【週記】お盆休み前半 読書記録
お盆
1年で1番長い連休が終わる。
この8連休以降は土曜日の休みもほとんど無い。
あっという間な1週間だった。
これは前半、読書の記録。メモでもある。
前半1 読書【存在と無】
前半はほとんど読書をしていた。
場所は行きつけの喫茶店。
店員さんに「こいつまた来た。彼女も居ないのか。」と思われていても仕方がないほど。
サルトルの『存在と無』も2巻の100ページまで読んだ。
「対他存在」がテーマ。
他者のまなざしを通して現れる「それであるところ」のこの存在。これは、私の対自の反省的な意識が持つ、私に対してあらわにする即自的な自己とは違う。反省的な意識には、私に「それであるところ」のこの存在を与える、特権的役割が存した。しかし、他者によっても、私の反省以前の主観に、「それであるところ」の”この存在”が与えられることがわかる。他人のまなざしによる”この存在”、これは不安な不確定さの範疇から脱れでることは無い。しかし、”この存在”は私から脱れ出る。他者によって生じてくる”この存在”と私は「他者の自由」によって作られた「無」によって隔たれている。私の手の届かない現在のかなたにおいて”この存在”は存する。
”この存在”は私の荷物で常に持ち歩いていながらも私はそれに対して振り返ることができない。
詰まるところ、私が私に対して抱く自己像と他者が私に対して抱く”自己像”の隔離についての根源的な研究がテーマであり、この他者が私に対して抱く”自己像”は決して完全に私に与えられない。それは他者が勝手に抱くものであって、私の動きが私の影に一致するように、自分でこの”自己像”を決定させる事が出来ない。という事を話している。サルトルはこの事を「自由の限界」、トランプの裏側のような意味で「自由の裏側」と表現している。このことから、他者が私に対して抱く”自己像”は他者そのものの問題であると考えている。この記述は「地獄とは他人の事だ。」、私とその他者の関係を入れ替えた場合は、「人間は自由の刑に処されている」という言葉についての言及であると思える。
前半2 読書 【実存主義とは何か】
サルトルの講演である、『実存主義とはヒューマニズムである。』と題した講演を書籍化した本書。
サルトルの書籍として入門書として扱われている。どちらもまだ読み終えてはいないが『存在と無』が「意識」と「或る存在」(物から自己の内、他者まで)とを隔てる裂け目のようなものである「無」に対する研究であり、その関係の研究であるのに対し、この本は、分かりやすく彼の考え方のベクトルを指し示してくれるため、リラックスして読める。とても面白い。
サルトルは、第二次世界大戦前に書いた小説『嘔吐』にて主人公がヒューマニズムを唱える独学者に対して嫌悪感を抱かせる描写を描いていた。その事もあり、この講演は、ヒューマニズムの立場を取ること表明した意味でも注目を集め、同時に矛盾していると批判された経歴がある。
rサルトルは一見矛盾しているように見えるこの立場の取り方に対して「ヒューマニズム」には2種類があるとして考えを述べている。
1、人類礼拝的な古典的ヒューマニズム
人間は素晴らしいと考えるヒューマニズム。
以下のようにサルトルは否定している。
サルトルは『嘔吐』でも人類礼拝的な独学者に対して強い嫌悪感を抱く主人公を描いている。
2、人間的世界への投企と超越的目的の追求。
サルトルは実存主義の第一原理である、《実存は本質に先立つ》の解説において「その存在も偶然であるため最初は何ものでもない、人間は自由である。人間はみずから望み、つくるところのもの以外の何ものでもない。」さらに、「みずからかくあろうと投企したところのものになる」「みずからかくあろうと意志したもの、ではない。」「自発的なある選択のあらわれにほかならないのである。」と言っている。
サルトルはこの人間を構成している主体性をもとにあえてヒューマニズムと言っているように感じる。
また、この主体性は惰性的にも主体性であり、「選択を迫られた際に選択しないことも主体的な選択である」とサルトルは述べている。
その選択の責任を、偶然生まれたのにも関わらず、果たさなければならないことをサルトルは《人間は自由の刑に処されている》と言う。
このことから、実存主義者は悲観論的、根暗であると批判されることもある。
しかし、サルトルは
と答えている。
初めて読んだサルトル関連の著書のタイトルも同じ『実存主義とは何か』だった。
しかしこちらは、NHKが出版する「100分de名著」シリーズの著作だった。
何故サルトルの書籍を買ったのか全く覚えていないが何故か惹かれたのは覚えている。
しばらく本棚に眠っていたのだが、2024年2月に何となく再び読んだ。《実存は本質に先立つ》だの《人間は自由の刑に処されている》だの《地獄とは他人の事だ》だの、悲観的な強い言葉が強調されている一方で意識の関係を示してくれる中でどこか希望のようなものを感じた。
それからサルトルの小説、『嘔吐』を読んだ。以外にも読みやすく、すぐ読み終えた。そして現在読む『存在と無』に手を出す。地獄の始まり。とにかく長い。3巻まであるが、それぞれ1冊600ページほど。しかも小説ではなく研究。知らない哲学用語が沢山出てくる。ノートでメモをしていかないと目が滑る。そんな『存在と無』も既に2巻と100ページ。サルトルの長い一文にも、表現にも慣れた頃には、彼の言う事がとてもよく理解できる。夢中で遊んでいる時のように面白い。『存在と無』は誰でも経験するような意識の感覚を明確に示してくれる。痛快さがこの本にはある。知りたいことがどんどん湧き出てくる。自分の知りたいことについてサルトルはどう教えてくれるか気になる。20世紀最大の知の巨人と言われる理由も分かる。どんどん好奇心がそそられるにもかかわらず足りない時間。サルトルの言うところの意味とはズレているが、本当に地獄だ。