サンフランシスコに幕、京都へ
独立すると決めた私は、クリスマスに入る前に会社にその意思を伝えた。会社の方針に理解が追い付かなくなったこと、ディレクターという立場上、その状態で働き続けるのは難しいことを伝え、会社が私のビザ申請に費やしたコストと労力について謝罪した。
会社を辞め、日本に帰ってフリーランスで働くという決断を短期間で下したことに、周囲はまた度肝を抜かれていた。「1ヵ月前に会ったときそんなこと一言も言ってなかったのに!」と言った友人もいたが、1ヵ月前には私自身がそんなことをまったく考えていなかったのだから当然である。
イタリア旅行や東京で会った友人たちとの会話がまた大きな流れを作り、私はまたそこに乗ったのだ。
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2019年のお正月、私は京都の実家で特番を見ていた。予備校講師の林修先生が高学歴ニートに講義するという番組をなんとなく見ていた私は、そのなかで林先生が語った内容にハッとした。
「仕事を決める軸には『やりたいこと』と『できること』の2種類があるが、優先すべきは『やりたいこと』よりも『できること』。『やりたいこと』というのはその時の情報や環境によって変わるため当てにならない。一方『できること』というのは変わらないし、結果も出せて周りもハッピーになる」
表現は異なるが概ねこのような内容だ。これを聞いた私は自分の決断にお墨付きを与えられた気がした。
就職活動でメディア系がそこそこうまくいったのも、国語や読書感想文が得意だった私にとって、それが「できること」寄りの分野だったからだ。それでも若かった私は「できること」に価値を見出すことなく「やりたいこと」を優先してマーケティングの道に行った。そのマーケティングの仕事のなかで、結局自分の力を発揮できるのが「文」なのだと気付いて、そこから「文」を作ることを本業にしようと決めた。私の場合、「できること」からキャリアを始め、「やりたいこと」に寄り道し、結果的に「できること」に戻るというわけだ。これは非常に正しい選択に思えた。
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もう1つ、実家で目にして印象に残っているものがある。それは1月9日に朝日新聞朝刊の京都面に出た記事だ。
「都市力 狙う世界市場 国内外企業の進出相次ぐ」という見出しで始まる記事によると、「京都市中心部でIT関連などの開発やデザイン拠点が目立つのが近年の特徴」だという。その記事内ではAppleが京都に注目していること、パナソニックがデザイン部門を京都に集約したこと、LINEが拠点を構えたこと等が紹介され、「かつての京都はオムロンや京セラ、村田製作所や日本電産といったベンチャー企業を次々と生み、大企業に育ててきた」とも書かれていた。
就職と同時に離れた京都だが、戻ってみるのも面白いかもしれないとふと思った。フリーランスになったら東京で活動しようと考えていたのがいとも簡単に揺らいだ。テクノロジーの街に少し疲れた反動で、イタリアで訪れたような歴史と文化が色濃く残る街を心地よく感じたというのもあった。ちなみに京都とフィレンツェは姉妹都市である。
1月の上旬に偶然目にしたこの2つが、私が下る川の流れをまた加速させた。メディアから簡単に影響を受けるとはどこまで軽いのか、と思われるかもしれないが、私の川下り人生とはこんなもの。ちょっとしたことですぐ方向転換するのである。
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1月中旬、私はESTAを取得してサンフランシスコへ向かった。空港到着後、機内でスマホの機内モードを解除した私の目に飛び込んできたのは「ビザ申請却下のお知らせ」というテキストメッセージだった。
なんというタイミングかと思ったが、正直ホッとした。もしビザが通っていたら、きっと少しは心残りを感じただろうと思う。でもこれですべて終わった。私は心置きなく残務を処理し、友人たちとの別れを惜しみ、家財を売ってアパートを解約し、少しポートランドに立ち寄って、2月7日、本帰国した。
サンフランシスコで得たものは計り知れない。シリコンバレーがどこにあるかも知らないパート主婦だった私が再起をかけた場所。ここで私は職を得、新たな友人を得、英語力を得、新しい知識を得た。初めてマネージャーとなり部下を持ち、人を育成する面白さと難しさを知った。CEOと会社の経営についてたびたび意見を交わしたことも大きな学びになった。これらすべて、あのとき絶望感のなかで「サンフランシスコ インターン」で検索しなければ叶わなかったものだと思うと、本当に人生どう転ぶかわからない。(つづく)
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