「見込み」と辞典
NHKの「美の壺」という番組
がある。
昔はなんとなく素人をだますような番組のような気がして、あんまり観たことがなかったのだけれど、最近観るようになった。
もちろん素人でもわかりやすいように構成されているのだけれども、それぞれの美術品の楽しみ方のポイントが伝えられていて、程よく楽しめる。その道の専門家や本当の愛好家からしたら、ずいぶん単純化されてしまうように感じてしまうのだろうけれど、裾野を広げるにはいい番組だと思う。
その「美の壺」で「粉引(こひき)」が取り上げられていた。これは、朝鮮由来の白い陶器だそうである。その奥深い白が、とても魅力的に映った。
番組の中で「見込み」という言葉
が出てきた。茶碗の内側のことをそう呼ぶらしい。そうなると、「見込みがある」というときの「見込み」との関係が気になってくる。おそらくどちらかが先で、そこから派生したのだろうけれども、なんとなくどちらもありそうな気がする。
そこで、うっかりネットで検索してしまった。すると、案の定デジタル辞典の説明や、茶道のサイトがヒットした。そこには、求める答えはなかった。
僕は基本的にネットの辞典を参照しない。
それは、紙の辞典と違って、その説明が記された時期を認識しづらいからだ。
紙の辞典であれば、その古さから、ある程度それを意識して語釈を解釈することができる。ところが、ネットの辞典は随時語釈を改めたり、追加されたりする場合があるので、その記述が最近のものなのかどうかがわかりづらい。
そもそも辞典は、
ある時点での用例サンプルから解釈した、執筆者による記事である。それはルールでも規範でもないし、いち解釈にすぎない。言葉は様々な場所で同時並行で変化しており、その一部を切り取って、語釈を考えざるをえない。辞典によっては、ある程度時代をさかのぼって、過去の意味も載せている場合もある。そうなると、かなり複雑な事情で観測されたものを記述していることになる。
さらに、どのように表現するのかは、まさに執筆者の感覚に委ねられる。そこがまたおもしろいところでもあると同時に、普遍的なものと受けとめてはいけない理由である。そもそも、言葉を言葉で説明するというのは、どうしても無理があるものなのだ。
そのあたりを指し引いて、あくまで読み物として語釈を読むのが辞書の扱い方の基本である。
ところが、
そこに書かれているものを引いて、それを唯一の正解として受けとめてしまう、さらには人に教示してしまうことがある。
せめて紙の辞典であれば、「日本国語大辞典にはこう書いてあるけど」とか、「三省堂国語辞典の最新版ではね」という前置きによって注釈をつけながら、言葉の意味や用法について論じることができる。
それが、特にネットの辞典の語釈を用いて、「こういう意味らしいよ」というところで終えてしまうと、そこにはまるで「何でこうしなきゃいけないの?」という問いに「それは法律で決まっているからだよ」と押し切られてしまうむずがゆさがある。
言葉なんて勝手に使っていい
し、自由に表現していいものだ。適切に使用することが求められる場合もあるけれど、その「適切に」にだって多様なシチュエーションがあるはずだ。それが、辞書の記述を根拠に画一化されてしまうのは、かえって適切な言葉の運用を妨げているように思えてならない。
最近よく観ている動画に、
Kevin's English Roomがあるのだけれど、その中で、ネイティブがどのように新しい単語の語法を知るのかというものがあった。
その中では、もちろんネット上での英英辞典は参照するのだけれども、それだけではなく、実際の用例を一般サイトや動画で確認していた。その中で、その単語がどのような文脈で用いられるのか、ネガティブな表現に使われるのかポジティブな表現に使われるのか、といった実際の用例を丁寧に参照していたのが印象的だった。
言葉の意味というのは、基本的にそのような立場で調べるのが良いと思う。つまり、辞書の語釈は参照しつつも、基本的にはどのような文脈で、どのようなニュアンスに、どのような意味で使われているのかを確かめていくのだ。
国語科教育でも、
現代文の単語について単語帳で勉強することはある。単語に端的な意味が付されて、それを暗記する。だが、これではその単語の一面を知っただけで、その言葉を運用することは難しいと感じる。
だから、一番はどんどんそのような単語を用いた用例に触れる方が、よっぽどその意味を運用するには近道だと思う。実際には、特定の単語の意味を集中して覚えるというのはそれほど効率が良いとは思えないので、結果的には、様々な話題の文章に触れることが一番語彙力を増やすのには効果的だと思うのだ。
一応、他の教員と足並みをそろえる上でも単語帳を使用するようにはしていた。それには、単語テストというものが関係してくる。個人的には単語テストは、上記の理由もあってあまり意味がないと思っているし、テストのための準備や採点の時間や手間のコストも考えると、有害であるとさえ思っていたのだけれど、やはり単語テストというのは「勉強をやった感」が出るので、用いがちなのもわかる。生徒によっては、その「勉強をやった感」に飢えているものもいるのだ。
これは古典にも言えることで、
古文や漢文にも単語はあまたあるし、特に古文単語はその意味を覚えることが重要視されがちだけれど、結局はこれも文脈やニュアンスが大事なので、テキストに触れることが大事だと思っている。
古文単語の意味を強引に現代語の端的な言葉に置き換えているけれども、それでは意味がとれないテキストはいくらでもある。その言葉が、言葉としてなじんでいないと、読解には役に立たないのだ。
ということがあるので、辞書を法典のように用いて解をしめしている説明文にうっかり触れてしまった僕は、うんざりしてしまったのである。
もちろん、そのような説明ですっきりする人もいるし、それで納得する場合も多いのだけれども、個人的にはもやっとしてしまうので、あまり見ないようにしている。
インターネットで大事なことは、
自分の求めないものを見ないことだ。それは危険なことでもあるけれども、自分も他者も傷つけないための基本的なルールだと思っている。
だから、今回うっかり目にしてしまったのは、僕の失態であった。結果的にもやっとしてしまい、こうしてそのような善良な人々に対して毒を吐いてしまっている。
ともあれ、
「見込み」という言葉の用法としては、「見込みがない」と「茶碗の見込み」のどちらが古いのかは気になる。覚えていたら、図書館でいくつかの辞典を参照しようかと思うけれども、たぶん忘れてしまうだろう。