短編小説『敗北エンカウンター』
悔しい、悔しい、悔しい。ずっと悔しい。その悔しさに勝ちたくて、頑張ってきたつもりだった。
昇降口を出れば、憎たらしいほどの晴天。燦々と降り注ぐ太陽の光を睨みあげてため息をつく。なんで私が。期末テストの順位が記された紙の白さだけが脳裏にこびりついて消えない。数か月前から毎日こつこつと勉強を続けてきた結果は2位だった。友達に褒められても、私は全然嬉しくない。どうして、どうして、そればかり頭のなかでぐるぐるする。教科書を詰め込んだリュックが重い。
私は、1位になれなかった。その事実をどうにも受け入れられなくて、喉がじりじりと熱い。拳を握りしめて、それから開いた。ペンだこに触れて、数度目のため息をつく。なんであいつが、と憎むのはお門違いで、この悔しさは自業自得なのだ。
私が大人だったら、こんなときにヤケ酒をしたり煙草を吸ったりしたくなるのだろう。事実から目を背けて逃げてしまいたいのに、学校帰りに平らげる大盛りラーメンくらいしかこのどうしようもない感情を慰めてはくれない。あんまり好きじゃない先生は「それが青春だ!」なんて笑うけれど、美化されてたまるか。
まっすぐ帰りたくなくて、公園のベンチに腰掛ける。98点、99点、100点、97点、95点。返却された答案用紙をもう一度広げてみても現実は変わらない。私は越えられなかった。しかも1位になったのは、よりによってあいつ。素行不良の人間が学年1位になれば快挙だ奇跡だともてはやされて大盛り上がりだ。そこそこ真面目で大人しい人間が2位になったって、あなたは頭がいいもんね、の一言で済まされる。それって、おかしいじゃないですか。
見上げた空が青すぎて、ちゃんと綺麗で腹が立った。授業中寝てばかりのあいつ。生徒指導ばかり受けているあいつ。天才ってやつか、と認めちゃったら自分がもっと嫌になる。実は家で勉強しているのだろうか。どうせ一夜漬けで挑んだんじゃないか。あいつと一言も喋ることがないまま、私は卒業するのだろうか。
「あ、水森じゃん」
「ひっ」
背後から唐突に名前を呼ばれて、ばっと振り向く。そこには、ぬっと身を乗り出したあいつがいた。
「なにしてんの、こんなとこで」
「……荒谷くんこそ」
つんつんの金髪、シルバーのフープピアスに緩いネクタイ。その顔を見た瞬間、涙が出てしまいそうになって唇を噛んだ。
「なにって、なんかモヤっててさ。全然嬉しくねぇんだよな」
「……は?」
意図したよりもずっと低い声が出た。荒谷くんはとくに気にする様子もなく、私の隣に歩み寄る。悔しさというよりもはや怒りに近い感情をみぞおちに沈めながら、どすっと隣に腰掛けた荒谷くんから顔を背けた。
「水森は、1位とったら嬉しいと思えるんだろうな」
さっきからなにを抜かしているんだ、こいつは。腹立つ。ムカつく。イライラする。さっさとどこかへ消えてくれ、私は今、悔しくて、いや悲しくて、ちがう、とにかくもう最悪の気分で、一言でも喋ったら泣いてしまいそうなんだ。
「付け焼き刃、つぅの? それじゃダメなんだよな、やっぱり。水森はすげぇよ。邪魔したな」
じゃ、また! そう言って立ち上がった荒谷くんの気配が遠ざかってゆく。スニーカーが砂を踏む音だけが、ざっ、ざっ、と響いて聞こえなくなった。
——「それでね、そいつが急に話しかけてきて……言ってることも意味わかんないし、ちょっとでも興味をもった自分が馬鹿だったな、って……」
大変だったね! それは怖いね。あむちゃん可哀想……スマホの画面に並んだ同情のコメントたちを眺める。あむちゃん、か。私とは似ても似つかないアバターは色白で黒髪ロングの美少女。画面にときおり反射してしまう自分の顔に吐き気がする。腫れぼったい瞼の皮膚は、アイプチの使いすぎで皮膚が伸びてしまった。
「だいたい、なんで急に勉強なんかする気になったんだろう。喧嘩ばっかりして、ろくに授業も聞いてないのに」
だめだ。一度こぼしてしまえば止まらなくなる。このへんでやめとかなきゃ、他の話題を探さなきゃと思うのに、あいつに対する不満ばかり溢れてしまう。本当は、自分自身に対して憤っているのに。
「じゃあ、そろそろ勉強に戻ります。またね、みんなありがとう」
ハートに埋め尽くされた画面を見てこんなに虚しい気持ちになったのははじめてかもしれない。昨日までは嬉しかったのに、私の世界はテストの結果ひとつで変わってしまった。スマホの画面を閉じて見下ろしたノートには、テストで間違えた問題が並ぶ。たった数点、されど数点。私は2点差であいつに負けた。私にはこれしかないのに、これしかない長所は、敵わなかった。運も容姿も性格も能力も、生まれつき割り振られるバランスは不平等だ。後天的な要素を加味したってそれはあまりにも理不尽で、努力じゃ追い越せないと思う。だから私はいま、こんなにもぐちゃぐちゃだ。
『校内模試1位』
空いたスペースに、赤ペンで大きくそう書いてみる。まだ終わったわけじゃない。卒業までには時間がある。あいつを越えなきゃ、私は私を許してあげられない。
「おはよ」
「えっ……」
「えっ、てなんだよ。挨拶だよ、挨拶」
「……おはよう」
こいつが朝から学校に来ることなんてあるんだ。授業までにはまだかなり時間がある。ふーん、と言いながら私のノートを覗き込んだ荒谷くんを睨んで、それを閉じた。
「勝手に見ないで」
「いーじゃん。やっぱ字綺麗なんだな、賢いやつって」
そんなこと、どうして臆せず言えてしまうのだろう。私は目を逸らして、ちゃんと痛いペンだこに触れた。荒谷くんは私の隣に立ったまま、昨日の音楽番組がどうだったとか今週のジャンプが熱いだとかどうでもいいことを喋り続ける。その強靭なメンタルはちょっと分けてほしい。
「私、勉強の途中だから」
「あぁ、そうだよな、わりぃ。俺も勉強するわ」
「なんで?」
「ん?」
なんでって? と不思議そうな顔をしている荒谷くんに、本当になんなんだおまえは、と内心ため息をつく。こいつのことを考えているとため息ばかりだ。
「羨ましいんだよ、水森のこと」
「は?」
「ちゃんと嬉しい1位、とってみてぇし」
うわ、まじか。こいつ、校内模試でまた1位をとるつもりか。最悪だ。天才が努力までしちゃったら、凡才の努力は敵わない。いちばん後ろの席についた荒谷くんはもう私の視界に入らないのに、どうにも気になって勉強には手がつかなかった。
「水森、一緒に帰ろうぜ」
「は?」
「それ口癖? 意外と気ぃ強ぇのな」
「……ついてこないでよ」
「テストも終わったことだし、たまには息抜きもいいだろ」
私の話聞いてた? と問いかける気力もない。いつもと違う角を何度か曲がってみても、荒谷くんはずっとついてくる。
「荒谷くんは、なにがしたいの」
「なんだろな。水森のことを知りてぇ、のかな」
「私のことを知りたい……?」
「とりあえずマック入ろうぜ」
断ったって、こいつはどうせついてくる。家を知られるのは嫌だし無駄に歩き続けるのはもう疲れた。半ば諦めにも近い気持ちで、マックの自動ドアを抜けた荒谷くんに続く。ここなら学校から離れているし、同級生に目撃されることもないだろう。荒谷くんと水森がつるんでいる、なんて噂をされるのだけはごめんだ。
「腹減ったからビックマックとポテト食うわ、水森は?」
「私はアイスコーヒーだけで」
「ん、じゃあポテト半分こな〜」
「いや、大丈夫です」
にこにこしちゃって、なにがそんなに嬉しいんだろう。こうして近くで見ると、人懐っこそうな犬顔には金髪もピアスも似合っていない。学校ではいつもだるそうにしているから怖い印象があったけど、意外とよく喋るらしい。
「本当に嫌なら逃げるだろ」
「え?」
「だから、ちょっとくらいは話してやってもいいかって思ってくれたんだろ。ってことで、自己紹介するわ」
「は……?」
小さめのテーブルに、荒谷くんのトレーと私のアイスコーヒー。いらないって言ったのに、ポテトは私と荒谷くんの真ん中にある。膝に手を置いてわざとらしく姿勢を正した荒谷くんが、私の目をまっすぐ見て口を開いた。
「荒谷隼人、17歳。趣味はバイク。特技はなんだろな、喧嘩って誇れるもんじゃねぇしな。当面の目標は“悔しい”って思うことだ。よろしくな」
「悔しいって思うこと?」
「あぁ。悔しいってのは、本気ってことだろ。俺にはまだ、それがわかんねぇから」
「はぁ……」
たしかに私は、本気だった。いつだって本気だ。だからこんなに、悔しいのか。腑に落ちてしまったことが悔しい。こいつといると悔しくなってばかりだ。
「荒谷くん、どうやってテスト勉強したの」
「丸暗記だ。バイクの種類とか仲間の名前とかそういうのすぐ覚えられるから、勉強もこれでいけんじゃね? と思って。でも、そう簡単なもんじゃねぇんだよな」
「丸暗記だけで1位って……数学はどうしたの?」
「あれは公式暗記したらどうにかなったな。1問間違えたけど」
「……そうですか」
これだから嫌なんだ、天才は。丸暗記のゴリ押しだけであんな点数取れるわけない。だってこいつは、数学の1問以外なにも間違えなかった。いくら記憶力がよくたって、それを応用する思考力がなければ解けない問題もあったのに。ポテト3本くらい、食べても許されるか。
「今回は運が良かったんだろうな。このやり方じゃもう1位はとれねぇし、とったところで嬉しくねぇ」
「なんで?」
「だって次は、水森ももっと頑張るんだろ。運の良さと暗記だけじゃ、積み重ねの努力には勝てっこねぇよ。正々堂々のタイマンで勝たなきゃ嬉しくもねぇ」
「タイマンって、喧嘩じゃあるまいし」
思わず笑って、慌てて表情を引き締めた。一瞬きょとんとした荒谷くんが楽しそうにはにかむから、気を緩めてしまったことを後悔する。私は別に、ライバルごっこをしたいわけでもお友達ごっこをしたいわけでもない。
「水森、いつもめちゃくちゃいいスコア取ってんのに1問間違えるたび本気で悔しそうにしてんだろ。それを後ろから見るたび、いいなぁって思てたんだよ」
「全然、よくなんかないよ。苦しいだけ。期待外れな自分を、もっと嫌いになるだけ。というか、見ないでよ」
「自分に厳しいよな、マジで。ストイックなやつ、俺はかっけぇと思う」
荒谷くんは悪びれた様子もなく真剣な表情をして言うけど、授業中ずっと見られていると思ったら明日からどんな顔をして授業を受ければいいのかわからない。
「私、帰って勉強するから。もうついてこないでね」
「いや、ここで勉強してけば? どうやってんのか、教えて」
「は?」
「勉強って、まず勉強の仕方を勉強しないとできねぇだろ。それ、教えて」
どうして私が。まだ返事はしていないのに、荒谷くんはくたびれたスクバから教科書やノートを取り出す。そのノートには、赤ペンで書かれた文字がびっしりと並んでいた。
「これ効率悪いよな。手が疲れるだけだったわ」
「……書いた方が覚えられる人もいるけど、音読したり暗唱したりすると覚えやすいよ」
「マジ? 次からやってみるわ、ありがとな。てか、字汚すぎてなんて書いてあんのかわかんねぇ」
自分で書いたのにな、とひとりで笑っている荒谷くんにため息をついて、私は椅子に座り直した。馬鹿なんだか天才なんだかはっきりしてほしい。
「赤ペンで書くのもいいけど、青で書いた方が覚えやすいって聞いたことある」
「青か。よく知ってんな、帰りに青ペン買うわ」
「……荒谷くんに教える義理なんてないのに」
「ん、いまなんつった?」
「なんでもない、丸暗記で1位とれるなら勉強する必要ないんじゃない? 勉強が好きなわけじゃないんでしょ?」
え、助動詞の“り”って“さみしいりかちゃん”だよな? これって完了の“り”か、とぶつぶつ言っていた荒谷くんは、赤ペンをこめかみに当てて眉を顰める。
「好きってわけじゃねぇな。でも、熱くなりてぇんだよ。水森は勉強好きか?」
「熱く、ねぇ……私だって別に、好きなわけじゃないよ。自分を嫌いにならないために、必要なだけ」
「そういうはっきりしたモチベがあるの、いいよな。模試まで、俺も毎日勉強するわ」
校内模試まであと1か月。たぶん私はまた、荒谷くんに負ける。それでも、可能最大の努力をしたい。あわよくば勝ちたい。私は天才じゃないけど、それでも1位を諦めたくない。悔しくて腹立たしくてムカつくのに、こいつのおかげで熱くなっている自分のことは否定しようがなかった。ポテト、結局半分くらい食べちゃったな。
「水森おはよ」
「おはよう」
「水森、一緒に帰ろうぜ」
「今日は無理」
「水森、朝ごはんなに食った?」
「どうでもいいでしょ」
あのテストから1か月、荒谷くんは毎日私に話しかけてきた。そのせいでクラスの友達には心配されたしはじめは私も気にしていたけれど、荒谷くんがあまりにもしつこいから日に日にどうでもよくなってきて、今ではしょっちゅう一緒に下校している。断ったところでついてくるから仕方がない。
「なぁ、今日カラオケ寄らね?」
「いや、勉強するから」
「ガチで本気じゃん。水森って遊ぶことねぇの?」
「もう模試まで時間ないし、また今度ね」
「おっ、模試終わったらカラオケ行ってくれんの? よっしゃ〜、がんばる理由できたわ」
「はいはい」
自転車を押しながら隣を歩く荒谷くんと、単語帳片手にテキトーな相槌を打つ私。いつもの路地で別れて、今日も喋ってしまったな、と無意味な後悔をするのは何度目だろう。これじゃまるで友達だ。家に帰って机に向かっても、青ペン3本も持ってたなぁとか私と同じ単語帳買ってたなぁとか、荒谷くんのことばかり頭に浮かんでイライラする。私は教科書を閉じて、配信アプリのアイコンをタップした。
「みんな、久しぶり。今日はみんなに話したいことがあって……前に話した、学年1位の不良のことなんだけど」
えっ、なになに? その後どうなったの? と、コメント欄は興味津々だ。私よりあいつのほうが人気みたいで腹が立つけど、そんなことはもうどうでもいい。
「私が、間違ってたと思う。悔しいからって愚痴って、勝手な先入観で彼を貶して。たしかにあいつは素行が悪いし校則も守らないし、そういう点では馬鹿だなって今も思うけど、だからってなにも考えてないわけじゃないんだよね」
私はずっと、髪を染めたりピアスを開けたり校則通りに制服を着ないような子たちのことを内心馬鹿にしていた。頭悪いな、どうせ勉強もできないんだろうなって決めつけていた。校則を破っていいとは、今でも思わない。だけど、外見だけで決めつけて見下すのは間違っていたのだと、今ならわかる。
「急だけど、配信は今日でやめます。私も本気で頑張りたい。あいつに負けたくないから、もう愚痴ったり弱音を吐たりするのはやめる」
ざわついているコメント欄を眺めながら、今までありがとうとつぶやいて配信を終了する。そのままアプリを削除すると、なんだかとてもすっきりした。荒谷くんは今ごろきっと、コンビニバイトをしながら英単語を思い浮かべている。私は私の現実と向き合わなければ。もういちど教科書を開いて、シャーペンを握る。校内模試まで、あと1週間。
——「なぁ、聞いた? 荒谷停学だって」
一夜漬けで勉強してしまって遅刻しかけた朝、廊下で耳に入った言葉に足を止める。考えるよりも先に、体が動いていた。振り向いて知らない男子に声をかけて、ぎょっとされてからハッとする。
「すみません……あの、荒谷くん、なにをしでかしたんですか」
「いや、なんか、同じクラスのやつ殴ったらしい。詳しいことは知らねぇけど」
あの馬鹿、大馬鹿野郎。男子にお礼を言って泣きそうになりながら教室に入ると、いちばん後ろのあの席だけが空席だった。いつも大きな声でくだらない話をしているクラスいちのお調子者が、私を見るなり歩み寄ってくる。その頬にはアザがあった。
「見ろよこれ、お前のせいで殴られたんだけど!! ウケるよなぁ、荒谷もあんなことでムキになって」
荒谷くんに殴られたのはこいつらしい。どんな理由であれ人を殴ったことは許されないけど、もっとひどい怪我をさせたのかと思っていたから気が抜ける。
「……私のせいってどういうこと?」
「いやぁ、ちょっとディスっただけってか、まぁその場のノリってあるだろ? そしたらあいつがブチギレてさぁ、マジでいてぇんだけど」
意外と軽傷じゃね? とか荒谷って強くねぇじゃんとか笑う取り巻きの声が鬱陶しい。手加減されたんだって、どうしてわからないんだろう。
「私は別になに言われてもいいけど、それってあなたが人のこと貶したのも悪いんじゃないんですか」
「は、なにお前までピキッてんだよ。荒谷のこと好きとか? マジでウケる」
殴りたくなる気持ちもわかるな、と思いながらスカートの裾を握りしめて、溢れ出しそうになる罵詈雑言を殺した。私たちの関係を、こんなやつらに容易く形容されてたまるか。私は黙ったまま教室を出て、今日は休むから先生に伝えておいて、と友達にメッセージを入れた。私のために怒って殴って停学、ってなにやってるんだ、あいつは本当に馬鹿だ。荒谷くんとのトークルームを開いて、文字を打っては消す。なにを言っても生ぬるい同情のようで、中身のない言い訳みたいで、うまく言葉にできない。
『今どこにいるの?』
それだけ送信して、さっき通ったばかりの道を戻る。今日はマックで勉強しよう。ちょっとでも気を抜けば泣いてしまいそうで、歩く速度はどんどん早くなる。私の悪口なんて放っておいてくれればよかったのに。ブスとか芋とか根暗とか、そういうことを言われるのにはもう慣れた。だから私は、絶対に自分を裏切らない知識だけを糧に、勉強ばかりしてきたんだ。
『あの公園』
手のひらで震えたスマホに表示されたメッセージ。駆け出した足は一直線にその場所へ向かう。模試を控えた1日の大切さ、1分1秒の価値はあいつだってよくわかっている。私はもう、あいつの本気を知っている。
「馬鹿、なにやってんの」
罵った瞬間涙が溢れて、荒谷くんに背を向けた。マジで馬鹿だよな〜とへらへら笑う声がウザくて、心配した私の方がもっと馬鹿だ、と目元を拭う。
「頑張ってるやつのこと貶す権利なんて誰にもねぇだろ。俺は水森のこと、かっけぇって思ってるから。でも馬鹿だからさ、言葉で説明できなかったわ」
「……ちゃんと、言えるじゃん。それを、言ってやればよかったんだよ」
「そうだな。本気で悔しいって思ったら、手ぇ出てたわ。めちゃくちゃムカついて、イラついて、悲しいってかやるせねぇっていうか、もうとにかく最悪で、どうしようもなかった」
そんなことで、こんなところで目標達成しちゃってどうするんだ。本気とか悔しいとかそういうの、私とのタイマンで感じたかったんじゃなかったの? 頭のなかで渦巻いたものはひとつも言葉にならなくて、ベンチに腰掛けた荒谷くんを見下ろすことしかできない。私は今、いつもよりもっと不細工な顔だ。
「泣くなよ。まだ、卒業までにチャンスはあるだろ。リベンジさせて」
「……今回の模試は、私が絶対に1位をとる」
「あぁ」
「だから、必ず戻ってきて。私の1位を奪いにきて」
私のために、怒ってくれてありがとう。目を見ずに伝えて、自作のまとめプリントをファイルごと荒谷くんに押しつける。びっくりしながらそれを受け取った荒谷くんの言葉も待たずに、私はまた駆け出した。1秒だって、無駄にはできない。私はもっと本気で勉強に打ちこんだ。
——「模試の結果返却するぞ〜」
自信は、ある。自己採点も3回した。全教科満点とはいかなかったけど、あの結果なら1位はじゅうぶん射程圏内だ。荒谷くん以外、私のライバルはいない。あとはもう運次第だ、と割り切れるくらいがんばった。1秒も無駄にはしなかったと、胸を張って言える。
先生に名前を呼ばれて、静かに息を吸い込んだ。席を立って、教卓で採点用紙を受け取る。踵を返して見渡した教室、いちばん後ろの席だけが今も空席のまま。自分の席について、私は採点用紙を開いた。
「水森、1位だっただろ?」
ベッドに腰掛けて耳に当てたスマホ越し、なぜか自信満々なあいつの声に笑う。うん、と頷けばおめでとうと返ってくる、それが今は悔しい。
「これじゃ、せっかくの1位なのに喜べない。……まだ、タイマン張れてないから」
「それって、水森の公式ライバルとして認めてもらえたってことか?」
「認めるもなにも。そろそろ戻ってこれそう?」
「あぁ、楽しみにしとけよ。一皮剥けた俺を見せてやるから。言っとくけど俺も毎日かなり勉強してるからな。1位、本気で奪いにいく」
なにを企んでるのかな、と思いながらしばらくしょうもない会話をして電話を切った。机に置いた鏡を眺めて、学校帰りに切ってもらったばかりの髪に指を通す。自分を好きになるのはまだ難しいけど、許してあげるためにできることは、勉強以外にもたくさんあるのかもしれない。
「おはよ、水森」
「うわ、びっくりした」
下駄箱で上履きに履き替えると、後ろから聞こえた声。思わずびくっとしてから、口元が緩む。バレないように真顔に戻してから振り向いてすぐに、口をあんぐり開けてしまった。
「どうしたの、髪」
「言ったろ、一皮剥けたんだよ」
「ピアスも外したの?」
「あぁ。水森の公式ライバルとしては、これくらいの誠意見せねぇとな」
真っ黒に染まった髪とピアスホールだけが残った耳たぶ。ネクタイはきっちりと締められていて、制服の着こなしも校則通りだ。問題児で不良の荒谷くんは跡形もなく消えてしまった。もう、爽やかな好青年にしか見えない。
「荒谷くんって、良くも悪くも形から入るタイプなんだね」
「それディスってるだろ」
「うん、バレた?」
ひとしきり笑い合って、それから急に実感して、その瞳をまっすぐ見る。荒谷くんが、帰ってきた。私の、たったひとりのライバルが。
「……おかえり、荒谷くん」
「ただいま」
みんなの視線を浴びながら、私たちは廊下を並んで歩いた。私と荒谷くんの関係はすっかり勘違いされてしまっているけど、みんながどう思っているかなんて関係ない。それぞれの席について教科書を広げる、シャーペンをノックしてひたすらノートの上を滑らせてゆく。次の定期テストこそは本気のタイマン。私たちの勝負は、まだはじまったばかりだ。
Fin.
『敗北エンカウンター』は文芸実践会に提出した作品です。参加者のみなさんの作品やそれぞれの評が載っておりますので、活動報告も併せてお楽しみいただけましたら幸いです!