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ひらかれた内省

以前このnoteにも記したが、ひとりで深く潜る時間、をとても大切にしている。

「自分の中での問答というものだけがその人を育てる」
この言葉に何度支えられたのかな、と思う。

これは自分が野球というスポーツをやっていた影響が、少なからずあると思う。野球は、チームスポーツであると同時に、残酷なまでの一対一の競技でもある。マウンドに立つのはひとり。打席に立つのはひとり。応援はできる。アドバイスも送れる。でも結局その瞬間、一対一の対決の積み重ねが、勝敗を決する。

もちろん、だからこそ生まれるヒーローがいて、スターがいる。そのことを否定するつもりは全くない。いや、だからこそ、自分は「ひとりで潜る時間」を大切にしているのだと思う。

会社に打ち合わせ調整ツールが導入されて、予定が空いている時間は、基本的に打ち合わせのオファーを入れて良い、というルールが制定された。これは本当に困った。いや、確かに予定表のうえでは、空いている。誰と合っているわけでもない。でも、暇なわけではないのです、と。

考える時間、耕す時間、ひとりで潜る時間がなくなると、コピーライターは、どこで価値を生み出せば良いんだろう。打ち合わせに出て、その場で上手いこと言うひともいる。でも自分はそういうタイプではない。潜る時間がないことが、すごくストレスになる時期もあった。

でも、最近は少し変わってきた。桁違いにアタマの回転が速い人を目の当たりにすると、自分の「考える時間がない」という発言が、詭弁や言い訳に聞こえてくる。

ふと、平田オリザさんの著書にあるこの一説を思い出した。インプットとアウトプットが同時に生成される、という状態。

オリンピッククラスの体操選手が、いわゆるウルトラCといった新技を習得するときには、もちろん繰り返し、自分の筋肉や関節の動きを記憶し何度もシミュレーションをする。しかし同時に、天井や壁が、どの順番で、どのような角度で見えてくるのかを記憶していくそうだ。要するに、人間は、主体的な筋肉や関節の動き(アウトプット) と、視覚というインプットを同時に、しかも脳内で何らかの形で関連づけて記憶しているのだ。(わかりあえないことから/平田オリザ 講談社現代新書)

インプットとアウトプット。矛盾するふたつのものが、同時に生成され、高度に昇華される瞬間。むずかしい分だけ、そこには高度で美しいものが生まれる可能性が秘められているのだと思う。

深く潜る。内省。それはふつう、「閉じる」行為だ。だが、そこに「ひらかれた」という真逆のベクトルをぶつけてみたら?

「ひらかれた内省」どこか可能性がある気がする言葉。

それは、自分自身が何を考えているのか?を掘り下げて考えるプロセスを、同時進行的に他者に伝えようとするアタマの使い方。

ものすごく単純化すれば、もやもやと考えているそのプロセスごと、人に見せる文章の形でまとめていくということだ。

ひらかれた内省。それは、他者からのフィードバックを栄養にして、さらに育っていく。結果的に、ひとりで考えるよりも深いところまで掘り進められることも、あるのかもしれない。

インプットとアウトプットは分離するものではない、というのが今日の再発見。

それではまた。



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