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状況と自己拘束

あらゆる状況。

激務に追われる日々や、自分には関係のないところで勝手に渦巻く人間関係の悪循環。

嫌だと伝えても直らない相手の行動の癖。

われわれはどんな時にも状況に巻き込まれている。

その状況を、私は「乗り越えるべき障壁」とサルトルの【存在と無】における表現からそう捉えていた。

しかし、サルトルは「そもそも(意識としての)世界が存在するためには、また、その世界を超越するには、私が世界の内に自己を失うのでなければならない」と述べている。

また、『「対自的にー存在する」とは、世界を超出することであり、世界を超出することによって一つの世界をそこに存するようにさせることである。世界を超出するとは、まさに、世界の上空を飛翔しないこと』とも述べている。

私の状況に対する以前の解釈では私は外面的な世界の上空を飛翔することになる。

世界の上空を飛翔すれば、私は絶対的な対象性の態度の内に身を置く。そうともなれば、私は「私がそれであるところの個人差」を除去してしまい自己を失う。

新たな解釈は、「状況は、状況こそが、自己の自由が具体的にあらわれる場である」ということ。

状況は自由を制限するものでは無い、状況こそが自由をあらわれさせるという解釈。これならば私は世界の内に自己を失いながら世界を超越できる。

私は先日金沢へ大学時代の友人に会いに旅行をしてきた。

なんだかんだ4日程サルトルから離れていたのだが、それ以来節操感に苛まれていた。

会社の同期と最近一層仲が良くなりドライブや飲みに行くほどになった。

しかし私はその同期と話している時でさえ彼女だけでなく、自身に対してでさえも他人事のように感じてしまっていた。話に集中出来ない。対象としての彼女が私の目の前に居る。対象としての彼女の周りには外的な否定による空間が生じていた。彼女は机では無い、彼女は右の奥の方にあるエアコンや電灯では無い。机やエアコン、電灯がお互いに隔てる空間と、それらが彼女と隔てる空間とは何ら差異が無かった。知覚による虚しい規定が彼女になされていた。

金沢に行く前日の夜、彼女の元気が無いためドライブに連れ出した。その時の私は間違いなく世界の内に自己を失っており、私の対自による自由を感じていた。

世界の上空を飛翔することによって失った、私の世界への超越の機会。明日からは新しい解釈を元にもう一度私の自由を貫けるかもしれない。

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