キリンジ[アルカディア]に対する存在と無からの視点による未完の考察
キリンジのアルカディアの考察を見ると失恋とか戦争の歌と書いてある。存在と無がMVで強調されてるところを見ると失恋と解釈するには早合点すぎると考察を見て直感的に思った。
この考察は未完了であり、不完全であり、考察に過ぎない。ただ、MVにおけるサルトルの言葉の引用、存在と無の本がわざわざ字幕付きで登場することからサルトルとの関連は避けられないように感じる。これは存在と無からの視点における考察を試みた形跡。
以下はメモの殴り書きをそのまま記載したもの。
存在と無では満月が自己の「あるところのものであらずあらぬところのものである」を体現する理想的な自己の姿の例えとして何度も出てくる。満月に対して現在の自己は弦月と例えられて出てくる。満月に対して自己に欠けている部分を欠如分、欠如している自分を欠如者(弦月)、満月は欠如を蒙るものとして扱われている。
しかしこの満月は過去現在未来の集約であるため、また対自(それがあるところのものであらずあらぬところのもの)である人間存在は即自(それがあるところのもの)の真似事はできるが即自になりきることは出来ない。
またこの満月は、(反省的な眼差しによって)この満月を含んだ弦月になりうる。満月はそれを見つめると消え、無化の中で浮かび上がる。故に、満月を完璧に規定することも出来ない。
この事を考えると、彗星が満月を射止める事は自己欺瞞的な考えに陥っており、「血に飢えた僕は」「満月を射止め」たのはその捉えようのない満月の姿、またその実現において「意味へ急いでいる」というように感じる。ところで、存在と無における弾道は消失していく生成という形での空間の出現。この運動によって空間が時間のうちに発生する。運動は対自が動体の現在によって自分自身の現在を自分に告げさせるかぎりにおいて、普遍的な時間を実現させる役割を負わされている。「彗星のコース」を存在と無における弾道だと捉えた場合、現在を自分に告げさせる「彗星のコース」で「血に飢える」(焦り)が生じ、射止めたような気がしているだけなのではないかとも考えられる。
「迫り来る明日」と「消えてゆく昨日より魅せたら」における関係は”対自は将来において自分のあるところのもの《自身の即自的な面》を満月に近づけさせるのは過去から出発してからであることから、現在からの脱自(自己をあるところのものであらぬような否定)を「迫り来る明日」の焦っている状況において「消えてゆく昨日」を噛み締めながら「明日」に対して希望を感じようと行っているように感じる。
「迫り来る明日 昨日より魅せたら テンポの乱れた 風 冬の空を焦がす」歌詞は脱自によって起こる蓋然的な将来の一部(皿を食事における器として扱えるように、投げることで他人を傷つけることもできることと同様に)が「焦がされた空」という解釈もできる。乱れるはずのなかった風のテンポが変わるのかもしれない。
アルカディア=理想郷という意味から満月の捉え方に対して個人的に納得がいく。けどあとは分からない。
存在と無が第二次世界大戦中に書かれた著書であることから戦争の筋も視野に入れることも避けられないと感じる。