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「生きる」を見た
カフェで隣の学生客が誕生日会をしており、祝われる本来の主役である女学生が「Happy birthday to you.」と皆に盛大に迎えられながら階段下から登場する。彼が店を飛び出る際に階段で彼女とすれ違う。もちろん彼は誕生日会とは無関係。将来における可能性を感じさせるかのように階段を登った先の仲間から祝われる女学生。だが一方、彼は誕生日を”新たに”迎える。彼は取り返しのつかない過去を取り戻すかのように、背中にバースデーソングを浴びながら、階段を降り、店を出る。彼女は正面から誕生日を迎え入れ、彼は誕生日を起点に出発した。
彼は末期の胃癌と診断された。余命は半年である。
喋りもフガフガとしており、歩き方もたどたどしい。家に帰ると息子夫婦が自分の遺産を狙っている旨の話をたまたま聞いてしまう。主人公1人で大切に育てた一人息子から”物”のように思われていた事による絶望。30年間無欠勤で”真面目”に働いていたが、最早周りの人間の誰にも自分が胃癌であることを話せない。結局勤めていた市役所を無断欠勤するようになる。それからカフェで元部下の若い女との会話から悶々とした感情の正体を悟る。彼は今まで自分が生きていなかったことを知ったのだ。そして先の誕生日会の構図が生まれる。
結果、彼のこのきっかけは自身を主体的にさせる。市役所における功績を残し、その後死亡した。しかし、本人の通夜の席で成果は市役所の上層部の手柄だと元部下達は上司達を煽てる。彼らも以前の主人公同様、社会的立場を守るために”何もしない”事を選んでいた人間達であった。
その中でおかしいと考える1人の元部下。
功績は主人公の行動によるものであるとその部下だけは知っていた。本当は他の部下達も上層部も知っていた。ただ、そうは考えたくないのであった。彼らはその実際の行動を見ていた。臭いものには蓋をする如く、自分の生き方を否定してしまう”臭いもの”として上司の手柄にすることで”蓋をしようと”していた。
通夜の終わり際、結果的に彼らは主人公の功績を認め、称えた。「彼に続け!」と言わんばかりにお互いを鼓舞する。通夜の席はそこで終わる。それでも翌日から仕事に戻れば主人公が変わる前の”生きているとは言えない”生活を送る人々。結局は人は変わらない。ただ1人、1人の部下だけは彼の遺した意志のあらわれを見つめ続けていた。
サルトルの言うところの反省的な眼差し、対他存在、対自、脱自、現在からの逃亡、アンガジェマン、現在の蓋然性、相克、実践的惰性態など多くの考えが浮かぶ作品だった。息子夫婦の主人公に対して見出す「道具-事物」の関係によって生まれる蓋然的な未来。対自を失い、即自に凝固してしまっていた所で元部下の女性をきっかけに対自を取り戻す。即自的な無でしかない時間の中に反省的な眼差しの元で組み立てられた余命という”期間”。不純な反省を行う元部下達と純粋な反省を行うただ1人の部下。死亡することで対自と「あるところのもの」が重なり、かつて対自であったところの即自として凝固する主人公。ただ1人の部下は「あるところのものであらずあらぬところのものである」、他の部下達とは別の即自的な姿を主人公に対して見出す。その部下だけが、主人公以外で血の通った現実存在者(欠如者)の中で本質となれた。その部下だけが、対自の理想的な実現の相関者たる、世界の理想的な状態を提示された。
”期間”を手に入れた瞬間である、新たな誕生日に送り出された瞬間。同じ築き上げられたネガティブな横姿でも、”誕生日”を迎えた後には乗り越える姿にしか見えなくなってしまう力強すぎる映画だった。
主人公にとっては胃癌という大きなきっかけ。
ところで、部下達にとっては生前のミイラのような生き方からは仕事仲間と言うよりも他人という関係が主人公との間には見て取れる。他人にとっては突如失踪したよく分からない上司の失踪、行動、後に死。であり、他者であるが故に背景化された現実。しかしそこら中にきっかけ、それは転機ではなくて反省的な眼差しを向ける機会がそれぞれにある、あったことが分かる。対自の「あるところのものであらずあらぬところのものである」姿を求める行為がそもそも存在しない人間は居ない。だが投企する人間としない人間がいるコントラストも強く感じた。