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内なる「世間の常識」に気づいた日

こうして私は「正社員か、インターンか」の選択を迫られた。

インターンは無給である。期間は3か月間。インターン終了後に正社員に採用される確証はどこにもない。つまり、3か月間のインターン終了後、また就職活動をしなければならない可能性があった。

常識的に考えたら選ぶべきは東京での正社員だった。すぐにお金をもらえるし、やりがいも得られそうだ。それにそこで働いている社員の人たちがとても魅力的だった。これまでの社会人経験から「誰と働くか」が重要だと思ってきた私にとって、このポイントは大きかった。

色々な人に相談をしたが、多くの人は正社員を勧めてきた。しかしせっかく勝ち取ったサンフランシスコのポジションは、留学から帰ってきて以来12年間「いつかアメリカにまた住めれば」と密かに思っていた私にとってすぐに捨てられるものではない。そこで、私はリクルート時代の上司に相談することにした。

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その人は私がゼクシィに入ったときの、ほぼ最初の上司だ。正確には私が入社したときには別の人が上司だったのだが、1か月後にその人が上司になることが決まっていた。

当時は新しい雑誌の創刊直前という時期で、編集部は殺人現場的な様相を呈していた。まだオフィスが汐留にあった頃の話だ。深夜残業が当たり前のなか、誰も新入りの私の面倒を見る余裕はなく、創刊号が校了するまでの1か月間、私はやることがほぼなく毎日編集部にあった雑誌を読み、6時には帰っていた。おかげで当時女性ファッション誌にはずいぶん詳しくなった。

そんな尋常ではない状況のなか、その上司は1か月間、始業定時前の毎朝9時半から10時の間の30分間を私のために使ってくれた。すでに彼女が編集部員に対して厳しい態度で接しているのを目撃していたこともあり、ミーティング初日の朝、私は少し緊張していた。そんな私に対し、彼女は「ここから富士山が見えるんだよ」と会議室からの風景を見せてくれた。高い建物のない京都育ちで、最初の職場も多摩だった私は都心の高層ビルに憧れがあり、会議室からのその風景に感動し、緊張が緩んたのを覚えている。

毎朝のそのミーティングで、私はわからない用語を質問したり、編集部の状況を教えてもらったりした。不安なことも全部共有した。忙しいなか時間を割いて話を聞いてもらったことは本当にありがたかった。その後リクルートには5年いたが、そんなことを1か月間毎日続けた組織長を私は他には知らないし、誰に話しても「それは本当に恵まれたね」と言ってもらえた。

そんな風に私の面倒を見てくれた彼女ならどう言うか、意見を聞いてみたいと思った。

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フリーランスの通訳観光ガイド、編集者、専門学校講師など多方面で活躍している多忙な彼女は、久しぶりの連絡にもかかわらず、Skypeで1時間半もかけてこれまでの諸々をじっくり聞いてくれた。そして言った。「サンフランシスコに行きたいんでしょ」。

「東京の会社の話をするときと、サンフランシスコの会社の話をするときの顔つきが全然違うよ」と指摘され、結局私は自分自身を「世間の常識」に当てはめて「順当な」選択をしようとしていることに気がついた。

「無給のインターンより正社員のほうが価値が高い」「インターンは学生がするもの」「英語もろくに話せないのに無謀」。これらは私自身の中にあった「世間の常識」だ。本当に世の中の多くがこう思うのかどうかは知らないが、私はこれらが「世間の常識」なんだと思っていた。そして私はなぜかこれらを引っ張り出して、挑戦しない理由を正当化しようとしていた。

過去にも同様のことはあった。自分の気持ちよりも自分が作り出した「こうあるべき」論に無意識に絡めとられる。そして大人ぶって、「夢を追うのは子供のすること」だと結論づける。そうしてアメリカの大学院よりも日本での就職を選んだ結果、「あのときアメリカを選んでいたらどうなっただろう」となんとなく心残りを持ち続けていたのはどこの誰だったか。

「失うものはない」と思ってアメリカでのインターンを志望したはずなのに、「正社員ポジション」を得た瞬間にそれを失うまいと守りに入り始める。自分の軽薄さに本当に呆れつつ、そうしてまた別の心残りを作らんとしていたことに気づいた私は、サンフランシスコでのインターンを選んだ。

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内定辞退を伝えた私に、東京の会社の社長からはこのような返信があった。

「3か月のサンフランシスコのインターンが終了した時点で、もしまだ弊社に参画いただける可能性があるようでしたら、ぜひご連絡くださいね。心よりお待ちしております」

本当に感謝しかなかった。(つづく)

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