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状況と自己拘束

あらゆる状況。 激務に追われる日々や、自分には関係のないところで勝手に渦巻く人間関係の悪循環。 嫌だと伝えても直らない相手の行動の癖。 われわれはどんな時にも状況に巻き込まれている。 その状況を、私は「乗り越えるべき障壁」とサルトルの【存在と無】における表現からそう捉えていた。 しかし、サルトルは「そもそも(意識としての)世界が存在するためには、また、その世界を超越するには、私が世界の内に自己を失うのでなければならない」と述べている。 また、『「対自的にー存在する

    • 実存主義に対しての指摘

      サルトルに対して 人間も本質が先立つと指摘の記事を読んだ。 その指摘が意識個体としての人間に対する指摘ではなくて生物学的なヒトに対する指摘だった。 事物も人間も蓋然性(指摘では汎用性と言われていた)という面があるという意味において、自己以外の他者においてにのみ、指摘は当てはまっていると思う。存在と無にもそう書いてあった。 もし仮に人間の存在自体が仮に必然であるとしても、その各々の意識個体自体が産まれてくるのは偶然。意識個体が自己を自己性や内的否定による脱自を対自の根源的な

      • 違う。

        会社のお世話になった先輩が退職することになった。 その先輩は「お金が足りなくなり、転職することにした」と僕には言った。50代の転職。次の職場も見つからないまま辞めてしまう。 お金が足りず赤字になった。貯金もなくなったのに転職先を見つけずに仕事を辞める? 矛盾している。 それまでその先輩は「来年はこの業務をやりたい。」「あの業務もやりがいがありそう」などと気力に溢れた発言を繰り返していた。 ある日仕事の最中に腕を負傷した。 年齢の割に頑張りすぎたらしい。 しかし、彼はプ

        • 朝雲 濃緑の棚田

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        記事

          【読書記録】奴隷になった先輩(存在と無)

          対象とまなざし 対象としての他者と まなざしを向けている(ことへの)まなざし 前者はこの世界が他者とっての世界でもあることを表し、 後者は私の認識の分解である。 他者を対象として見る まず、前者は 他者が既に対象という資格で、この私の世界のうちに存在している。 それは目の前の机の上にコーヒーがあり、本があるのと何ら変わりのない空虚な思考である。私はその現前に対して何一つ外部を付与しない。 この時の他者を例えれば、横断歩道を早歩きで渡る見知らぬサラリーマン。ただそ

          【読書記録】奴隷になった先輩(存在と無)

          【週記】お盆休み後半

          前回の続き。 お盆休み後半はキャンプと十日町への弾丸旅行?だった。 夏休みキャンプ いつもの中学時代の仲間たち3人でのキャンプ。 今回は僕がみんなと行きたかった場所でのキャンプ。 キャンプはいつも料理係。 毎回、低温調理で作ったローストポークを持っていく。 57度で12時間調理した。 ニクニクしたお肉はそこまで得意じゃないので友達にほとんどあげる。 正直、僕はキャンプでは果物が食べられればそれでいい。 今回はイチジクと桃、モッツァレラチーズをオリーブオイルと塩コショウを

          【週記】お盆休み後半

          【週記】お盆休み前半 読書記録

          お盆1年で1番長い連休が終わる。 この8連休以降は土曜日の休みもほとんど無い。 あっという間な1週間だった。 これは前半、読書の記録。メモでもある。 前半1 読書【存在と無】 前半はほとんど読書をしていた。 場所は行きつけの喫茶店。 店員さんに「こいつまた来た。彼女も居ないのか。」と思われていても仕方がないほど。 サルトルの『存在と無』も2巻の100ページまで読んだ。 「対他存在」がテーマ。 他者のまなざしを通して現れる「それであるところ」のこの存在。これは、私の対自

          【週記】お盆休み前半 読書記録

          キリンジ[アルカディア]に対する存在と無からの視点による未完の考察

          キリンジのアルカディアの考察を見ると失恋とか戦争の歌と書いてある。存在と無がMVで強調されてるところを見ると失恋と解釈するには早合点すぎると考察を見て直感的に思った。 この考察は未完了であり、不完全であり、考察に過ぎない。ただ、MVにおけるサルトルの言葉の引用、存在と無の本がわざわざ字幕付きで登場することからサルトルとの関連は避けられないように感じる。これは存在と無からの視点における考察を試みた形跡。 以下はメモの殴り書きをそのまま記載したもの。 存在と無では満月

          キリンジ[アルカディア]に対する存在と無からの視点による未完の考察

          「生きる」を見た

          カフェで隣の学生客が誕生日会をしており、祝われる本来の主役である女学生が「Happy  birthday to you.」と皆に盛大に迎えられながら階段下から登場する。彼が店を飛び出る際に階段で彼女とすれ違う。もちろん彼は誕生日会とは無関係。将来における可能性を感じさせるかのように階段を登った先の仲間から祝われる女学生。だが一方、彼は誕生日を”新たに”迎える。彼は取り返しのつかない過去を取り戻すかのように、背中にバースデーソングを浴びながら、階段を降り、店を出る。彼女は正面か

          「生きる」を見た

          【メモ】自発性による否定p409-413

          対自は自発性である ・自発性は「存在の無」の根拠であり、自身の存在(自己を立てること)の根拠である。 →‪‪デカルトによる反省以前的なコギト 1,自己を拒否するために自発性は生まれる。 2,拒否によって自発性は既得を構成する。 3,既得によって拒否を構成する。 *自発性として自己を実現する場合、自分の構成した既得を利用しない。(自発性の本性) →既得の利用するならば自発性は惰性的な延長に変わり、自発性を即自に凝固させる。 4,自発性は自己を時間化することで存在している。(事

          【メモ】自発性による否定p409-413

          初めて舞踊観た。 正直2割ぐらいしか分からなかった。 20周年公演で、 最初の演目がそのカンパニーの始まりから現在に至るまで、そしてここからも同じように変わらず進歩し続ける。みたいな感じだった。 2つ目の演目は少しミッドサマー感あるストーリーってだけわかった。 「分からないなぁ」と思いつつもいつの間にか完全に夢中になって、お尻痛くなって我に返って____。踊りと音だけ、セリフも無い。抽象的なものから意味を無理やり頭からつま先まで捻り出すのは何か違う感じがした。だから分か

          【メモ】時間性の動態p402-407

          対自から即自的な対自へ 未来が遠くにある場合、未来は新たな現在に対してどこまでも未来的である。けれども、もし現在が自ら自己をこの未来の欠如として構成しないならば、この未来は可能性という性格を失う。その場合、先立ち未来は、新たな現在に対してどうでもいい可能になるのであって、この新たな現在そのものの可能となるのではない。その意味で先立ち未来は、もはや自己を可能化しないで、かえって、可能としての限りにおいて即時存在を受け入れる。先立ち未来は、与えられた可能、すなわち即自になった一つ

          【メモ】時間性の動態p402-407