〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と〈四か国語を操る華僑の両性具有者〉
連作:6
連作:7〈完結編〉
〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と〈四か国語を操る華僑の両性具有者〉
INDONESIA
NORTH JAKARTA
中華街
15
そして一頭の獰猛な獣と、一人の中華美人は見つめ合う
24:00-1:00
一旦、トイレの為に席を立ち、再び円卓に戻るとさすがに小さなため息が漏れた
〈六か国語を操る華僑のゲイ〉ーJeanは再びワインリストを開いている
〈四か国語を操る華僑の両性具有者〉ーDianaは再び料理のメニューを開いている
時刻はすでに深夜を廻り——
まっ、まだ食べて飲むのか・・・
香港の老舗飲茶レストランのフロア席はまだひとびとのざわめきに埋め尽くされている
ざっと見渡してもやはりアジア系、華僑たちが目立ち、相変わらずチャイナドレスを着たお店のスタッフたちも忙しく湯気の立つ料理を運んでいる
最終的にこの世界を征服するのは中華民族に違いないと何かで読んだことはあるが、それにしても華僑たちのヴァイタリティはすさまじかった
やがてJeanがトイレの為に席を立ち、同様にDianaも席を立ち、わたしも再び席を立ち、円卓に戻ってくると、酒席でのありふれた光景のように、自然と席をシャッフルして座ることになった
といっても、ここにはわたしを含め三人しかいなかったのだが
わたしの右隣に座ったDianaに、さきほどちらりと見えた左の腰にある刺青について訊いてみると、彼女は小海老のスープを一口満足そうに飲んだあとでこういった
——”おみせしましょうか”
初対面の女性に腹部の刺青を見せて欲しいと頼むのは、あるいは礼を逸するのかもしれないが、この夜にその程度の親近感は獲得できているようにわたしには思えたからだ
それに、左の腰骨付近にある刺青なので、あるいは相手に見せることができるよう、ファッションの要素を含んだ、計算された位置にあるようにも思えた
彼女が黒いノースリーヴを少し捲ると、そこに現れたのは成人男性の人差し指ほどの大きさの、しかし、蜥蜴ではなかった
これは——
Dianaはいった
——”KOMODO DORAGONなのです。ご存じですか?”
コモドドランゴンか
もちろん知っていた
わたしが住むSemarangからさらに東のフローレス海のコモド島やフローレス島に棲息する、この地球上で最も危険な爬虫類の王だ
なぜそのような知識を持ち得ているのかは明白で、わたしは観光や旅行でこの国に滞在しているわけではなく、あくまで会社から派遣された駐在員なので、インドネシア国内を旅行する際は会社への申請と認可が必要となる
(現状はあくまで口頭で申請するだけだが)
実質的にコモド島への渡航は禁止されていて、その理由はもちろんこのコモドドラゴンにある
現地人でさえ恐ろしがってかれらの棲息圏には決して近づかないといわれていて、コモドドラゴンの成体は体長3m、体重も100kgを優に超えて、性格は極めて獰猛
人間をも恐れず、鋭利な牙と爪で引き裂いて食料とし、万が一逃げ切ることができたとしても、腐敗菌を忍ばせた牙や爪にかすり傷でも負わされれば、狂犬病のウィルスに冒され発病したら待っているのは100%確実な死・・・
インドネシア語で”花”を表す美しい名のFLORESの島々には、獰猛で残忍、そして世界最強の爬虫類の王の巣窟があるのだ
しかしどうしてKOMODO DRAGONなのだろう
女性が腰に彫るようなモチーフにはあまり不釣り合いな気がしないわけではないが
Dianaはいった——
——”さわまつさん、中央ジャカルタのRAGUNAN ZOOには行かれたことはありますか?”
行ったことはなかった
——”RAGUNANには時期にもよるのですが・・・
一頭だけコモドドラゴンがいます
わたしは毎年、フリーパスチケットを買ってときどき会いに行っています
もちろん、コモドドラゴンを観るのが目的です”
美しいDianaと獰猛なKOMODO DRAGON
だから全く関連性がないようには思えるが・・・
Jeanは追加の赤ワインをグラスではなくボトルで頼み、こういった
——”ぼくも一度だけDianaと観に行ったことがあります
実際・・・ものすごい迫力です
ほとんどの場合はだらしなく寝そべっているのですが、食事の・・・生肉を貪る姿の野生の獰猛さといったら・・・
さわまつさんも一度ぜひ一度は行かれたほうがいい”
MEMO——中央ジャカルタ/ラグナン動物園/獰猛なコモドドラゴン
そしてそのラグナン動物園のコモドドラゴンの一頭にDianaは名前まで付けているらしい
Dianaはいった——
——”GUNTUR
インドネシア語です
意味はわかりますか?”
知っていた
”雷鳴”を表すインドネシア語だ
海外に駐在していると、天気に関する当地の単語は早い段階で身につくことが多い
もちろんそれは自分の実生活に直接影響を与えるからだ
一年の半分は水と雨に包まれ、そして沈みゆくここインドネシアは
魚座のわたしにとってはまさに、水を得た魚の国でもある
そしてよく激しい雨が雷鳴をつれてくる
Dianaは小ぶりのバッグからスマートフォンを取り出し、その
GUNTURの画像を見せてくれた
GUNTURは雄の成体でやはり体長3mはありそうだった
そして巨大な顎からは赤黒く長い舌がチロチロとでて、彼女のスマートフォンを正面から見据えている
しかしなぜよりにもよってこの人間を食い殺すコモドドラゴンの刺青を彫ったのだろう
Dianaはいった
——”このGUNTURはいつもだらしなく檻の中で寝そべっていて、人間なんかはまるで無視しているのですが・・・
わたしが会いにいくと、いつも身体をビクッと震わせて
のっそり起き上がってゆっくりとわたしの正面に来てくれるのです
信じてもらえないかも知れませんが、GUNTURは真っすぐわたしだけを見てこちらへ来るのです”
顔を反対に向けると、Jeanがしたり顔で何度も頷いているのが見えた
Jeanはいった
——”そう。Dianaの言う通りなのです
ぼくが一緒に行ったときも、そのGUNTURは起き上がり、真っすぐDianaの正面までゆっくり歩いてきて・・・あとは・・・(くすくす)・・・
二人でじっと見つめ合っているのです
そのとき、周りにいたひとたちも本当に驚いていたんですよ?”
そしてJeanはやってられないという風に笑った
わたしにはその光景が細部まで鮮明にわかるような気がした
わたしは再び、Dianaの左腰を見下ろすかたちで、その暗灰色の艶のある胴体と赤い舌先がチロチロと出ている人差し指大の刺青を眺め、一瞬、カメラで写真に収めておきたいと思ったがやめておくことにした
なぜなら、そのGUNTURの下、彼女の黒いパンツと白い肌の間に、濃い藍色の複雑な花模様を思わせるレースの下着の上部が少し見えていたからだ
それはDianaの目線ではおそらく見えない角度で、隣から見下ろすわたしの目線でははっきりと見え、その角度から撮影すればその下着まで映し出してしまうことになる
相手はもちろん、女性なのだ
世界的に見ても性に対して閉鎖的であるといわれる、日本人としてのわたしの精神性なのか、海外の女性は下着が見えることに対して日本人ほどには気にしないとは言われているが、やはりこのDianaに対しては、そうした写真を撮る行為自体がわたしには躊躇われたからだ
もちろん撮影後にトリミングすることは可能だったが、そういう問題ではなかった
「行為」自体の問題なのだ
Dianaは黒いノースリーヴの裾を元に戻して、さらにこう続けた
——”わたしは・・・子供の頃からなぜかコモドドラゴンが好きで
・・・おかしいですよね?
コモドは幼体は本当に小さな蜥蜴みたいで可愛いらしいのですが、だんだん大きくなって成体になると・・・
それはもう凶暴なので・・・実際に毎年何人かは犠牲者を出しています
でも・・・不思議とそうした・・・
相反する二面性が・・・”
相反する二面性、か
それを彼女の両性具有と結びつけてしまうのは、あまりに幼稚な想像力なのだろう
Dianaは続けた
——”でも、さわまつさんに信じてもらえないかもしれませんが
GUNTURに会いに行くと、かれは必ず、100%起き上がってわたしの元へ来るのです
それは、100%です”
そして一頭の獰猛な獣と一人の中華美人が見つめ合う
そうした構図の写真を撮ってみたい・・・
——”わたしは最近よくこんなことを考えています
わたしは・・・生まれる前は・・・実はコモドドラゴンだったに違いないとほとんど確信するように思っています
でも生まれ変わるときに、何かを間違えて人間になってしまい・・・
たとえば慌てていて・・・?
それで・・・”男と女”のいずれかを決めきれずに・・・
それで・・・股間に・・・”
今、思い返してみてもここで笑ってあげるべき彼女の冗談だったのかの判定は微妙だった
彼女は柔らかな笑みを浮かべていたように思えたが、目は笑っていなかった
真剣にそう考えているのだろう
そしてDianaは自身の股間を真っすぐ見下ろし、わたしもそれにつられて視線を落としそうになったが何とか自制することができた
不思議な話だった
この彼女がいうと、あるいはそれは真実をきれいに穿っているのかも知れないとも思った
生まれる前の、前世・・・
コモドドラゴンと両性具有か・・・
一見、何も関連性がないとも思うが、実は遡ると、この両者は有機的な繋がりがあるのか・・・
そしてなぜ、そのラグナン動物園のGUNTURがDianaに強い感心をもっているのかの理由は、もちろんわたしにはわからなかった
わからなかったが、ひとつの遠い的外れな仮説のようなものは立てることができた
NORTH JAKARTA
中華街
16
ブラックホールは実在するのか
1:00-1:30
初めてこのDiana Halimに会い、共に会食するひとは、まず彼女のその旺盛な食欲に仰天するに違いない
一日五食を食べるという彼女の、その細っそりと身体つきのどこがそれだけの回数の栄養を求めているのかを疑問に思い、次に口から入った食物は体内の一体どこへ消えていくのかを思って、思わず首を傾げざるを得ないに違いない
この夜、小さな円卓に並べられた香港飲茶の妙技を尽くしたかのような色とりどりの料理の大半は、このDianaがさらっていった・・・
Jeanが分厚い大判のメニューから料理を選び出し、それをDianaが一人前にするのか、それともHALFにするのかを決めてからチャイナドレスを纏った給仕係が呼ばれる
そうしてこの夜は、最初に三人で入った個室から、時間制限を越えて通常のフロア席に移るまで、入れ替わり立ち代り給仕係が現れては湯気の立つ料理を運んできたり、また、下げていったりとかなり頻繁に出入りがあったが
不思議と・・・そう、不思議とそれらのひとびとは皆、Dianaに一瞥をくれていくのだ・・・
もちろんそれは、彼女の健啖家ぶりに驚いてのことではなかった
なにしろ毎回、給仕係の顔ぶれとチャイナ服の色合いが異なっているのだ
彼女の健啖ぶりがわかるはずがない
しかし、わたしが正面から見ていた限りでは、給仕係は必ず一瞬仕事の手を止めて、まるでそこにひとりの中華系の女性がいるということに初めて気がついたとでもいうようにフッと彼女を見つめるのだ
その、まるで人を強く引きつけるようなDianaの不思議な性質はフロア席に移ってからより鮮明に表われた
彼女は通路に背を向けるかたちで座っていたが、その通路を歩くひとびと、それも老若男女がふと足を止めて、彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めているのだ
それはもちろん、彼女の固有の美しさが引き寄せるとはいい難い
なにしろ背を向けているのだから
そして決定的だったのは、深夜近くになっても店内には家族連れの客が多かったが、3歳くらいの可愛らしい女の子の手を引いた父親が彼女の後ろを通ったときに、数メートル進んだその女の子がふと足を止めて、Dianaの横顔を、まるでそこに自分が大好きなお菓子でも見つけたかのように興味深そうに、そして好奇に瞳を輝かせてじっと眺めているのだ・・・
この女性には、何か特別、ひとを惹きつける魅力がある
こういう、まるでひとを吸い込むような性質を具えているひとには、わたしはこれまで出会ったことがない
何かそうした性質を指す呼称があるようにも思えたが、わたしの乏しい語彙力ではわからなかった
「スター性」
いや、違うだろう
銀幕の向こうにいる彼らのあの資質は、おそらくは人生のもっと早い段階で目覚めているに違いない
27歳のDianaはもちろんまだ若いが、「スター性」ではない
もっと別の・・・わたしたちの理解を遥かに上回る別種の「何か」だ
そしてそれは両性具有とは全く性質が異なる「何か」なのだろう
彼女に気をとめるひとびとは、決して彼女の下着を下ろさないからだ
そして、こうした光景を実際に目の当たりにして、コモドドラゴンのGUNTURのエピソードを聞くと不思議とそのときの情景が浮かびあがり、また、自然と納得してしまうのだ・・・
彼女にはひとだけではなく、獣までをも惹きつけるような、「何か」がある・・・
NORTH JAKARTA
中華街
17
そこからは彼女の独り舞台だった
1:30-2:00
そこからは彼女の独り舞台だった
当初、この夜は<六ヶ国語を操る華僑のゲイ>のJeanの、いわゆる<失恋レストラン>のような目的でわたしも、そしてDianaも集ったはずだが、後半の主役は間違いなくDiana Halimだった
それは彼女が自分で脚本を書き、そして主演を務めたわけでもなく、自然な流れとして、淡いオレンジのスポット照明が照らし出す、舞台の中央に静かに現れたのだ
Dianaはいった
——”わたしの戸籍は男です”
それはわたしにもよく理解できた
なぜならわたしには今年二歳になったばかりの小さな甥がいるが、かれのことを思い浮かべるとよくわかる
生まれたばかりの頃は、きっと誰だってそうであるように、外見はすべて可愛い女の子なのだ
いや、性別の概念がないと言い換えてもよい
そして人間とは、生まれてきたときの輝くような姿とはなんて美しいのかと驚嘆させられる
ただパンパースを取り替えるときに、あぁ、男の子だったかと思うだけだ
Dianaはいった
——”わたしは・・・「教育技術」を作って、その内容を顧客へ販売する仕事をしています。幼稚園から高校生までのお子様への、個別の「教育技術」をカウンセリングの後に、プログラムを作成してパッケージとして販売する仕事です
もちろんコロナウィルスの影響は大きく受けましたが、需要は伸び・・・
今では一日に数時間だけのオンライン出社のみなのですが、それでも多くの顧客と毎日会います
そうした初めて会った顧客には、わたしが両性具有だということは一切言いません
それは・・・隠しているからではなくて、言う必要がないからなのです”
わたしは頷き、視界の左隅ではJeanが頷いているのも見えた
Dianaは運ばれてきたばかりの海鮮トムヤンクンを自分の取り皿を移し、レンゲで海老を数匹すくってそれを美味しそうに咀嚼した
そのしぐさがあまりに美味しそうだったので、わたしも、そしてJeanも自分の取り皿に注いで食べたが酸味と辛味のバランスがよく本当に美味しかった
Dianaはいった
——”だからわたしは仕事上ではじぶんの個性は開示しないのですが、プライヴェートでは進んで、しかも初対面の方にはなるべく早く開示するようにしています
特にJeanの友人ならばなおさらです
だからさきほどJeanが、さらりと言ってくれたのでしょう”
Jeanは無言のまま運ばれてきた、この日二本目のHaut Médocのボトルから自分とわたしの分までワイングラスに注いでくれた
もちろん、インドネシア特有と思われる「全員でテイスティング」は店側から割愛されていた
Dianaは引き続きのSupumoniで、それを一口飲んでさらに続けた
——”わたしは・・・恋愛対象は男性のときもあれば女性のときもあります
両方と交際した経験はもっているのですが、どちらも・・・あまり長続きしない傾向があって・・・今までは原因のほとんどを相手に求めていたのですが・・・最近、本当に最近は・・・原因はわたし自身にあったのではないかという気がしているのです”
別に彼女から解答を求められたわけではなかったのだが、それに対してどのように答えてよいのかはわたしにはわからなかった
まだ知り合って数時間でもあったし、その数時間の間の話の内容は
しかし、少なくともこのわたしにとっては彼女の話は濃く、深い海の底まで、何というのか・・・
引きずり込まれるような危険な感覚が確かにあった
なぜならば、この夜はいつも以上にかなりお酒を飲んだが、ほとんど一切酔うことがなく、意識はどこまでも鋭く、そしてクリアだった
この店のテーブルについてすでに五時間が経過していたが、時間の感覚もおかしかった
Dianaはいった
——”こういうことを直接的にいうべきなのかはわかりませんが、SEXも常に相手とはうまくいかず、それが男性であれ、女性であれ・・・
どういえばいいのでしょうか・・・
気持ちと身体が一致しないことが多く、とうよりもほとんどの場合うまくいったためしがありません
両性具有者だということは、もちろん相手と知り合った時点で隠さずにいうことにしています”
Diana Halimが操る日本語は、Jean Mespladeが操るそれよりかは、いくらかレヴェルが落ちるということは間違いなかった
もちろんそれは、彼女の日本語レヴェルが低いわけではないということは、これまでヴェトナムやスペインで日本語通訳を使ってきたわたしにはよくわかっていた
そして逆に、Jeanが操る日本語のレヴェルが高度で見事すぎるということもある
彼女は日本人駐在員の顧客も僅かながらに抱え、頻度は高くないにせよやはり日本語は必要に迫られるかたちで学び、実践しているのだ
加えてもっといえば、わたしも仕事や日常で英語とインドネシア語のみで生活しているので、この席では例えば英語を使うのが最も自然なのかも知れないのだが、彼らは客人でもあるわたしに敬意を払うつもりなのか、ほとんど全てを日本語で話してくれた
この連作において、Dianaが話した台詞は便宜上すべてを意味を明確にするために日本語表記にはしているが、単語に関しては英語を多用することも多かった
そしてここから先の彼女の話は、詳細を日本語で説明するのがやはり難しいかったのか、部分部分に英単語が増え、中盤から終盤にかけては完全な英語に切り替わった
ジャカルタとロンドンと上海の三つの大学を出ている彼女の英語は、Jean同様にネイティヴのそれだった
そしてそれは、両性具有者の赤裸々なSEXの詳細でもあった
そうした話を、わたしが気にならなかったといえば嘘になるのだろうか
ただ、一体どうやって、と考える「間」がなかったのもこの夜に経験した事実であることに間違いなかった
Dianaは相手が女性の場合と、男性の場合との性交渉を自身の経験を元に微に入り細に入るまで語った
途中、”肛門”を指す英単語も出てきた生々しい描写も入ったが、おそらくはわたしには「英語で聴く」という、「英語」がフィルターの役目を果たしたせいなのか、何か映画のスクリーンの中での会話のようにも思えた
そしてこのDianaも、決して気負うわけでもなく、また気後れするわけでもなく、淡々と語り、それはまるで医者が医学的事実を患者に対して静かに説明するかのような、あるいは、この世界の成り立ちを説く高僧のように淀みがなく、だから風格を合わせ持つような口調でもあった・・・
わたしとJeanはその、世界で唯一ふたりの聴衆であり、椅子の背もたれに深く腰掛け、一言も口を挟まず彼女の話を聞いていた
そしてわたしが驚いたのが、視界の左隅に入っていたJeanだった
かれはワイングラスの脚を利き腕の左手の指先で持ったままテーブルから微動だにせず、真剣に彼女の話を聞いていた
その鋭利な横顔には研ぎ澄まされたような集中力が宿っているようにもわたしには感じ、JeanとDianaは”幼馴染”とは聞いていたが、一体いつから、このゲイの男と両性具有者の女性は知り合ったのだろうかということが気になり始めた
語り終えたDianaは喉を潤すようにSupumoniのグラスに残った最後をきれいに飲み干し、それに気づいたJeanがワインボトルを彼女に傾ける
彼女はそれを一口飲んで、日本語でちいさく”おいしい”と呟いたあとで、わたしは最前に芽生えた、今夜もっと早くに聞いておくべきだったかもしれない質問をふたりにしてみた
——”JeanとDiana
たとえば二人が恋愛関係になって、付き合ったことはこれまでなかったのだろうか”
NORTH JAKARTA
中華街
18
最終章
マンゴプリン
2:00-2:30
JeanとDianaはふたりで正面から顔を見合わせ微笑みながら、そしてJeanはこういった
——”さわまつさん、その質問は・・・実はぼくたちは様々なひとたちからもう何百回もされています”
わたしは思わず小さく舌打ちしそうになったが、しかし、このふたりを前にしたら誰でも問うてみたくなるような質問に違いないと思い返した
このふたりが・・・例えば中華街でも東京でもどこでもいい
夜の暗い通りの向こうからお互いが微笑みながら腕を組んで歩いてきたとしたら、それは誰しもが幸せを感じるような温かな光景に違いない
——”でも・・・これはほとんど誰にも話してはいないのですが、一度だけこういうことがあったのです”
勘の鋭いDianaもそれだけでピンときたらしく、ワイングラスを持ったままやや前傾姿勢でテーブルに身を乗り出した
——”あれは・・・2016年・・・もう7年前なのですが、その日Dianaと中央ジャカルタでお昼からビールを飲んでいたのです”
Dianaはそうそうと小さく頷き、Jeanは続けた
——”Sarinah Mallからほど近い路地の奥のカフェでふたりで久しぶりに会って飲んで・・・ちょうど年が明けて間もない一月で、
わたしたちが二十歳になってすぐだということもあり
ふたりでお祝いをしていたのです
そのとき・・・モールの方角からもの凄い爆発音が立て続けに起こって・・・さわまつさんもご存じかもしれませんが、その日、ISILの戦闘員が爆破テロを起こした現場のすぐで・・・”
2016年の中央ジャカルタの同時爆破テロか
当時わたしはヴェトナムに赴任していたが、この事件のことはここインドネシアに赴任してからその詳細を知ることになった
確かテロ後の路上の銃撃戦で民間人も戦闘員も共に死者をだしたジャカルタ史上最悪のテロ事件のひとつだ
そして、わたしがジャカルタに旅行に来た際は、そのSarinah Mallから徒歩圏内のデザイナーズホテルの”KOSENDHOTEL”や"ARTOTEL”
によく宿泊するので、モール周辺の地理はよく知っていたので容易に想像することができた
Dianaはいった
——”そう。ものすごく怖い経験(体験)でした
警察の車両が何台も現れて、銃撃の音が聞こえてきて・・・すぐに派遣された軍隊も通りを埋め尽くして・・・”
Jeanはいった
——”そうです。ジャカルタ全域に政府から戒厳令が出されて即座に封鎖されて、街中を警察が埋め尽くし、あらゆる種類のお店にも営業中止の命令が発令されたのです”
Dianaはいった
——”でもあのときのJeanの決断はものすごく早かったのです
スマートフォンで即座に近くのホテルを押さえてくれて、ふたりでそこに泊まることにしたのです
もしも、あの早さでホテルを押さえなかったら、わたしたちはもちろん
ここ”PIK”に戻ることもできず、本当に路上で夜を明かすことになっていたと思います
交通網は完全に封鎖されて、ホテルもすぐに自由に出入りすることも禁じられたので・・・
あのときのJeanの決断は本当に早かったです
もしもわたしひとりだったら・・・”
わたしはワインボトルをJeanに傾けながら、こう思った
ただの〈六か国語を操る華僑のゲイ〉ではないと、Semarangで最初に会ったときから思っていたよ
それでふたりはどうなったのだろう
Dianaはいった
——”とにかくふたりでホテルの部屋に入って、家族に無事を伝えて、TVの臨時ニュースを観ていました
でもJeanは併設されているレストランまで走ってミネラルウォーターや食べ物を搔き集めてくれて・・・ルームサーヴィスでもサンドウィッチなどをたくさん頼んでくれて・・・”
Jeanはその後を引き取るようにこういった
——”その時点では、いったい何日間ホテルに籠城することになるのかの判断がつかなかったのです
だからとにかく水と食料を搔き集めて・・・
そして・・・ビンタン・ビールと数本のワイン・・・ウィスキーまでボトルで頼んでしまい・・・”
Dianaはやれやれといったように苦笑してこう続けた
——”結局、TVを観ながらふたりでお酒を飲んでしまって・・・それも・・・大量に・・・お互い酔っぱらうほどに・・・”
Jean
——”さわまつさん、それで、その後はどうなったと思いますか?”
嫌な質問だった
——”ふたりで、裸でベッドで抱き合って寝たとか?”
Jean
——”近い”
Diana
——”半分は正解です”
半分は正解?
だったら——
Jeanはいった
——”バスタブにお湯を溜めて、ふたりで入ったのです”
Dianaはいった
——”なんというか・・・本当に、とても怖い経験(体験)をしたせいなのか・・・強く(急激に)酔っぱらってしまって・・・”
お互い二十歳の、ひとりの肉体は男性で、性的志向はゲイの男と
もうひとりの肉体ー上半身に女性の胸をもち、下半身に男性器をもつ両性具有者がひとつの同じ浴槽に・・・
まさか人生においてそのような光景を想像する日がくるとは、わたしには想像もできなかった
ふたりに重ねるように訊いてみた
——”それで、その後は本当に何もなかったの?”
性的志向と肉体の構成が多少違えど、当時のふたりは二十歳の健康的な肉体をもつことは間違いなかったはずだ
そこではゲイも両性具有の両方は一切問われないはずだ
Dianaはいった
——”ほんとうにそれだけなのです
わたしは翌朝にJeanの真横で目が覚めましたが、酷い二日酔いで・・・
もちろん前夜のことは激しく後悔しましたが・・・”
わたしは興味本位でさらに重ねて訊いてみた
——”ほんとうに何もなかったの?”
Jeanはニヤリと笑って、こう答えた
——”さわまつさん、今度三人で一緒にお風呂に入りましょうか?”
長かったこの会食の最後のデザートはマンゴ・プリンだった
それを頼んだのはもちろんDianaで、さすがにわたしは満腹で固辞したが、ふたりから絶対に食べたほうがいいと強く推薦され、ひとつもらうことにしたのだ
ほどなく運ばれてきたそのマンゴ・プリンは、幼児の拳大の大きさだったが、ひとくち食べてその美味しさに驚嘆した
この夜はどちらかというと濃い味付けの飲茶、というより本格的な中華料理と芳醇な香りのする赤ワインがメインだったが、その両方を濃厚なマンゴの成熟した風味が綺麗に消し去ってくれるのだ
飲み込んだあとでもそのマンゴの風味と薫りが口内にしっかりと残っている
Jeanはマンゴ・プリンをボトルに残った最後のワインで流してトイレのために席を立った
何となくそのJeanの背中をDianaと見ていると
彼女は唐突にわたしにこういった
——”Jeanって不思議な男なのです”
わたしはそれに対して少し驚いたが、彼女はこう続けた
——”ああいう性格だから、本当に友達が少ないのですが、その数少ない友人たちはみな怪物なのです”
それが彼のどういう性格を指して彼女がいっているのかは、わたしにはわからなかったが、怪物についてはよくわかった
このDiana Halimこそが、正真正銘の怪物に違いないと確信をもって思えるからだ
超がつくほどの健啖家/生物を吸い込むように惹きつける「何か」
両性具有者はただの先天的な肉体の性質にすぎない
わたしはそれを彼女に伝えようと口を開きかけたときに、一瞬彼女の方が早く先を越されてしまった
——”さわまつさんのことは以前、Jeanから訊いて知っていました
Semarangに仕事に行ったときに向こうで知り合ったと
そしてわたしは休暇を兼ねて今日の夕方までバリ島にいたのですが、何日か前からJeanの彼のことで相談を受けていました
気になっていたので、スカルノ空港から電話をかけたのですが、するとそのSemarangで知り合った日本人の友人がここ”PIK”に来ているというんです
わたしはそれを聞いて、会ってみたいなと思い立ち、今夜参加させてもらいました
Jeanの数少ない友人は・・・本当に怪物のような性質や輝くような才能をもつひとが多いのです”
それに対して、わたしはどう答えていいのかはわからなかったが、確実にいえるのはJeanや、このDianaの輝くような個性を持つ者に比べれば、わたしはただの凡夫にすぎないということだ
そして——
この夜の会食は、どうしてもこのDiana Halimを中心とした、わたしにとってはかなり謎めいた濃い話を聞けたが、そもそもは、Jean Mespladeがわたしたちを惹きつけたといっても過言ではなかった
そう
それは考えてみるとかなり不思議だった
もしも、Jeanが失意の底にいず、いつものJeanであったのならば、それでもわたしと合流し、車で観光地を廻りながらこの店で美味しい料理を食べるだけの、楽しいがさらりとした手触りのものであったに違いなかった
しかし
彼が失意の底にいたせいで、このDianaがわたしたちの前に現れ、少なくともわたしにとっては大きなうねりを思わせる出会いの、さまざまな交差する思いを巡らせる、重層的で不思議な夜になったことは間違いなかった
ここに書いて初めて思い至ったのだが、まさか2013年のヴェトナムの記憶まで呼び覚まされるとは、わたしは本当に想像できなかった
それはおそらく、この〈note〉でそれぞれ前者と後者を仮に並べて書き出すことができれば、それは全く性質の異なる内容の”PIK滞在記”になったに違いない・・・
この美しい中華美人も、彼女の言葉を借りれば、やはり怪物なのだ
Dianaは穏やかな口調で静かにこういった
——”だから、さわまつさんも間違いなく怪物の——”
そのとき、「異変」に気がついた
Jeanがトイレに席を立ってかなり時間が経つ
一体——
わたしはDianaに断わりもいれず席を立ち、素早くトイレの方向をみる
男性用トイレの角から、50代の男がズボンのチャックを上げながらこちらに向かってくるだけ
まさか——
あのJean——
わたしはフロア席の角を走るように曲がると、数十メートル先の入り口に近いキャッシャーにJeanはいた
それは今まさに支払いのクレジット・カードの暗証番号をカードリーダーに打ち込む瞬間で、わたしは短く、そして鋭くこう叫んだ
——”Jean!!”
Jeanは一瞬こちらをみたが、わたしの姿を認めると慌てて暗証番号を打ち込み——
わたしは猛ダッシュで円卓に駆け戻り、驚愕に目を見開くDianaの視線を受けながらバッグをかき回して財布を探しだし、再びJeanの元へ駆けだした
FIN
〈長いあとがき〉
まずはこの拙い連作を、7作最後までお読みくださった親愛なるみなさま
本当にありがとうございました
当初は以前試み、そして失敗に終わってしまった〈三部作〉を念頭に全三話で完結させるつもりで、この飲茶レストランでの会話を中心とした一部始終を書くつもりだったのですが、やはりこのジャカルタのもうひとつの心臓部とも呼ばれる華僑たちの”PIK”全体も溶け込ませたいと思い、書き出しをジャカルタのスカルノ・ハッタ空港にわたしが降り立つことから始め、結果的に全七話にまで伸びてしまいました
そして書き始めると、やはりこの一夜、それも数時間の出来事がわたしにとっては面白すぎて、書いても書いても書き足りないという思いを強く抱き、その熱源はもちろん、今回登場した
〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と〈四か国語を操る華僑の両性具有者〉
の二人で、この二人に対する尽きない興味が最後まで継続的に書かせてくれたように思えます
そしてこの日、僅か数時間の間に撮影した写真は百枚を優に超えていました
中にはもちろん、2022年に中央ジャカルタで撮影したものや、この次の日に撮影したものも多く含みますが、カメラからLAP TOPに画像データを移し替え、画面に呼び出すと、写真一枚一枚に当時の記憶と会話の断片がきれいに貼りついていて記憶を鮮明にしてくれ、最終的に〈note〉に連作として、なにより自分のために書いておこうと思い立ったのが動機になります
一話づつ、書きあがった段階で二人にはURLを送ると様々な感想を寄せてくれました
ジャンからは
〈あのときそのようなことを考えていたのですか〉とか
〈ツンデレの意味はよくわかりますが、そもそも何の略語なのでしょうか〉
ディアナからは
〈美しい人(美人)を思わせる描写でありがとうございます〉とか
〈あのときに撮影したわたしの顔写真もべつにけいさいしても構いませんよ〉(原文まま)
だった
連作の終盤はディアナ中心の話だったので、一度は本人の顔写真をたしかに作品の中にレイアウトしたのですが、話の内容と、彼女の本当に不思議なひとを惹きつける性質が、杞憂だとは思うも何かトラブルまで引き寄せるのではないかと思い掲載は控えた経緯があります
この〈note〉に掲載することは、見方を変えるとネットのオンライン上に掲載することにもなるので、万が一のことを考えての措置でした
通常、そこまで心配することはないのかも知れませんが、最近再読した沢木耕太郎の「檀」の中にこうした内容の有名な一節があります
”書くということは、その世界の中心に自分を置くことだ。だからどうしてもご都合主義にならざるを得ない”
それは、戦後破滅派の檀一雄の妻ヨソ子の目線で夫を描き出したノンフィクションの傑作なのですが、確かにその通りだと思え、だからディアナの顔写真を掲載するということは、わたしの無意識ながらも「ご都合主義」であり、お読みくださった方の前に彼女をまるで見世物のように「晒す」ような誤解を与えてしまうのではないか・・・
そうしたことも含め、わたし自身もいろいろと考えさせられる意味深い連作でもありました
この連作はここで終了となりますが、年内にJeanは仕事でまた二週間ほどSemarangに滞在予定があるということと、Dianaも友人とROAD TRIP(車旅行)でSemarangよりもさらに東にあるインドネシア第二の都市、Surabayaに行く用事があり、その途中でSemarangにも寄るとのことでした
だから早ければ年内に再び、彼らを主軸に据えた新しい連作が立ち上がるのかも知れません
〈六か国語を操る華僑のゲイ〉
〈四か国語を操る華僑の両性具有者〉
のいずれかを冠するタイトルが、かれらが登場する物語となります
その際はまたいつでも気軽に遊びにお越しください
最後までお読みくださり、重ねてありがとうございました
では
ー10月公開予定ー
”一旦、荷造りは中止して、美味しいご飯でも食べに行こう”
短編/スマラン/フードエッセイ
”リスティアナへの依頼”
短編/スマラン/仕事
”ラタンに魅せられた午後”
短編/中央ジャカルタ/ファッション
”44歳、スカートを穿く”
短編/中央ジャカルタ/文化
END
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