【メモ】時間性の動態p402-407
対自から即自的な対自へ
未来が遠くにある場合、未来は新たな現在に対してどこまでも未来的である。けれども、もし現在が自ら自己をこの未来の欠如として構成しないならば、この未来は可能性という性格を失う。その場合、先立ち未来は、新たな現在に対してどうでもいい可能になるのであって、この新たな現在そのものの可能となるのではない。その意味で先立ち未来は、もはや自己を可能化しないで、かえって、可能としての限りにおいて即時存在を受け入れる。先立ち未来は、与えられた可能、すなわち即自になった一つの対自の即自的な可能となる。
大過去、過去(先立ち未来)から対自(現在)の現れにおける必然性
自ら自己証人となる一つの現われは、例えば悲しみは、存在したがゆえに、存在する。
存在は、この悲しみに、いわば外的な必然性としてやってくる。過去は逆さまの宿命である。いいかえれば、対自は、自分の欲するものになることはできるが、しかし自分がそれであることを欲したところのものであらざるをえないという、新たな対自にとっては如何ともなしがたい存在必然性から、それ出ることはできない。
普遍的な決定論(即自)によって世界の事物として終わらせられてしまった対自から「それであらぬ」として対自を取り戻す。
自分の無をすっかり出し切ってしまった対自、即自によって奪回された対自、世界内で希薄になっている対自はあるべきである過去の化身である。けれどもこの対自は世界への現前(逃亡)として自己を無化し、過去であるべきでありながら過去を超越する。
過去が大過去となり、現在が過去になり無から新しい現在が生じることを繰り返す、あたかも埋まっては再生する不断の「存在の穴」かのごとく全てが経過する。また、現在は即自のトリモチに引っかからないための絶えざる逃亡であるかの如くに全てが経過する。
もはやいかなる対自の過去でもないような一つの過去のなかに現在を引きずり込む即時の最後の勝利にいたるまで現在をおびやかす。かかる即自の勝利とは、すなわち死である。