」
「女の子やったらお前の好きな名前にしてええで?」
「えー、やだ。私、読みやすくて今時っぽい名前がいいんだけど」
◇
あの日、あの時、私は恵比寿にいた。
仕事後、アプリで知り合った人と初めて会う為に待ち合わせをしていた。
その時に会った人の顔は全く思い出せない。
30歳までには結婚しないと、あの頃は婚活に必死だった。小学校の通知表のように、「あなたは30歳までに結婚できました」という判子を誰かに押して貰いたかったのだ。
そろそろ来るかな?
1人でそわそわしていると知らないナンバーから電話がかかってきた。
「不動産会社になります。退去した部屋の敷金を返金したいのですが、ご契約者様と連絡が取れませんでして。失礼ですが、ご婚約者様ですよね?」
私は2年半前に、元彼と住んでいた家を夜逃げして、東京に引っ越し一方的に別れた。
しばらく彼は1人でその家に住んでいたみたいだけど、退去したらしい。そして敷金の返金は約20万円ほど、中々の大金だ。
このお金はちゃんと彼に渡らないと可哀想な気がした。
アプリと知り合った人と食事が終わり、家に帰宅する。
まぁ、今日もいつもと同じ結果である。
興味がない相手との食事が終わった時ほど虚しい時間ってないよね。家でテレビを見ながら、コンビニ弁当を食べる最高な時間を過ごせばよかった。そしたら、こんな気持ちになる事はなかったのに。
まぁ、類は友を呼ぶって言葉がある通り、そんな人としか出会えないのは私がそんな人間ってことか…と妙に納得しながら帰宅する。
かかとが少し磨り減ったヒールに膝下のワンピースでヨレヨレと歩く姿は、仕事で疲れ切っているサラリーマンの後ろ姿みたいに哀愁が漂っていただろう。
帰宅が22時過ぎ。私は元彼に電話を試みる。自営業の彼は仕事が終わるのが遅い、この時間でちょうどいいと予測した。そして電話番号は変更していて、繋がらないと思ったからだ。
ただ想定外に、電話が3コール目に繋がった。
「おぉ、久々やな。どしたんや?元気しょーるか」
久々に聞いた彼の声はとても明るかった。
仕事の現場でこれから帰宅するそう。私は要件を伝えた後、彼は語った。
仕事は軌道にのり始め、少しずつスタッフも増えていること。
1年前に授かり婚をした事。
最近、子供が生まれて、部屋が手狭になったので引っ越したこと。
結婚式も挙げたこと。
私たちの破談になった結婚式でも彼がやりたいと言っていた、マグロの解体ショーを実現できて好評だったこと。(彼の父親は元漁師)
そして彼は私に謝った。
「わい、お前と別れてから、めっちゃモテたんよ。」
「へー、良かったじゃん」
「そんでお前に悪い事したなて、
夜逃げなんかせんでも話し合いで別れてあげたら良かった。
お前全然大した女じゃなかったのに、なんであんなに執着してたのか。今となっては不思議でしゃーなくてな」
互いに笑った。
「ふふ、その通り。私は執着に値しない、全然大した女じゃないの。あなたにはもっと相応しい人がいるって私言ってたじゃん。でも良かったね、いい人と出会えて。結婚おめでとう」
「お前も早く子供作りや?子供めっちゃ可愛いで」
「余計なお世話。私は子供はいらないの。」
「なんでや?」
「あんた昔、私に言ったじゃん。お前はサイコパスな所があるから子供は作るなって」
「その約束、ちゃんと守ろうかと思って。」
「そんな言ったけ?覚えとらんわ。てか、わいの子供こっそり写真送ったろか?めっちゃ似てるねん」
「いらん、いらん。あんたに似てるんやったら想像でわかるわ。てかもう切るよ?はよ帰って子供の世話しーや!」
「あ、待って。子供の名前だけ聞いてや」
「何なん?」
「鉄郎や。」
電話を切ったあと、嗚咽が止まらないくらい泣いた。
良かった、良かったぁ。
いい人と結婚できて。
子供の名前を聞いて、どれだけ素敵な人と結婚できたかを悟った。
私は昭和っぽい名前は嫌と切り捨てるような人間だった。
だけど、あの人の奥さんは、自分が一歩下がって、彼の意見を尊重してくれる優しい人。
だけど私も本当はそうなりたかったなぁ。本当は一緒に幸せになりたかったなぁ。
同棲したばかりの頃はそう願っていたはずなのに、いつから歯車が狂ったんだろう。
いや、夜逃げするように一方的に出て行ったのになぜ今さら泣いてるの?自分でも分からなかった。
もしかして私の方がちゃんと別れられてなかったのかな?
7年も一緒にいたあの人とは、愛だ恋だというより、もはや兄弟みたいで、戦友みたいで。
やっぱ東京で暮らすのやーめた。なんて、瀬戸内海に戻れば、相手の気持ちや状況を全て無視していつだって元に戻れると、もしかしたら都合よく考えていたのかもしれない。
私よりもあの人の方がずっとずっと自分の人生を前に進んでいた。
私は未だに1人。
「あたし、何やってんだろ」
1番近くにいた人が1番遠くになるのって苦しいね。
だけど、私が勝手に出て行った時、彼はたくさん傷ついて、絶望した。苦しんで、もがいて、幸せをやっと見つけだしたんだ。
私は何を苦しんでるの?何を被害者ぶってるの?卑怯な別れ方をしておきながら、ね。
そう、私はいつだって、呆れるくらい、自分本位だった。
だけど、こんな私だけど、
長い人生の中で、また誰かと愛しあう事ができたら。
自分をさらけ出せる人と出会えたら。
歯車が狂う前に、些細な事から大切な事まで沢山話し合おう。
裏切られて自分が傷つくのは構わない。
でも、自分から相手を裏切るのは、相手を傷つけるのはもうやめよう。
絆なんて壊れやすいから、もろいから。
次こそ、大切に、大切にしよう。
◇
地元のお祭りで、鉄郎くんを見かけたら一瞬で分かるんだろうな。
あの人に似ているならば。
そっくりじゃんって、笑ってしまうのを必死に堪えながら、その時はそっと遠くから、心の中で君にエールを送るね。
沢山、幸せがありますようにと。
*
※名前は脚色してます。
それまでのエピソードはこちら。