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基本的には心身ともに元気が無いと良いものは出来ない

先日、私の知り合いと対話して(直接会ってはいない)・・・面白い話だったので記録・・・

最近、コロナの問題で会社が遅く始まって早く終るから、スタッフたちの体力や気力が回復して生き生きしててさ。時短営業で会社の経営は大変だけど、皮肉にもスタッフたちは人間としては覇気があるんだよ。消耗するルーティンをこなす毎日だと覇気が無くなるけど、心身に多少の余裕が出来ると仕事の精度は上がるし、未来に対するイメージを作る余裕が出てくるというか。
机上の空論的な本部の計画で、整合性の無い作業をし長時間労働するより、効果的でメリハリのある働き方の方が良いのはホントそうだよなあ、と、当たり前の事を改めて思ったよ。普段、いかに無駄な労働をしているか・・・作業は多いけども、成果の無い労働ね。成果の出ない労働というのは疲労が倍になるしな。
まあ、でも世の中が普通に戻ったら、また的外れな司令によって、無益な作業、無益な長い拘束時間、司令通りにやったら逆にその過剰なノルマから遠ざかる・・・というものでも従わなければならないストレスで、スタッフたちが消耗してしまう流れに戻っちゃうんだろうけど。
本気で、会社の回し方を変革しないとダメだろうな、と改めて刻まれた感じだよ。そうしないと会社が望む「より多くの実益」を得られない。今までは「何となくガマンしていればどうにかなるし・・少なくとも自分が担当している期間だけでもやり過ごせば・・・」で続けて来てしまったんだよな。それじゃダメだ。
一般的な会社は、部品である社員を、本来は設置しない箇所に取り付けて使ってしまったり、ワザワザ少し壊してから使ったり、特定の部品だけ極端に負担が強くかかるような設計をしたりするから機械全体がちゃんと機能しないんだよな。ワザワザ部品が壊れるような、本来の力を発揮出来ないような使い方をする。ワザワザ本来の力が発揮できない方法を、工夫を凝らしてやっている感じ。なのに成果はありえない程高望みする矛盾(笑)そんな風に不健康にされてしまった社員が良い仕事をするわけがないし、新鮮なひらめきなんて持って来るわけがない。
結果の良し悪しよりも「社員たちには給料を払ってやってるんだから払った分以上に使い倒したい、社員がいつも疲れ切っていると、払った分社員を使い切ったんだと満足する経営陣」「社員の疲れ加減で、社員をどれぐらい働かせたかを測るタイプの経営陣」が上にいる限り改善はしないだろうけどな。まあ、何にしても今までの働き方を根っから変革するのは物凄くむづかしいな、とも思う。

という事を言っていて、なるほどなあと思いました。

今生きている社会では、利益追求は必要ですし、経済的拡張も必要ですし、苛烈な競争社会で生き延びるのは大変ですが、しかし、今までの方式とは違う方式でやってみたら、意外にその方が楽に成果が出たり・・・という事もあると思います。

しかし、むづかしいのは「新しい方式の方がずっと負担が軽く成果も上がる」のが分かっても、反対する人たちがいる事ですね。彼らは意味不明の反論と妨害を粘り強くして、新しい事が行われないようにする。これが不思議と、若年層や中年層でもそういうタイプの人がいるのです。そういう人たちは、いくら事実を突きつけても認めない。

基本的に人は新しい物事が嫌いです。今までやって来たルーティンを変えるのは心底嫌います。これは間違いありません。それに不満があっても、イザ変えるとなると、抵抗します。

履歴書なども、未だに手書き信仰があるのが私には全く理解出来ません。

通販などで買い物をして、ワザワザ下手な字の手書きでお礼の手紙が入っていると、個人的には「あざとさ」を感じてしまって嫌いです。見事な手書きの文字であるならその審美性から手書きの意味があると思いますが、別に下手な字で手書きでお礼状を書いても相手に心が通じるわけではありません。読みにくいし。下手でもがんばって手書きしました、褒めろよ、というあざとさの方が私には不快です。

そういう無駄は人の心とは全く無関係どころか「それやっておけば良いんでしょ」という風に振れてしまえば、お礼の心からむしろ遠ざかるわけです。

話がズレました。

ちょっと関連あるような無いような話題に変わりますが、

現代視点で観て、明治時代以前の素晴らしい日本の工芸品や建築、その他創作品が作られていた背景を観ると「労働時間が短い」というのがあります。

江戸時代の生活の資料を観ると、職人は搾取ばかりされていた、というのは昭和の時代劇や小説によって作られたイメージのようですね。職人などの丁稚の大変さはあったと思いますが、現代のブラック企業よりはマシだと思います。実際に現代では便利な道具があり、交通も流通も通信も昔とは比較にならないほどに進化していますから、一人で行う仕事量は現代人の方が桁違いに多く消耗も激しいように思います。

江戸時代、そしてもっと昔は電気もガスも無く、夜に精密な仕事が可能な程の光を得られません。ろうそくは高級品ですし、灯の油も高いわけですから、イヤでもお天道様が出ている間だけしか仕事が出来ないのです。精度の高い仕事をそのような暗い灯の元でするのは無理です。色も全てがオレンジががってしまい、ちゃんとした色が分かりませんし。

しかも、職人は子供の頃から丁稚に入り、20代前半で独立して20年商売して40代前半には隠居して好きなことをする(昔は40歳ぐらいから初老と呼んだらしい)という人もいたと言います。とにかく職人が若いのです。

老年になっても現役の職人でいた人もいたでしょうが、中年を超えて肉体に起こる老化をサポートする道具が、現代のように豊富ではないので近現代のように、職人がいつまでも現役を張ることは出来ないんですね。

現代のような性能の良い老眼鏡もハズキルーペも拡大鏡も、高性能なライトも無い時代ですから、老眼が始まったら細かい作業は無理です。

もちろん、監督として現場を取り仕切る事は出来ますから、仕事人としては現場にいる事は可能です。

それはそれとして、とにかく

昔の素晴らしい工芸品その他創作品が産まれた背景は

若い人たちが、肉体的にも精神的にも余裕を持って仕事をしていた=良い仕事が残った

という面は無視出来ないと思います。

だから、職人に良い仕事をさせたいなら、時間も予算も、そして学習や研究が出来る余裕を持たせる方が絶対に良いのです。

もちろんそこで、余裕があるゆえに調子にのってサボる人も出ます。逆に言うと、余裕を与える事でそういう中途半端な人をそこで選別出来るとも言えます。そこで投じた時間も予算も無駄になりますが・・・しかし文化を積み上げるには時間とお金と手間がかかります。

文化的な分野では、厳しい時間や予算で仕事をさせるよりも、充分な余裕を持たせた時に、その人の実力や本音が出ます。

厳しい時間や予算だからこそ磨かれる物事はありますが、それは、その強制力によって普段使っていない部分を使えた、という事が多いのです。環境によって絞り出されたわけです。

自由で、余裕がある時には、あらゆる事はその人の興味・関心・創作的な熱量で決定されます。それは全て自主的にしか行われません。真面目に取り組む場合、むしろ、こちらの方が厳しいのです。

余裕がある状態でサボるのはいくらでも可能です。余裕があるゆえ、いろいろな言い訳も浮かびます。やっているフリも出来ます。

だからこそ「平時においては」創作上、余裕がある状態での人間の行動が本音なのです。

また逆に「有事で社会全体がパニックになるほどに混乱すると、そこでも創作面の本音が出る」と言えます。・・・というか、人間の本音が出ますね。

追い込まれると、人間が自力で出せない部分が良い所も、悪いところも絞り出されるわけです。

また、有事に力を発揮するタイプの人と、平時に力を発揮する人とタイプもあります。両方持っている、という人も稀にいるようですが。

だからといって、良く言われる「創作で、心身共にボロボロの時だからこそ、観る人の精神をえぐるような名作が出来た!」ということは起こりえますが、それは単発的な事、あるいは短期間だけの事ですから、一般的な話ではありません。

そもそも心身ともにボロボロなら凄い作品が出来るかといえば、むしろ普通の人間ならそんな状況では頭も体も回らないのですから、良いモノが出来るわけが無いのです。

当たり前の話ですよね。

芸術家も人間です。超人ではありません。

一部の特例を、一般化してはいけないのです。

人には時間もお金も余裕が必要です。

私にはどちらも無いけども(というオチ、笑)


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