【ブッダ】今の事実の様子のままにいる「悟り」
【ブッダの真の悟り、解脱を体現したい方のための専門指導】
語弊があるかと思いますが
悟り、解脱
見性体験など、
どうでもいいいのです。
法の在り様は
特別なものではないのです。
ですから、自分を立てて
「坐って上手く行った」とか、
「上手く行かなかった」とか、
そもそも、
そんな感想自体がおかしな事なのです。
眼耳鼻舌身 意(考え)
誰しもが縁に従って
自分と言うのものを立てる事なく、
自分とは関係なしに、
すでに、知らずに六根の働きが機能しています。
暑いと言う縁に触れ、
考えて
エアコンをつけたり、
日陰に移動したり、冷たい水を飲んだりと、
対処します。
その考えて動いているのは、あなたがやっているのではなく、
縁に触れ、意の考えると言う意の働き、機能によって、
どこからともなく、自然と知らずに考えが出てきて、
思われちゃっているのです。
ですから、
すでに無我無心であり、悟っているのです。
これから修行して自分と言うものを捨て去り、
自分と言うものを壊して、
観念の檻を捨て去って解脱するなど、
そんなことを求め、何かを正したり、成ろうとしたり、
手放そうとしたり、変えようとしたり、捨てようとする必要などないのです。
それをやろうとするのが、仏道における消滅させるべき架空の自己です。
見性、一瞥体験など、そんなものは追い求める必要はないのです。
むしろ実践の邪魔になってしまうのです。
どう在ったって
その時の今の様子しかないのだから、
その時、
その時の今の事実、実物のままで在りさえすればいいのです。
解脱と云う、確証的なものなども、必要ないのです。
認識が完全に落ち切る正覚は、
もともと実体のない観念そのものの
架空の私が体験できるものではないので、
知らない
解からない
知る由もない
生きとし生けるもの全てには仏性はなく、
無我無心で実相は無性であり、
無生無覚なのです。
今に在りさえいればいいのです。
過去、現在、未来は概念であり、
どう在ったって今しかないのだから、
正直に今を生きてればいいのです。
それが、禅の様子です。
ですから、悟りや忘我など、
何かしらの体験など、そんなもの追い求める必要ないのです。
すでに本当は悟っているし、
もともと鼻っから実体のない観念上の考えそのものの架空の私が消滅する事によってであり、解脱は気づき、体験体感出来るものではないのです。
日常生活も、坐禅中も
その時、その時の今の自分の在り様につとめるだけです。
これから何かになる必要はないのです。
「自分が見ているなぁ~」と考えが出てきたら、
「自分が見ているなぁ~」と、
その時の
今の剥き出しの自分のままでいればいいいのです。
たくさんの思い、考えが次々と出てくる、
怒りや悲しみなどの感情が出てくる、
苦しい、つらい、怖い、しんどい、
そのような、
どうあったって、その時そうでしかない
今の自分の在り様を
「こんなのいやだ!何とかしよう!」
「そうではない様子に自分を持っていこう!」
と、その時の真実の自分の在り様を否定し、
思考や感情を鎮めようとしたり、
苦しくないように
辛くないように、
悲しくないように
怖くないように
しんどくないようにと、
作って、飾って、気取って、カッコつけて、強がって、
どうにか理想的にしようと、
人前で世間的に恥をかかないようにと、
その時そうでしかない
今の真実の自分の在り様を否定し、
創意工夫して心理学的な考え方や、
大人としての常識や社会通念に囚われ、
「こうあるべき」と作為してやる奴が
観念そのものであり、
それこそが観念そのものの所作なのです。
人間の苦しみはそこから来ているのです。
その時点での今の自分の事実の在り様や感情を否定して、
取り繕ってどうにかしようとするから、
許せなくなってしまって、人間は苦しんでいるのです。
何とかしようとせず、
どんな時の自分もそのままに、
受け入れっ放しにしてやり、許してやるのです。
自分を観察して反省して、責めるのをやめれば、
また、
出来事におけるその時のその身の思い、行動、行為、感情を
「正しい間違い」
「良い悪い」
「好き嫌い」
「駄目、悪い、イケナイ」
「喜ばしい理想的な感情、心地良い感覚」
だと観察して、分析して振り返って、
【こうあるべき】【こうあらねば】と、
また、
喜ばしい理想的なフィーリングを維持し続けようとし、
自分について考えで問題にして決めつけ、
解決しようと、どうにかしようと考え方で取り上げ、
ぐるぐると気にする事をしなければ、
そもそも問題、苦悩が、問題、苦悩ではなくなるのです。
今の現実の事実のままにいくのです。
見性を得ようとしなくてもいいのです。
たくさんの思いや考え、空想、煩悩が出ている時は、
それが、今の事実の様子のままなのだから、
それでいいのです。
それを、
「このままじゃいけない!」
「静寂なピースフルな状態に在りたい!」
と、そのように自分を立てて平和で在ろうと
断ち切ろうと創意工夫する奴こそが、
仏道における消滅させるべき自己そのものに他ならないのです。
思考ではからわずに、コントロールせずに、
どんな自分も許してやって、責めるのをやめ、
どんな時の自分も振り返って考えで取り上げ問題にしない、
それこそが忘我なのです。
悟って何かにならなくても、
何かを変えようとしなくても、
何を考えても、何を思っても、何を感じても、
辛くても、しんどくても、怖いまま、苦しいまま、悲しいままでも、
どうにかしようと問題にして
創意工夫して実体なき自分を立てて、
何とか理想通りにしようと思いの中に深く入って、
その時の今の自分の様子を否定し、
さらにどうにかしようと上塗りしようするから、
だから余計に苦しみ迷うのです。
坐と云うのは、
今の自分の事実の様子を否定した時点で、
坐にならないのです。
人間関係、社会生活は、もともと辛いものです。
辛い時は辛いまま、
苦しい時は苦しいまま、
悲しい時は悲しいまま、
怖い時は怖いまま、
イライラしている時は、イライラしているまま、
その時の自分を偽らないのです。
辛い、苦しいと、悲しい、怖い、イライラしていると、
その時の自分に逆らって、なにか変えようとして作為してやるから、
だから余計に苦しくなるのです。
自分が身体側に在って、
自分がいて、
辛い、苦しいのではないのです。
縁に触れて
ただただ、純粋に辛い、ただそれだけです。
ただただ、純粋に苦しい、ただそれだけです。
それらもいずれ、無常に過ぎ去っていくのです。
今の事実の様子を否定し、作為して考えで
創意工夫しようとしてやるから余計しんどくなり、
そのように
良い悪いと反省したり、
振り返って考えで図らったり、払い除けようとするから、
認識が落ち切り、
救われて自己を忘ずる事が訪れないのです。
今の自分の実相のままであればいいのです。
逆らわずに、何にもならなくていいし、
正さなくていいし、変えなくていいのです。
何にもならなくていいと言われて、
「それでも変わりたい!」
と思いが出たら、
「それでも変わりたい!」
と思ったままで坐るのです。
その時生じた思いは、次の今の思いにとって変わり
全て跡形もなく滅して流れ去って行くのです。
その時の今の様子にて、元気が出ないでいたら、
元気でないままの様子のままにいるのです。
何を考えたって、何を思ったって
良い悪いではなく、
どう在ったっていいのです。
気取らず、作らず、飾らず、カッコつけず、強がらず、
その時の今の自分の事実の様子のままにただ坐れば、
日常生活をそのままに送ればいいのです。
坐中も、日常生活も
その時、その時の今の事実の様子のままに、
飾らずにその時の今の自分の在り様のままに過ごすのです。
中村幸ム
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