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ぶつ切りの経歴、4年のブランク、被扶養者の絶望

2016年6月。スーツ姿の私は下りの東北新幹線の中で泣いていた。六本木でそこそこ有名な某スタートアップの社長との最終面接を受けた帰りだった。

面接の冒頭で「僕この間〇〇さんとゴルフしてたんですよ。家も近くてね」と何の脈絡もなく某大手企業社長とのつながりを披露してきた彼は、「この経歴を見てもあなたが結局『何屋さん』なのか全然わからない」と初めから話を聞くつもりもなさそうな態度を見せ、私が自分の強みとして伝えた「周りを巻き込み物事を前に進めていく力」に対して「そんなのは誰でもできる」と断定し、「あなただけ東京で働くって、ご主人はいい気しないでしょ」と差別的なことを言った。

この面接は私に絶望をもたらした。それまで編集2年半、企画2年半、事業推進2年、そして秘書4年と様々な職種を経験していた私は、自分でも何のプロフェッショナルでもないと薄々感じていた。しかし「成功者」の立場の人から改めてそのことを目の前に突き付けられたことはショックだった。さらに、自分の強みについても否定され、仕事とはまったく関係のない結婚生活にまで無遠慮に踏み込まれた。それは屈辱だった。

実はこの企業の前にもいくつか東京の企業に応募していた。しかし、そのいずれからもいい評価はもらえなかった。そして、毎回聞かれた。「ご主人はどう言っているんですか」と。

ぶつ切りの経歴、4年のブランク。「夫の付属物」である30代半ばの女。それが当時いわゆる世間に映る私の姿だったのだろう。そして世間はこのラベルで私を判断するのだと悟った。

そして、当時そうしたラベルで判断するという価値観に若干飲み込まれていた私は、過去を後悔し始めた。仙台に来ても正社員の職を見つけていれば。結婚で仕事を辞めていなかったら。結婚自体、彼が東京に戻るまで待っていれば。20代のとき、もっと一所懸命仕事していたら。いやでもそもそも異動は私の希望じゃなかったし。とはいえそれであっさり仕事を辞めたのも自分の決断だった。

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結婚して夫のいる仙台に住むと決めたとき、キャリアを断絶するという迷いよりも、「会社を辞める正当な理由ができた」という気持ちが大きかったのは事実だ。当時私は新設部署の事業を運営・推進していく仕事をしていたが、正直やりがいを持てていなかった。

その前までは結婚情報誌『ゼクシィ』のメディア企画や調査、KPIマネジメント等マーケティング系の仕事をしていて、本当に充実していた。ベネッセから転職するときに「こういう仕事ができたらいいな」と思い描いた以上のことができていて、やりがいに満ちていた。

もともと興味のあった女性向けビジネスに携わっている充実感。業界で大きな影響力を持つメディアを作っているという自負。ユーザーベネフィットを中心に考えながらもクライアント利益も実現し、それにより事業を成長させていく面白さ。

仕事を通して自信を得た初めての体験だった。当時その自信は通勤で東京駅構内を横切るときに鳴らすヒールのカツカツ音にも表れていた。愛用していたヒールはPRADAである。今でもあの東京駅をカツカツいわせて歩いたときの誇らしさの混じった感情は若干恥ずかしくも愛おしい。20代後半の、キラキラした充実の日々だった。

それが異動の辞令とともにあっさりと消えた。

もともと異動の多い会社だったし、組織で働いている以上は仕方がないとわかっていた。それに当時の直属の上司は内示の際、「リクルートの将来を担う部署でいい異動だと思う。羨ましいぐらいだ」とまで言ってくれた。

だから私は期待に応えるべく頑張った。様々な事業部から人を寄せ集めてできた新設部署の会議体や席順等細かいルールを決め、PLを管理し、部員が残業しすぎないよう勤怠管理システムを見張り、空調が弱いだの備品を注文してくれだの等よろず要望も引き受けた。新卒で編集者になって以来5年間メディアを作っていた立場から一転、後方支援業務となったが、「これも期待されてのことだから」と自らを無理やり鼓舞した。

マネージャーの立場を経験し、かつ「オフィスのUX」という考え方を知った37歳の今なら、そのような組織を作り上げていく仕事も面白いと思えただろう。しかしそれまでのメディア作りとマーケティング業務へのやりがいを取り上げられた28歳の私には、後方支援の仕事に面白さは見いだせなかった。

そのうち持病の片頭痛が毎日出るようになり、結局5か月間会社に行くことができなくなってしまった。当時の精神科の医師は「適応障害」と診断したが、後に脳神経外科の医師はそれを否定している。正しい病名は今でもよくわからないが、とにかく毎日頭痛がして、吐き気を覚えていた。

組織の一員である以上異動は仕方のないことなのに、身体がそれを受け入れない。徐々に自分が会社員として失格であるような気になってきた。そうして自分にはフルタイムで働き続けるのは無理なのかもしれないという飛躍した結論に至った。結婚退職はある意味、「会社員人生への白旗」だった。(つづく)

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