書くことは、聴くことなのかもしれない。
あ、と思う瞬間があった。この記事を書いているときだった。
2回にわたって学校を取材させていただいた。話を聞いて、現場を見て。
そこに光るものを、できるかぎり曇りなく、伝えたいと思った。知ってほしいと思った。
そのために、どんな視点で書けば良いのか。どんな言葉を選べば良いのか。それだけを考えているうち、ふと、「書いている」という感覚がなくなった瞬間があった。
書くことが上手くなりたい、とずっと思っていた。今も思っている。でも、誤解を恐れずいえば、それは思い上がりに過ぎないのかもしれない。
少なくとも自分は、書きたくて仕方ない、伝えたいことが次々溢れてくる、という人間ではない。広告会社に入って、コピーライターをやりなさいと配属されなければ、何も書くことなく社会人人生を終えていた可能性もある。
楽しんで書けば良いんだよ、と言われるたび、違うんだ自分はうまく書きたいんだよと思っていた。
そこには「自分」があった。「自分」が真ん中だった。だから出てくる言葉も、幅がなく、深さもないものだったのかもしれない。
声を聴くこと。相手の声を聴こうとしているか。 そして、そこから出てくる自分の声を聞こうとしているか。
上手に書こうとするより、どんな声が聴けるだろう?と期待しながら書くことで、「楽しんで」書ければ良いなと思う。たぶん、そういう文章のほうが、人は読みたいだろうから。