
マイノリティが果たす役割~トランスジェンダーの高校教員のお話を聞いて♯167
高校教員であり、トランスジェンダーの当事者でもある土肥いつきさんの出版記念イベントにオンライン参加。
高校で数学を教える教員として、性的マイノリティの生徒はもちろん、被差別部落、在日韓国人という背景を持った、生徒たちのアライ(当事者たちに共感し、寄り添いたいと考え、支援する人)としてもこれまで教員生活を送ってこられた。
実は、私も高校の非常勤講師として週に一コマ、ジェンダー学を教えている。子供たちが置かれる環境が、3K(管理・競争・空気読み)と言われるなかで、私が受け持つコースは、自由と安心のなかで人間がより人間らしくなっていく教育、自己決定/自己選択できて、自らじっくり選んだことを追求できる教育を目指して、今年度から開講された背景を持っている。
苛烈な受験競争を勝ち抜いて入学するような学校ではなく、むしろそのような仕組みのアンチテーゼとして。
起立性調節障害等の生徒にも対応できるよう一般的な高校よりも、少し遅めの始業時間だったり、様々な工夫をしていることから、中学時代、学校に行けなかった生徒たちも多い。まもなく1期生が1年を終えようとしているが、4月とは全く異なる表情をしながら登校している。春はどの生徒も大変大人しかったが、今では教室に活気がある。
講演会の話に戻そう。
土肥さんのお話で印象に残ったことは、トランスジェンダーの生徒たちの存在が、その周囲の人間が持つ、見過ごしがちなバイアスを浮き彫りにしてくれるという話。トランスジェンダーの生徒たちとのかかわりを通じて、周囲はいかにバイアスを持ってこの社会を見ていたかに気づくのだと言う。またそれが大切なのだとおっしゃっていた。
また、性的マイノリティと呼ばれる方たちに対する取組みに対し、「支援」という言葉が使われる場面がある。ただ、「支援対象」とすると、この社会のありようを問えなくなるとおっしゃっていたことも印象的だった。
それはつまり支援=既存の枠組みを前提としているから。
この話を聞いて、多数派の傲慢さを感じるとともに、私も何気なく「支援」という言葉を使っていたことがあったかもしれないとハッとさせられた。
ふと思ったのは、不登校の子どもたちに向けられるバイアスも、実は似たような問題を抱えているのではないかということ。
実際、不登校という状況にある子どもたちの存在が、私たちの教育システムや社会の在り方を問い直すきっかけとなることも多い。私の勤務校も、まさにそこを起点に、教育の在り方、学校の在り方を問う取組みだと思っている。
とはいえ、勤務校で働きながら、卒業後、彼女たちが自立していけるように・・・と現実的な側面を考えると、既存の社会のあり方をベースにして思考している自分もいる。
でも、改めて、教育現場に身を置きながら、自分のバイアスや違和感を見逃さないこと、そしてそこから今これが「正しい」とされている教育や社会の枠組みを問い続けること、また対話をし続ける姿勢はこれからも持ち続けたいと再度決意する。
そんな私もこれまで中高時代は他人に貼られるレッテルに悩んだり、20代、バリバリの男社会、かつJapanese traditional companyの代表格でもある鉄道会社で女性総合職として働いたり、また30代は子育てと夫の転勤・駐在帯同で、時代に逆行し、専業主婦になった。そこでもいろんなレッテル貼りをされ、憤った。そして40歳の今はがんがわかり、社会においては「弱者」にカテゴライズされるような立場にもなった。10代から20代は、競争に勝つこと、周りから脱落しないことこそがモチベーションの源泉だったようにも思う。そんな私も今では「競争」から「共創」という価値観を大切にしている。
マイノリティが果たす役割。それはこれからがんサバイバーとして40代以降を生きる私のモチベーションになりそうだ。