【読書記録】奴隷になった先輩(存在と無)
対象とまなざし
対象としての他者と
まなざしを向けている(ことへの)まなざし
前者はこの世界が他者とっての世界でもあることを表し、
後者は私の認識の分解である。
他者を対象として見る
まず、前者は
他者が既に対象という資格で、この私の世界のうちに存在している。
それは目の前の机の上にコーヒーがあり、本があるのと何ら変わりのない空虚な思考である。私はその現前に対して何一つ外部を付与しない。
この時の他者を例えれば、横断歩道を早歩きで渡る見知らぬサラリーマン。ただそれだけ。
私にとってそれ以外の何物でもない。
他者のまなざしによる私の奴隷化
それに対して後者は私にとっての世界及び私自身の私からの脱出である。
もし、誰かが私にまなざしを向けているならば、私は「対象である」という性質を持つ。この意識は他者の存在の内に、他者の存在によってしか生じえない。
これは、仮に、私がドアの隙間から覗きをしていたとする。私のいる場所には影が落ちており、そのほの暗さが私を隠す。ところが突然廊下の奥で足音がした。誰かがやってくる。その場面において私は自分の認識の崩壊を感じる。私は、ドアの向こうの「覗かれるべき光景」のために、ドアと影は私を覗かれる光景からの視線をさえぎるものとして、ドアの隙間は覗き穴として、認識していた。この時廊下の向こうからやってくる他者は懐中電灯を持っている。影は私を隠さないだろう。私は「まずい!」という感情と同時にドアは”覗き穴”ではなくなる。私は切迫する。
なぜ覗かれるべき光景を前に他者が表れると”まずい”のであるか。
目的は、手段を正当化させ、そのことにより、目の前の事物をその状況における理想的な手段として構成する。
”まずい”のは私の世界が他者のまなざしの下に崩壊するためである。
我々は他人に、「優しい人」として認識を付与する。同じように他者は我々に「𓏸𓏸であるもの」として認識を付与する。この付与は他者の自由に完全に委ねられており、この状況において言えば、「変態であるもの」「始末されるべきもの」として認識を付与する。この付与された私は、私の内では〈顕示されない私〉として存在する。(どうして他者の内に臆病者として存在する私を私の内のみで見つけられようか?)それを我々は他者のまなざし(知覚器官としての目だけではなく、下がった広角、顔を背けて呆然と立ち尽くす姿など)により体験する。
それと同時に、ドアは”覗き穴”という性質を失う。
私の自由がまなざしを私に向ける他者に委ねられる。
我々は存在として程度の差こそあれ、人間は意識個体としては「それであらぬところのものでありあらぬところのものである」という理想を抱くつまり、「現在の私は本当の私ではなく、未来のいまだ到達していない私こそ本当の私」である性質を持つ。
しかし、この”本当の私”は今や、その私が”何者か”なってしまっている。
私は彼の世界を生きることになる。
私の諸可能が限定され、凝固させられる。
私は彼の奴隷になる。
ところで、われわれは普段他人と関わる上で彼の性格や態度を目指す。それは彼が「私の見るところのもの」であるばかりでなく「私を見るところのもの」であるためである。
「まなざしを向けられているまなざし」ということは
認識不可能な評価の特に価値評価の認識対象として、私をとらえることである。
そうして私は私のこの世界は崩壊し、他者の自由によって私の世界が構成される。
これが奴隷化である。
奴隷になりかわった先輩
職場の全員から”優しい人”として扱われる先輩がいる。ただ、彼は”判断力に欠けている”とも言われる。職場において”優しさ”と”判断力に欠けている”とはコインの裏表のようなものである。
結論から言うと、”優しい”と言われた彼は奴隷であり、彼に”優しい”と言った職場の人間全員が主人である。
彼は職場の人間からまなざしを通して”彼は優しい”という主観性を彼の存在と共に体験する。
しかしそれでも彼は彼自身にとっては優しくない。
というのも、彼にとって「私は優しい事をした」と思う行為は、あくまで行為を受けた相手からしたら「優しい」と真に思われているか、彼本人にとっては分かるはずがない。分かるとすればテレパシーが使えているはずだ。
さらに、意味通りに彼は彼自身に対して優しくは無い。彼にとっての彼がする、”優しい行為”は如何なるものであろうか。自分を甘やかして「今日は仕事に行かない」がそうかもしれない。もしかすると欲望に忠実に「ここにいる女性に対して性欲の限りを尽くす」がそうかもしれない。「他人に自分のやりたくない仕事を押し付けて楽をすること」が自分に対して真に優しいのかもしれない。ただ彼はそんな事をしない。故に彼は自分の優しさを体験することがないのだ。
彼自身にとっては”優しい”かどうかは分からないにも関わらず”優しい”と言われる。
すると彼は「優しくあるべき」だと考える。
彼は、彼にとってこなすべきではない仕事をこなす。くだらない誰も聞きたがらない自慢話を頷きながら必死で聞く。彼は”優しい”という言葉を聞き、彼自身によって自分の自由(判断の選択肢)を失う。
奴隷とは、「私が、私を性質付けにやってくる諸々の価値の対象でありながら、私の方ではその性質になんら働きかけることもできず、その性質づけを認識できないかぎりにおいて」奴隷である。
かかる奴隷は「他者の世界を生きること」であるため、彼の諸可能性は主人に奪われている。
これは誰もが陥る。
かかる奴隷状態から、脱出するためには、
冒頭に話した、前者である、「他者を対象化」することの他に、後者の「まなざしを向けている」他者と「まなざしを向けられている」私の立場の反転させたことをすればいい。
サルトルは「まなざし」を互いに向け合う戦いを「相克」と呼んだ。