高橋慶生

コピーライターです。

高橋慶生

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最近の記事

名もなき偉業

自分の子どもの誕生日というものは、やはり特別だなと思う。大きくなったねえ…と、最近毎日のように言っている気もするが、本当に日々、ぐんぐん育っていく人間たちと生活することは、この上ない幸せだなと思う。 子どもは天真爛漫だ、という言葉をときどき耳にする。そのたびに、本当に?と思う。子どもは怒られても数分経つとケロっとしているとか、昨日のことなんて忘れて今を楽しんでいるとか。 少なくとも自分はまったくそんな子どもではなかったのだ。叱られたことは根に持つし、細かいことも後々までし

    • 記事寄稿)障害の当事者って、誰のことなんだろう。

      オンラインで実施したイベントのレポート記事を、電通ダイバーシティラボのcococolorに寄稿しました。 一緒に登壇したのは、難聴児とその家族のサポートに取り組む、株式会社デフサポの牧野友香子さん。 話しているだけで、こちらがエネルギーをもらえるような方です。 記事の中でも触れましたが、このイベントで私がテーマにしたのは「障害の当事者って、誰のことなんだろう」ということ。なんの話?と思われるかもしれませんが、障害のある子と暮らす親として、これからも考えていくことになるだ

      • 書くことは、託すこと。

        自分が書いた言葉で、企業が、そこで働く人が、変わってほしいと願うこと。 それを願い、祈りながら、私は書く。 言葉は、私の願いを乗せて、旅立ってゆく。 一人ではできないことを、言葉に託している。 私の代わりに、力となってくれることを願いながら。

        • 結晶化する

          ある考えや情報が手元にあるとき、 そこにある種の「圧」をかけてみる。 ギューッと圧縮して余計なものを振り落としていくと、 そこに力が生まれてくる。 それが上手くいったものが「結晶」になる。 結晶になると、持ち運びができる。 こんなのどう?と他の人に見せられるし、 あ、こっちと組み合わせよう、と楽しんだりできる。 いい結晶は、ひとつとして同じものがない。

          下書きと上書き

          完成するまえの文章を、下書きと言う。 書き直す、書き換えることを、上書きという。 ならばその間は、何というのだろう。 下書きと上書き。 すべての文章は、そのあいだにあるのかもしれない。 それでも書く意味があるとすれば、 いましか書けないこと。 自分しか書けないこと。 もし、いまここに、この人間がいなければ、 生まれなかった言葉。 いつも、それだけを目指して書いていけばよい。 いま、ここで書かなければ、二度と書けないもの。 どうかその瞬間を逃さずに生きて

          下書きと上書き

          書くことは、聴くことなのかもしれない。

          あ、と思う瞬間があった。この記事を書いているときだった。 2回にわたって学校を取材させていただいた。話を聞いて、現場を見て。 そこに光るものを、できるかぎり曇りなく、伝えたいと思った。知ってほしいと思った。 そのために、どんな視点で書けば良いのか。どんな言葉を選べば良いのか。それだけを考えているうち、ふと、「書いている」という感覚がなくなった瞬間があった。 書くことが上手くなりたい、とずっと思っていた。今も思っている。でも、誤解を恐れずいえば、それは思い上がりに過ぎない

          書くことは、聴くことなのかもしれない。

          何色を見ているか

          色のついたものを、 必死に見ようとしていたのかもしれない。 鮮やかな色。濁った色。 明るい色。くすんだ色。 でも、いちばん見えていなかった色は、 透き通った色だった。 色を見ようとしても見えない色。 ああ、透明だったのか、 ということがわかるまでには、 たくさんの色を見る時間が必要だった。 そういうことなのかもしれない。 澄んだ湖面は、透き通っている。 人は、光それ自体を見ているのではない。 光に照らされたものを見ているのだ。

          何色を見ているか

          まだ名前のない幸せを

          自分はコピーライターとして何をしたいんだろう。何を拠り所に書いていくんだろう。いまのところの答えは、この1行です。 それは、まだ誰にも見つかっていない幸せかもしれない。それは、誰かの心の中にはあるけれど、みんなが「それそれ」といえる名前がついていない幸せかもしれない。 名前は、まだない。それは、可能性しかないのだと思う。 #熟成下書き (このハッシュタグも「名前をつける」素晴らしい言葉だと思いました。)

          まだ名前のない幸せを

          ミュージカルは一枚画のクリエイティブだ、と思った。

          ご縁があって、ミュージカルの舞台を観に行った。 音楽座ミュージカル「7dolls」。 舞台はときどき見に行くけれど、ミュージカルは、ほぼ初めて。 きっとストーリーのなかで「歌う」ことがメインとなるのだろうな、とイメージしながら、席に座る。 幕が開く。 え、なんか次々登場する俳優さんみんな、めっちゃいい声・・・。って、すぐに引き込まれていったのだけど、このシーンのあたりで、ふと気づいた。(主演の森彩香さんのtwitterから) あ、ミュージカルって、「一枚画」なんだ

          ミュージカルは一枚画のクリエイティブだ、と思った。

          アタマの中に大阪人を住まわせる

          生まれも育ちも大阪なのだが、就職して東京に来て、気づけば人生の半分が関東在住という計算になる。 コピーライターという職業だからなのか、いまではすっかり流暢な「東京弁」を操って生きている。大阪の人間は、大阪弁/関西弁(この2単語の使い方を間違えるとアブナイ)を「方言」「なまり」と呼ばれることを極端にきらう。それとおなじ温度で「標準語」という表現も素直には受け入れがたいものがある。 「なまり、出ないね」とか言われながら、きょうも東京弁をしゃべりながら、書きながら、糊口をしのぐ

          アタマの中に大阪人を住まわせる

          ひらかれた内省

          以前このnoteにも記したが、ひとりで深く潜る時間、をとても大切にしている。 「自分の中での問答というものだけがその人を育てる」 この言葉に何度支えられたのかな、と思う。 これは自分が野球というスポーツをやっていた影響が、少なからずあると思う。野球は、チームスポーツであると同時に、残酷なまでの一対一の競技でもある。マウンドに立つのはひとり。打席に立つのはひとり。応援はできる。アドバイスも送れる。でも結局その瞬間、一対一の対決の積み重ねが、勝敗を決する。 もちろん、だから

          ひらかれた内省

          見つかった、を見つけてくれる人。

          企画をする。アイディアを出す。そういう仕事をしていると、日常的に、自分のアイディアを誰かに伝えるシーンがあり、誰かのアイディアを聞かせてもらう場面がある。単に良し悪しをジャッジするというだけでなく、テーブルに乗せた「アイディアのかけら」のようなものからブレイクスルーが生まれることも多々あるし、メンバー同士のアイディアが化学反応を起こしたりもする。 ひとりで考えていて「あ、これいいかも」という瞬間も楽しいけれど、打ち合わせの場所で新しい何かがうまれるというのは、また違う快感が

          見つかった、を見つけてくれる人。

          おにぎりふたつ

          コンビニの棚の前に立って、さて何を食べようかと考える。 おにぎりをふたつ買おうとするとき、無意識に「違うものふたつ」を選ぼうとしていることに気づく。栄養バランス的には「いろいろ食べなさい」なので、理には適っているのだが。 休日に出かけた先で同じようなシチュエーションがあり、息子が迷わず「いくら」「いくら」のふたつをカゴに入れたんです。 え?同じのだよ?と聞いたら「だっていちばん好きなのだもん」とのこと。そうか、一番好きなら仕方ない。そうしよう。とレジに向かったのでした。

          おにぎりふたつ

          「うまい」より「うれしい」

          200ページに満たない文庫本だけど、内容の濃密さがすごい。 すごくいい本でした、ということなのですが、中でもこれはものすごい言葉だぞ、とハッとさせられた一説がありました。同時に、本当の意味でこの言葉を理解できていないな、という歯がゆさもあり。 ここに書き留めておきたくて、滞っていた更新をようやく再開した次第です。 コピーライターという肩書から、ぼくはいまでも「なにかうまいことを言う人」のように見られることがあります。(中略)ぼくがコピーに求めていたのは「うまい」じゃなく

          「うまい」より「うれしい」

          いつか思い出すひとこと

          この言葉は一生忘れない、 というほど強い感覚ではなく、 でもふとしたときに、 また思い出すだろうなと予感する言葉。 …って、いいなと思うのです。 なんとなく伝わるでしょうか。 実例でご説明します。 今週、会社の歯科検診に行った。 ひととおり歯科衛生士さんに見てもらい、 歯も歯ぐきも健康ですね、お疲れ様でした〜 のあとに、ぽろっと、 「ご両親に感謝ですね」と、 何気なく言われたんです。 じつは生まれてから、 1本も虫歯になったことがなくて。 それには歯の強さと、幼少

          いつか思い出すひとこと

          できないことは、ふえるほうがいい。

          仕事をはじめて10年以上たちますが、 できることがふえた、という実感よりも、 ああまた、できないことが見つかった、という 絶望(ちょっと言いすぎか)のほうが、 体感的にはだいぶ多い。 そんなことないですかふつうは。 その度にどっと疲れるので、 できればもう少し 楽しくやれればなと思うのですが、 それはちゃんと向かい風のほうへ 歩いていることなんだ、と思い込ませて、 その事実そのものを礼賛するべきなのかもしれない。 というか、そうでも思わないと、立ち止まってしまう気がする。

          できないことは、ふえるほうがいい。