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実存主義に対しての指摘
サルトルに対して
人間も本質が先立つと指摘の記事を読んだ。
その指摘が意識個体としての人間に対する指摘ではなくて生物学的なヒトに対する指摘だった。
事物も人間も蓋然性(指摘では汎用性と言われていた)という面があるという意味において、自己以外の他者においてにのみ、指摘は当てはまっていると思う。存在と無にもそう書いてあった。
もし仮に人間の存在自体が仮に必然であるとしても、その各々の意識個体自体が産まれてくるのは偶然。意識個体が自己を自己性や内的否定による脱自を対自の根源的な時間(意識的な時間。それに対して普遍的な時間は人間が共有するもの。)においての三次元的(過去、現在、未来)に、反省的に、対他存在(われわれが経験する他人から見た自分の姿)によって行う。そうして自己を規定していき、その意識個体の本質を獲得していくというその意味において「実存は本質に先立つ」とサルトルは言っている。
またヒューマニズムという指摘に関しても所謂人類礼拝型のヒューマニズムという意味に捉えられているように感じられた。
サルトルは人類礼拝はファシズムに帰着すると批判している。世界のただ中における存在としての自己、そのなかで世界の内に付きまとう存在として人間的世界の中に常に現存しているという意味での主体性。人間を形成する存在として、乗り越えるという意味においての主体性。この2つの結合として実存主義をヒューマニズムとして掲げており、実存主義は人類礼拝型とは真逆で人間的世界の中における孤独と絶望を受け入れて己の中にしか全ての諸可能を見出さない。逆に言えば己の中に全ての諸可能があると考えている楽観的主義。その意味でサルトルは不安は行動の条件であり、希望は行動を妨げると考えている。
誤解を恐れずに簡単に言うならば、
実存主義は自分の自由に責任を持ち、同時に他人の自由を尊重する主義である。