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「君のキャリアは川下り型だね」 これは元上司で現リクルート社長の北村さんに言われた言葉である。当時私はサンフランシスコにあるUXデザイン会社でマーケティング部門を統括するディレクターとして働いていて、北村さんは出張でサンフランシスコを訪れていた。マリオットホテルの最上階にある夜景の素敵なバー「The View Lounge」で飲みながらリクルート退職以来の紆余曲折を話した私について、北村さんはそう表現した。 それまでキャリアに「山登り型」と「川下り型」があるなんてまったく
2016年6月。スーツ姿の私は下りの東北新幹線の中で泣いていた。六本木でそこそこ有名な某スタートアップの社長との最終面接を受けた帰りだった。 面接の冒頭で「僕この間〇〇さんとゴルフしてたんですよ。家も近くてね」と何の脈絡もなく某大手企業社長とのつながりを披露してきた彼は、「この経歴を見てもあなたが結局『何屋さん』なのか全然わからない」と初めから話を聞くつもりもなさそうな態度を見せ、私が自分の強みとして伝えた「周りを巻き込み物事を前に進めていく力」に対して「そんなのは誰でもで
結婚退職した私はそのまま専業主婦となった。結婚に伴う引っ越しという理由で退職したため、失業手当はすぐに支給された。 多忙な夫以外誰も知り合いのいない仙台での生活は孤独だった。どこの組織にも属さず仕事もしていなかったため、自分が仙台という社会の一員だという意識を持てないまま宙ぶらりんな存在になっていた。「これでよかったのだ」と自分を納得させつつも、不安だった。 3か月間の失業手当が切れる前に仕事を見つけた。東北大学での研究室秘書の仕事だ。そもそも「会社員として失格」だと思っ
それまで流されてうまくいってた人生がまったくうまくいかなくなり、私はかつてない程落ち込んだ。一方で気が付いた。積み上げてきたものがないならどこで再スタートを切ってもいい。半分自棄になった私が考えたのはアメリカに行くことだった。 もともと新卒で就職活動を始める前に、アメリカの大学院に行こうか悩んでいたことがある。結局その時も流されて就活し、流されてベネッセに入社したのだが、後悔する必要のない過去まで見境なく後悔し「流される」ことに対して完全否定モードだった私は「流される前の意
「サンフランシスコ インターン」で検索ヒットした記事を読むと、どうやらbtraxという会社で日本人がインターンしているようだ。次は「btrax」で検索。開いたウェブサイトで最初に目に飛び込んできたのは”Cross-cultural Marketing”という言葉だった。 衝撃を受けた。私が卒業した学部の英語名は当時”Cross-cultural Studies”。そして私はマーケティングがしたい。自分にはまるキーワードが並んでいる。さらに進むとその会社は日本語のオウンドメデ
こうして私は「正社員か、インターンか」の選択を迫られた。 インターンは無給である。期間は3か月間。インターン終了後に正社員に採用される確証はどこにもない。つまり、3か月間のインターン終了後、また就職活動をしなければならない可能性があった。 常識的に考えたら選ぶべきは東京での正社員だった。すぐにお金をもらえるし、やりがいも得られそうだ。それにそこで働いている社員の人たちがとても魅力的だった。これまでの社会人経験から「誰と働くか」が重要だと思ってきた私にとって、このポイントは
『おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。』 サンフランシスコに渡る直前、私はこの『魔女の宅急便』のキャッチコピーをよく思い出していた。英語はおぼつかないし、すでにブランクは4年半になっていた。そもそも週40時間働くのだって4年半ぶりだ。それに新卒以来一番下っ端の立場だ。基本的には落ち込むことばかりだろうことを覚悟していた。 インターン中の3ヶ月間は先述の友人宅に居候させてもらうことになっていた。彼女の家に到着した日、玄関にこの言葉が入った『魔女の宅急便』のポスターが貼
イタリアから帰ってきた私は東京でマンスリーマンションを契約した。すでにアメリカのビザが切れていたため、次のビザが承認されるまでの間は東京勤務となったのだ。東京オフィスのメンバーは温かく迎えてくれたし、サンフランシスコのメンバーともSlackでこまめにコミュニケーションを取っていた。しかし、経営陣とはだんだんと歯車が噛み合わないように感じることが増えていった。 今自分がやっていることは果たして何のためなのか。たとえば会社の売上や利益を増やした先に実現したいことは何なのか。イノ
独立すると決めた私は、クリスマスに入る前に会社にその意思を伝えた。会社の方針に理解が追い付かなくなったこと、ディレクターという立場上、その状態で働き続けるのは難しいことを伝え、会社が私のビザ申請に費やしたコストと労力について謝罪した。 会社を辞め、日本に帰ってフリーランスで働くという決断を短期間で下したことに、周囲はまた度肝を抜かれていた。「1ヵ月前に会ったときそんなこと一言も言ってなかったのに!」と言った友人もいたが、1ヵ月前には私自身がそんなことをまったく考えていなかっ
私はずっと自分を「そこそこ」だと思っていた。小3から塾に通い始めたのだが、そこの同級生たちは秀才揃いで私の成績は常に中の下レベル(国語が上、理数が下)。自分は勉強ができないとは思わなかったけれど、「めちゃくちゃできるわけではない」旨を子供の頃に自覚した私は、その後中学受験で国立の中・高に進んだが、京大や医学部を志す同級生が結構いるなか成績は中の上程度とそこそこ。大学受験ではそこそこの大学の文系学部に受かり、これまたそこそこの企業に勤める、といった具合だ。ちなみに3歳から23歳
3月半ばから1か月半ほど、少し精神的に不安定だなと感じる日々が続いた。とはいえきちんと仕事はしたし、ジムにも週2回のペースで通っていた。3食自炊していたし、夜もちゃんと寝ていた。しかし常に不安感があった。逆に言えばそうして生活を保っていることで、自分なりにバランスを取っていたのかもしれない。十分大人になった私はそのあたりの対処法も自動装備していたのだろう。 そんななか1本の映画を見た。アカデミー賞作品賞を受賞した『ノマドランド』だ。そして不安の正体とも思えるものがぼんやり見
相変わらず直感と勢いだけでキャリアの川を下っているが、次にたどり着いた岸が「会社設立」とは自分でも予想していなかった。これで新卒以来私の経歴は、国内大企業社員→専業主婦→大学のパート職員→海外インターン→海外中小企業の管理職→日本でフリーランス→会社役員となった。実にバラエティ豊かである。 それまでも法人化した方がよいというアドバイスは方々からもらっていた。しかしまったく気分が乗らず気楽なフリーランス生活を送っていたわけだが、師走真っ只中に急にスイッチが入り、年明け早々に登