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静かなる目覚め 無時間性の秋

第30週 10月27日〜11月2日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、心が静かになるであろう秋。ということで、身体・心・精神というシュタイナー思想の根幹について考察していきます。心→精神、精神→心といった循環についてです。そして、とぎれなく永劫的な循環の中で無限に変化する今とは?非常に美しい概念であるのです。

では、読み解いてまいりましょう。

   

D‘. DREISSIGSTE WOCHE (27. OCT. – 2. NOV. [1912])

30.
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
Des Denkens reife Früchte
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912



  心の陽光によって芽生えた
  思考が熟され実る
  確かな自己意識の安寧あんねいから
  感情へと昇華し
  歓喜にあふれ
  秋の目覚めとなる
  冬は私の中に
  夏の心をよび覚ますだろう





秋の安寧、寂然、静謐


秋は、人生のうつろいを受け入れ、静かに心を整える絶好の季節なのかもしれません。そのに身を置くことで、安寧、寂然、そして静謐といった、心持ちへと自分自身をいざなってゆくのに、どのような方法があるでしょうか?


詩人である、萩原朔太郎氏の『秋と漫歩』からの非常に興味深い抜粋です。


 私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬のらいぬみたいに終日戸外をほッつき廻っているのである。そしてこれが、私の唯一の「娯楽」でもあり、「消閑法」でもあるのである。つまり私が秋の季節を好むのは、戸外生活をするルンペンたちが、それを好むのと同じ理由によるのである。

 前に私は「散歩」という字を使っているが、私の場合のは少しこの言葉に適合しない。いわんや近頃流行のハイキングなんかという、颯爽さっそうたる風情ふぜいの歩き様をするのではない。多くの場合、私は行く先の目的もなく方角もなく、失神者のようにうろうろと歩き廻っているのである。そこで「漫歩」という語がいちばん適切しているのだけれども、私の場合は瞑想めいそうふけり続けているのであるから、かりに言葉があったら「瞑歩」という字を使いたいと思うのである。

 私はどんな所でも歩き廻る。だがたいていの場合は、市中のにぎやかな雑沓ざっとうの中を歩いている。少し歩き疲れた時は、どこでもベンチを探して腰をかける。この目的には、公園と停車場とがいちばん好い。特に停車場の待合室は好い。単に休息するばかりでなく、そこに旅客や群集を見ていることが楽しみなのだ。時として私は、単にその楽しみだけで停車場へ行き、三時間もぼんやり坐っていることがある。それが自分の家では、一時間も退屈でいることが出来ないのだ。ポオの或る小説の中に、終日群集の中を歩き廻ることのほか、心の落着きを得られない不幸な男の話が出ているが、私にはその心理がよく解るように思われる。私の故郷の町にいた竹という乞食こじきは、実家が相当な暮しをしている農家の一人息子ひとりむすこでありながら、家を飛び出して乞食をしている。巡査が捕えて田舎いなかの家に送り帰すと、すぐまた逃げて町へ帰り、終日賑やかな往来を歩いているのである。

 秋の日の晴れ渡った空を見ると、私の心に不思議なノスタルジアが起って来る。何処どことも知れず、見知らぬ町へ旅をしてみたくなるのである。しかし前にいう通り、私は汽車の時間表を調べたり、荷物を造ったりすることが出来ないので、いつも旅への誘いが、心のイメージの中で消えてしまう。だが時としては、そうした面倒のない手軽の旅に出かけて行く。即ち東京地図を懐中にして、本所ほんじょ深川の知らない町や、浅草、麻布あざぶ、赤坂などの隠れた裏町を探して歩く。特に武蔵野むさしのの平野を縦横に貫通している、様々な私設線の電車に乗って、沿線の新開町を見に行くのが、不思議に物珍らしく楽しみである。碑文谷ひもんや武蔵小山こやま戸越とごし銀座など、見たことも聞いたこともない名前の町が、広漠たる野原の真中に実在して、夢に見る竜宮城のように雑沓している。開店広告の赤い旗が、店々の前にひるがえり、チンドン楽隊の鳴らす響が、秋空に高くきこえているのである。

 家を好まない私。戸外の漫歩生活ばかりをする私は、生れつき浮浪人のルンペン性があるのか知れない。しかし実際は、一人で自由にいることを愛するところの、私の孤独癖がさせるのである。なぜなら人は、戸外にいる時だけが実際に自由であるから。

『秋と漫歩』萩原朔太郎より抜粋


まず、瞑歩という置き換えが素晴らしいですよね。いいと思いますよね。瞑想に耽りながら歩くというのは、おそらく頭の中がワイワイと騒がしい状況から、なにかを観察しながらほッつき廻ることで、それを静めてゆけるのかもしれませんね。

次に、停車場の待合室で旅客や群集をみながらぼんやりと休憩。今でいえば、新宿のバスターミナルでインバウンドの旅行客やビジネスマンなどが行き交うさまを、ベンチ座りながらボーとみている感覚でしょうか?おそらく、こういう時って、喧噪と反比例するように、頭の中に静けさがみたされるような瞬間ってありますよね、無声映画のように音が消えてゆく感覚です。

そして少し驚いたことに大正時代には、まだ、東京周辺にも武蔵野の自然が多く残っていて、聞いたこともない名前の町が、広漠たる野原の真中に実在して、夢にみる竜宮城のようだったのか…という不思議なノスタルジアの風景。どこまでも家並みが続く現在とは全然違う環境だったのですね。現代にたとえると札幌から小樽などに向かう途中に海や森の風景に変わり、小樽に近づくと突然、賑やかしい街が車窓に現れるような感覚だったのかもしれませんね。


街場と自然との距離感を感じながら物事を観察するのは、自然の中のちっぽけな人間としての在り方みたいな思考や、超越した無時間性の世界に放り込まれるような体験をしているのかもしれません。


さらに、戸外にいる時だけが実際に自由であるから。という気持ち。すごく共感しませんか。実際に家にいるといろいろな本や情報に囲まれていて、素の自分ではないような感じですよね。

そのためには、スマホとかを置いて朔太郎風に、秋のこの時期は、漫歩や瞑歩的な散歩をしてみるのが手だと思うのですよ。






心と精神について


シュタイナーは、
あなたが人間であることを意識することや、
人間にそなわる精神性を大いなる者の導きに従わせていくことなど。
これらの大切さを常々伝えてきています。

その理由として人間が三重の存在であること。すなわち物質的な存在論だけでは説明できない、身体(知覚作用などを含んだ物質的総体)と、心(感情の動きをおこす主人公)と精神(大いなる者との関係)、心や精神といった非物質的みえない領域が重層的に関わる存在へとアプローチしているのです。“アントロポゾフィー”と呼ばれる思想ですね。

たとえば、ストレスを感じるときは心がネガティブな方向に動き、精神と分断され、身体にも悪影響をおよぼす。といった具合に、それぞれの相互作用によって自分というものが成り立っているのです。

翻訳の際には、人間は、身体と心・精神が統合されたものとして認識し、コトバを選んでゆかなければと考えています。その中で精神というワードは、心との境界線が曖昧ですし、非常に理解しにくく誤解を招きそうなので、普段は、あえてNGワードとしています。

しかし今回は、五感でえた情報(身体)の、快・不快を分析する。感情がえているのを客観的に眺めてみる(心)。意識できる存在であることを大いなる者との関係性の中でとらえる(精神)。という構造で説明をしてゆきます。


  確かな自己意識の安寧あんねいから
  感情へと昇華し
  歓喜にあふれ
  秋の目覚めとなる


今週のこの部分は、心から精神へと拡張してゆくような感覚です。目覚めとは、大いなる者の感覚に近づくという感覚なのです。

心と精神に関係性は、このように心から精神へと流れてゆく方向と、精神から心へと湧き上がったり降りてきたりする感覚や、内から外、外から内などのような2方向があり、それらが循環しているものなのですね。

たとえば、心の中で不安を感じたときに精神の導きに従うことで、新たな気付きがえられる場合もあります。逆に、精神的に不安定な状態が心に不安を与える場合もありますよね。


  冬は私の中に
  夏の心をよび覚ますだろう


この部分は、逆に精神から心へという流れになっていて、夏の頃に、大いなる者から与えられたものが冬にむけて、心の中で作用しだすのだという相互作用を示唆しているという構造なのです。


この心と精神の動きが、自己認識の原動力になってくるわけなのです。






2024年10月蜘蛛の糸と虫食いの枯葉




そして、先週に引き続き続き、秋の目覚めだったり、まだ訪れていない冬など、そして過去の夏など。普段、認識している時間を超越した現在・過去・未来の無時間性への示唆が今週も表現されていますね。

スピノザ風に考えれば、“永遠の相の下に”を“無限に変化しうる今”と捉えることができるかもしれませんね。
“神(自然)”は、大いなる者の本質であり、全ての事象はその必然性のもとに展開されてゆくのです。永遠の視点で物事を見ることは、大いなる者の視点を共有することであり、物事の偶然性や人間的な善悪の感情を超えて、その本質的な必然であることを意味しているのでしょう。

無限の選択の自由が必然であると見出させれば、あなたが出来事を永遠の相の下に認識することで、それが、大いなる者の必然的な一部と捉え、感情的な動揺からも解放されのです。この認識は、欲望や恐れに縛られた日常的な意識からあなたを解き放ち、真の自由へと導いてくれるのでしょう。



非常に神秘的で美しい世界なのかもしれませんね。

そんな感性をもって、秋の気配を感じとりに

フラッと外に出てみてはどうでしょうか。


散歩途中に、木の枝から蜘蛛の巣のぬけがらに、何か作品めいたものがぶら下がっていました。“自然の造形力は素晴らしい”と、一言では片付けられないアートの存在感がそこにあるように感じました。

通常、自然の造形力は素晴らしい。と表現されるものは、薄紫から碧色に移ろう夕日のグラデーションであったり、優美な花弁のカタチであったり。なぜだか、本能的に感じてしまう美しさについて語られるときにそういうコトバが出てきます。

本来、絶妙に蜘蛛の糸に絡まった枝葉などは、その部類には属さないもののはずです。でも、何故? 枯れた小枝・枯葉・小枝・実・翼果などのインスタレーションに、美しさを感じてしまうのでしょうか?

おそらく、それらは、確かな自己意識と呼んでもいいのではないでしょうか。自由に偶然が織りなす造形と自らの過去の記憶がリンクして、驚きや歓喜がわき上がってくる必然的な瞬間。

その瞬間を、精緻にとらえるとき
何か特別なメッセージが送られてきているのかもしれません
それによって、大いなる者への気づきがあるかもしれませんね。





季節を通しての植物観察は一年単位ですが、人間は80年から100年単位での生命としての循環をつかさどっているわけです。


一年間の“こよみ”をじっくりと読みこみ、実践してゆくことは、一生を観察することに近いのかもしれないと思うのです。そして、もっと想像を超えた循環をも示唆しているのかもしれないのです。


季節を観察し、心で感じ、大いなるものとの関係性を探ってみる。
答えを探すのではなく、眺める感覚を大切にして…。





シュタイナーさん
ありがとう

では、また







Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/10/27







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