アタマの中に大阪人を住まわせる
生まれも育ちも大阪なのだが、就職して東京に来て、気づけば人生の半分が関東在住という計算になる。
コピーライターという職業だからなのか、いまではすっかり流暢な「東京弁」を操って生きている。大阪の人間は、大阪弁/関西弁(この2単語の使い方を間違えるとアブナイ)を「方言」「なまり」と呼ばれることを極端にきらう。それとおなじ温度で「標準語」という表現も素直には受け入れがたいものがある。
「なまり、出ないね」とか言われながら、きょうも東京弁をしゃべりながら、書きながら、糊口をしのぐ日々。
いつだったか、英語を勉強している人たちとの会話の中で、仕事した後にレアジョブとかすると、もう脳がつかれてて、ぜんぜん英語が出てこない、という話をした。ああ、その感じはわかるな、と思った。
疲れたり酔ったりすると、東京弁の補正が効かなくなり、ネイティブなりの関西弁が口を突いて出てくる。なんか、酔っ払うと急に関西弁になる人ってうさんくさいけど、もう、脳のメモリが足りてないので、否応なしにそうなってしまうのだ。そこは大目に見てほしい。
酔っ払ったときは置いといて、シラフのときでも、アタマの中の関西人は、けっこういい仕事してくれたりする。
お、けっこういいコピー書けたぞ?というときも、「え、自分ほんまにそれ良いと思ってんの?」とアタマ冷ましてくれたりとか「ええやん、それええやん」と励ましてくれたりとか。
大げさに言えば、関西弁/東京弁のバイリンガルなわけで、その2つの人格のあいだでコミュニケーションが成立する。これ実はけっこうオモシロイ脳の構造なのでは?と思ったり。
思い返してみると、受験勉強で出てきた数学のややこしい問題文も、いちいち大阪弁に直して咀嚼してたなあ。
俺の中のリトルホンダが、と言った選手(ホンダ)がいましたが、けっこう真理だと思う。自分の中のもうひとりの自分を、どういう人格として規定するのか。
アタマの中に、どんな住人を住まわせるか。
意外とそれは、自分が書く言葉、話す言葉を規定する大きな要因だったりもする、と思うのです。
こういう文章もそういえば、書いてました。