マガジンのカバー画像

小説

12
一次創作の小説をまとめました。
運営しているクリエイター

記事一覧

短編小説『花を育てられる人だから』

短編小説『花を育てられる人だから』

「きみは、花を育てられる人だから」

 彼はそう言って、煙草の火種を潰した。振り返らずにドアを閉めた背中の残像だけをぼんやりと眺めながら、「正確にはリトルシガーっていって、葉巻の一種なんだよ」なんて笑った彼の、薄い唇を思い出す。細くて茶色いブラックジャックは、骨張った白い手によく似合っていた。

 鎖骨に薔薇のタトゥーを彫っているくせに、彼は花を育てられない人だった。水をやりすぎて、いつも腐らせて

もっとみる
短編小説『いつもじゃない』

短編小説『いつもじゃない』

 スマホのアラームを止めて数分後、起き上がると大きく伸びをしてベッドを抜け出す。裸足で踏むフローリングはいつも他人行儀で、ひんやりと冷たい。キッチンでグラス一杯の水を飲んで、トーストを焼いた。お決まりの朝食を食べて、意味もなくスマホの画面をスクロールする。今日もいつも通りの休日か。窓越しにベランダを見ると、セキレイが物干し竿に止まっていた。いつも通りじゃない休日、もいいかもしれない。

 私はクロ

もっとみる
短編小説『敗北エンカウンター』

短編小説『敗北エンカウンター』

 悔しい、悔しい、悔しい。ずっと悔しい。その悔しさに勝ちたくて、頑張ってきたつもりだった。

 昇降口を出れば、憎たらしいほどの晴天。燦々と降り注ぐ太陽の光を睨みあげてため息をつく。なんで私が。期末テストの順位が記された紙の白さだけが脳裏にこびりついて消えない。数か月前から毎日こつこつと勉強を続けてきた結果は2位だった。友達に褒められても、私は全然嬉しくない。どうして、どうして、そればかり頭のなか

もっとみる
短編小説 『きらいなピンク』

短編小説 『きらいなピンク』

 ピンクのクマのぬいぐるみ。ピンクのハートのネックレス。ピンクのショルダーバッグ。二十才の誕生日に届いた、ピンクベージュの三つ折り財布。私が幼いころにお母さんと離婚したお父さんは、いつまでも私のことをピンクが好きな女の子だと思っている。誕生日になると毎年決まって届く段ボール箱、そのなかに入っていたピンクのプレゼントは、今ではほとんど押入れの奥。久しぶりに引っ張り出して眺めると、ピンクはピンクでもそ

もっとみる
短編小説 『鈴の音のイヴ』

短編小説 『鈴の音のイヴ』

 
 シャンシャンシャン、鈴の音が聞こえたあの夜を思う。似合わないサンタ帽をかぶった彼の面影が、暗い部屋の天井にゆらりぷかりと浮かんで消えた。隣に寝転ぶ横顔に指先で触れて、少しだけ笑う。大人になったらサンタクロースはやってこない。私もずっと、そう思っていた。

 今日は眠れそうにないな、という感覚とは仲良しだから、すぐにわかる。がんばってもどうしたって寝つけない夜というものは、諦めて朝を待つしかな

もっとみる
短編小説『先生の左手』

短編小説『先生の左手』

 大学の心理学部に入学して二年。毎週金曜日、実験心理学の授業のあと、羽藤先生の研究室に入り浸ることは私の日課になった。廊下を歩きながら、今日の授業で学んだ「心理的リアクタンス」について頭のなかで反芻する。やってはいけないと禁止されたことほどやってみたくなる、やりなさいと強制されたことほどやりたくなくなる、外的な理由によって失われた選択肢を魅力的に感じる、といった現象を説明する概念が心理的リアクタン

もっとみる
短編小説『万華鏡をみているみたい』

短編小説『万華鏡をみているみたい』

 万華鏡をみているみたい。初恋はそういう、魔法だ。

 使い古した有線イヤホンをして、再生ボタンを押す。つくりものの声がつくりものの恋を歌う、それなのにどうしてか私のこころは揺らぎ、今日も生き生きて痛みを感じている。

 初夏の湿り気に項垂れながら立ち寄ったコンビニ、覗き込んだ色とりどりのアイスたち。あのころ鮮明にみえていた世界と今私が眼差す世界は、なにか変わってしまったのだろうか。不意に引き戻さ

もっとみる
短編小説『ファインダー越しの背中』

短編小説『ファインダー越しの背中』

 高校二年生の夏休み。所属している写真部は、箱根へ一泊二日の撮影旅行へ出かけることになった。風景を撮るもよし、人を撮るもよし。自由に撮影をして、夏休み明けに学内展示を行うことになっている。

 三年生の先輩方はこの旅行をもって引退する。佐良先輩と過ごせる時間は残り少ない。写真部はもともと小規模で、今回の旅行に参加するのも六人。二年生の女子部員は私だけで、一年生は不参加。

「箱根、たのしみですね」

もっとみる
短編小説『一等星の彼』

短編小説『一等星の彼』

 最大15000人を収容できる大きなアリーナのステージを、3階席最後列、いわゆる“天井席”と呼ばれる、ステージからもっとも遠い座席から眺める。ここから見える彼は豆粒サイズで、高機能の双眼鏡を使うかメインステージ横のモニターを見なければその表情を確認することはできない。物理的距離は確実に100m以上ある。1階のアリーナ席にいるファンのことは羨ましいけれど、この席に不満はない。わたしは今、彼と同じ空間

もっとみる
短編小説『香月珈琲、850円』

短編小説『香月珈琲、850円』

  20歳の誕生日。一緒に流行りのカフェへ行くはずだった友達が高熱を出し、予定がなくなってしまった。仕方のないことだとわかっていても、ちょっと落ち込む。こんな日は自分で自分の機嫌を取るしかない。

 せっかくだから美味しいものでも食べよう、と考えて思いついたのは家の近くの路地裏で見つけた喫茶店。レトロで渋い大人な店構えのそこに踏み入る勇気が、今まではなかったのだ。今日こそは、雰囲気だけでも大人の仲

もっとみる
『いつか見た夢』収録|『防波堤の夜明け』

『いつか見た夢』収録|『防波堤の夜明け』

 毎晩飲んでいる薬とアルコールをちゃんぽんするいつもの夜、ふらっと散歩に出かけてはたと気づいた。仮にも二十代の女が深夜に出歩くもんじゃない。

 私とその男——青年とも少年とも形容し難い人物とは完全に目が合ってしまった。端麗な顔立ちをしているその男はにっと笑って、「やってんねぇ」と楽しげに言う。とんがったふたつの犬歯が特徴的だった。

「お姉さん、こんな時間に出歩いたら危ないよ」

「あなたも大概

もっとみる
短編小説『休みのち、ソフトクリーム』

短編小説『休みのち、ソフトクリーム』

 心身のバランスを崩して隠居するようになってから1年が経った。ここ数か月で体調がやっと安定してきたのでまずは外に出ることから始めようかと、散歩に出かける。

 誰にも会わないし、身だしなみを整えるのはおっくうだ。働いていたころは毎日フルメイクしていたのにと思いながら深めのバケットハットをかぶって、ぼさぼさな髪の毛もくたびれた顔も隠してしまう。

 ここは、家から10分程度歩いてゆるやかな坂を下ると

もっとみる