第4章 武家社会の成立❹
4.鎌倉文化
鎌倉文化
鎌倉時代は、公家が文化のにない手となって伝統文化を受け継ぎながらも、一方では武士や庶民に支持された新しい文化が生み出され、それが次第に成長していく時代であった。 新しい文化を生み出した背景の一つは、地方出身の武士が社会の中心になって、その素朴で質実な気風が文学や美術の中に自然に映し出されるようになったことである。もう一つは日宋間を往来した僧侶・商人に加えて、モンゴルの中国侵入によって亡命してきた僧侶らの渡来によって、 数々の新しい宋・ 元の文化がもたらされたことである。
鎌倉仏教
12世紀後半からの時代の大転換によって、精神生活にも多くの新しい気運がおこってきた。なかでも仏教には、それまでの祈祷や学問中心のものから、内面的な深まりを持ちつつ庶民など広い階層を対象とする鎌倉仏教の流れへという変化がはじまった。
その最初にあらわれたのが法然であった。美作の武士の家にうまれ、天台の教学を学んだ法然は、源平争乱のころ、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、死後平等に極楽浄土に往生で きるという専修念仏の教えを説いて、のちに浄土宗の開祖とあおがれた。 法然の教えは京都の貴族だけでなく、武士や庶民の心をとらえて広まっていったが、一方では旧仏教側からの非難が高まり、法然は四国に流され、弟子たちも迫害を受けることになった。
貴族の家にうまれた親鸞も、このとき法然の弟子の一人として越後に流されたが、のちには関東地方に移って、長く地方の農村で思索と布教の生活をおくった。親鸞は師法然の教えを一歩進め、煩悩の深い人間 (悪人) こそが阿弥陀仏の救おうとする相手であるという悪人正機の教えを説いた。その教えは農民や地方武士のあいだに広がり、やがて浄土真宗(一向宗)とよばれる教団を形成していった。
同じ浄土宗の流れの中から、やや遅れて出たのが一遍である。伊予の有力武士の家にうまれた一遍は、善人・悪人や信心の有無を問うことなく、全ての人が救われるという念仏の教えを説き、踊念仏によって多くの民衆に教えを広めながら各地を布教して歩いた❶。その教えは時宗と呼ばれ、当時、地方の武士や農民に広く受け入れていった。
同じころ、古くからの法華信仰をもとに、浄土教に刺激されて新しい救いの道を開いたのが日蓮である。
安房の一漁村に生まれ、天台宗をまなんだ日蓮は、やがて法華経を釈迦の正しい教えとして選び、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることによって救われると説いた。 鎌倉を中心に、他宗を激しく攻撃しながら国難の到来を予言したりして布教をすすめた日蓮は、しばしば幕府の迫害をうけたが、日蓮宗 (法華宗) は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていった。
当時の関東で武士のあいだに大きな勢力を持っていたのは禅宗であった。坐禅によってみずからを鍛練し 釈迦の境地に近づくことを主張する禅宗は、当時の中国でさかんで、12世紀末ころ宋にわたった天台の僧栄西によって日本に伝えられた。栄西は密教の祈禱にもすぐれていて、 公家や幕府首脳の帰依をうけ、のち に臨済宗の開祖と仰がれた。栄西以来、幕府は臨済宗を重んじ、宋から蘭渓道隆 ・ 無学祖元ら多くの禅僧を招き、鎌倉に建長寺・円覚寺などの大寺を次々と建立していった。それは禅宗の厳しい修行が武士の気風にあっていたためであるが、海外の新文化を吸収する目的もあった。
幕府との結びつきを強めた禅宗の中で、ただ、ひたすら坐禅に徹せよと説き、山中にこもって曹洞宗をひらいたのが道元 であった。貴族の家に生まれた栄西門下にまなんだ道元 は、さらにに宋わたって禅を学び、一切の余事をかえりみず、坐禅そのものを重視する教えを説いた❷。
こうした鎌倉新仏教に共通する特色は、天台・真言をはじめ旧仏教の求めた、戒律や学問などを重要視せず、ただ選びとられた一つの道 (念仏 ・題目・坐禅)によってのみ救いにあずかることができると説き、広く武士や庶民にもその門戸を開いたところにある。このような新仏教に刺激され、旧仏教側もあらたな動きをみせた。鎌倉時代の初めころ、法相宗の貞慶(解脱) や華厳宗の高弁(明恵)は、戒律を尊重して南都仏教の復興に力をそそいだ。やや遅れて律宗の叡尊(思円)と忍性(良観)らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人びとや病人の救済・治療などの社会事業にも献身し❸、多くの人びとに影響を与えた。また、旧仏教各宗のもとでは古くからの山岳宗教と結びついた修験道 が広く行われた。
中世文学のおこり
文学の世界でも新しい動きがはじまった。武士の家にうまれた西行は、出家して平安時代末期の動乱の諸国を遍歴しつつ、清新な秀歌を読んで、歌集『山家集』を残した。また『方丈記』の作者鴨長明は、人間も社会も転変して全ては虚しと説いた。彼らはともに、中世的な隠著の文学の代表者である。承久の乱の直前に、歴史をつらぬく原理をさぐり、道理による歴史解釈を試みが「愚管抄」❹の著者、慈円を含めて、彼らの作品には当時の仏教思想が表れている。
このころ貴族文学は、和歌の分野で最後の輝きを露わにした。後鳥羽上皇の命で選ばれた「新古今和歌集』の撰者藤原定家・藤原家隆らが示した歌風がそれで、平安時代の和歌の伝統にまなび、技巧的な表現をこらしながら、観念的な美の境地を生み出そうとしている。こうした作風は上皇を中心とする貴族たちの間に広く受け入れられ、多くの優れた歌人が生まれた。武士の間にも定家に学んで、しかも万葉調の歌を読み、 その歌を「金魂和歌集』として残した将軍実朝をはじめ、作歌に励む人々も少なくなかった。
戦いを題材に、実在の武士の活躍ぶりをいきいきと描きだした軍記物語は、この時代の文学の中で、もっとも特色があった。中でも平氏の興亡を主題とした一大叙事詩ともいうべき『平家物語』は最高の傑作で、琵琶法師によって平曲として語られ、文字を読めない人々にも広く親しまれた。
平安時代後期以来さかんであった説話文学にも、「古今著聞集」など多くの作品が生まれたが、この時代の末に出た卜部(吉田)兼好の『徒然草』は、著者の広い見聞と鋭い観察眼による随筆の名作として名高い。この書は親鸞・道元、あるいは慈円らの著作と合わせて、鎌倉時代の貴族やその周辺の人びとの思索の深まりを示すよい例と言えよう。
また、公家の間には、過ぎ去った良き時代への懐古から、古典の研究や朝廷の儀式・先例を研究する有職故実の学もこのころ盛んになった。
北条氏一族の北条実時とその子孫は、鎌倉の外港として栄えた武蔵の金沢に金沢文庫を建て、和漢の書物をあつめて学問に励んだ。執権政治のもとでの合議制や成文の法典などを作り出すようになった鎌倉武士たちの間にも、ようやく内外の文化や学問への関心が高まってきたのである。また幕府の関係者は、幕府の歴史を日記体で記した史書「吾妻鏡」を編んだ。
この時代の末期には、宋の朱熹がうちたてた儒学の一つである宋学(朱子学)が伝えられた。その大義名分論のあたえた影響は大きく、後醍醐天皇を中心とする討幕運動の理論的よりどころともなった。また同じころ、鎌倉仏教の影響をうけた独自の神道理論が伊勢外宮の神官度会家行によって形成され、伊勢神道(度会神道)とよばれた❺。
芸術の新傾向
芸術の諸分野でもあたらしい傾向がおこっていた。鎌倉時代の初め、まず新風を巻き起こしたのは彫刻の分野であった。源平の争乱によって焼失した奈良の諸寺の復興には、鎌倉の源頼朝が大いに力を入れたが、その際、奈良仏師の運慶・湛慶父子や快慶ですが、多くのすぐれた仏像や肖像の彫刻をつくりだした。天平彫刻の伝統を受け継いで、新しい時代の精神をいかした力強い写実性や、 豊かな人間味の表出が、彼らの作風の特色である。 建築では、平安時代以来の日本的なやわらかな美しさを持つ和様が広く用いられていたが、鎌倉時代には、新たに大陸から大仏様と禅宗様が伝えられた。大仏様は鎌倉時代初めの東大寺再建にあたって、重源が宋人 陳和卿の協力を得て用いた様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色とし、東大寺南大門が代表的遺構である。禅宗様はこまかな部材を組み合わせて、整然とした美しさを表すのが特色で、鎌倉時代中期から円覚寺舎利殿などの禅寺の建築に用いられた。また、大陸から伝えられた新様式の建築法の一部を和様に取り入れた折衷様も盛んとなった。
絵画では、平安時代後期にはじまった絵巻物が全盛期をむかえた。絵巻物はじめ物語の挿絵から発達し、この時代には寺社の縁起、高僧の伝記などの形で、民衆を前にした説教にも利用されるようになった。また個人の肖像を描く写実的な似絵には、鎌倉時代初めに藤原隆信・信実の名手がでた。それは肖像彫刻の発達と並んで、この時代に個性に対する関心が高まってきたことをよく示している。禅宗の僧侶が師層の肖像画 (頂相)を崇拝する風習も鎌倉時代の中ごろから始まり、頂相彫刻とともに室町時代に全盛期をむかえた。
書道では、この時代に宋・元の書風が伝えられ、平安時代以来の和様をもとにして、青蓮院流❻のが創始された。
工芸の面では、武士の成長とともに武具の製作が大いに盛んになり、甲冑の明珍、刀剣の長船長光・粟田口吉光・岡崎正宗らが現れ名作を残した。また、宋・元の強い影響を受けながら、尾張の瀬戸焼❼をはじめ、各地の陶器の生産が発展を遂げた。