短編小説『一等星の彼』
最大15000人を収容できる大きなアリーナのステージを、3階席最後列、いわゆる“天井席”と呼ばれる、ステージからもっとも遠い座席から眺める。ここから見える彼は豆粒サイズで、高機能の双眼鏡を使うかメインステージ横のモニターを見なければその表情を確認することはできない。物理的距離は確実に100m以上ある。1階のアリーナ席にいるファンのことは羨ましいけれど、この席に不満はない。わたしは今、彼と同じ空間に存在しているのだ。彼の歌声を生で聴き、肉眼で動いている彼を見つめ、同じ会場の空気を吸うことができる。細かい振りつけや表情までは見えないけれど、十二分。いつも画面越しに見つめている彼が、今ここに存在してくれているのだから。
わたしは双眼鏡を使わない派閥のオタクだ。使ってみたい気持ちはあるけれど、どんなに豆粒でもいいから肉眼で彼を見たい!という気持ちが勝ってしまう。たまにモニターをチラ見すれば大きく映った彼を見ることができるし、どんなに遠い席だって案外不足はない。この網膜に生きている彼を焼きつけることに意味がある。記憶しておきたい。たとえいつか忘れてしまう日がくるのだとしても、記憶しておける最大期限まで、ずっと。だけれどたいてい、ライブが終わったあとはほとんどのことを忘れてしまっている。彼がそこにいた、もしくはそこにいるとは信じられなかったという感覚だけを持て余して、セットリストや演出のことはなにも思い出せない。わたしは彼を目撃した、その実感だけがじんと胸に残る。
彼は歌っていた。踊っていた。ときに笑い、そして真剣な表情をして、まっすぐな視線をカメラへ向けた。どっと会場が沸く。彼に夢中な歓声。熱狂。ペンライトの光が揺れるのをぼんやりと視界に捉えながら、焦点は常に彼に合っている。低音のビートが響くなか、床が揺れていた。アリーナがクラブと化した瞬間、わたしもまた揺れていた。
彼は遠い。いつも画面の向こう側にいる。たとえ同じ空間にいたってその距離は変わらない。絶対に届かない、雲の上の存在。そんな彼との距離に圧倒される瞬間が好き。跪きたくなる。ペンライトを振るこのリズムは祈り。彼がなるべく健やかに穏やかにいてくれますように、幸せでありますように。もしも彼が、幸せを望んで生きているのならば。
1階のメインステージとセンターステージをずっと往復していた彼が、ライブの終盤、スタンドトロッコに乗り2階以上の席へファンサービスを始める。天井席とはいえ、スタトロが目の前を通ればそれなりに近い。わたしはぎゅっとペンライトを握りしめて、だんだん近づいてくる彼を見つめた。彼が近くにくる。こないでくれ。いやでも、肉眼で表情を見られるチャンス。みたい。どうしよう、こっちにこないで!支離滅裂な願いを心の中で叫んでいるうちにスタトロは目の前に差し掛かる。彼は自分の名前が書かれたボードやうちわをひとつひとつ見つめながら笑ったり片手ハートを作ったり、ファンからの要望に言葉を返したりしていた。なにを言ったのかは聞こえない。わたしのうちわは見なくていいからね。そう思う割に気合を入れて作ってしまったうちわで顔を覆う。彼の視界にわたしの顔面が混入してしまうことは避けたい。呼吸が止まった。心臓もたぶん止まった。彼が真正面に差し掛かった、いわゆる“ゼロズレ”になった一瞬。彼と、視線が重なってしまったのだ。光を湛えた瞳がやや下に動いて、それから彼の口は、「ありがとう」と、動いた。ような気がする。
スタトロに運ばれて去っていく彼を見送りながら、自分のうちわをまじまじと見つめた。〈いつも幸せをありがとう〉。届いたのかな。伝わってしまったのかな。不快な思いはさせなかったかな、わたし、どんな顔をしていたかな。次の曲がはじまっても、心は追いつかない。わたしはぼうっとしたまま、ステージを去る彼を見つめた。それは一瞬の煌めき。閃光のような光が視界を駆け巡って胸の中心をうつ。忘れられない、忘れられるわけがない、ずっと忘れたくない、いつまでもここにいたい、あなたを見ていたい。わたしはどこにいても、誰よりも光るあなたを見つけることができる。あなたがわたしを見つけることは一生ない。だけれどわたしは、ほんの一瞬の視線に夢をみた。あなたの視線に恋焦がれる数多もの熱狂が、どうかやさしく、あたたかく、あなたに降り注ぐ光になりますように。わたし、あなたを照らす光の一部で在れたらいいな。くたびれた足も潰れた喉も筋肉痛の腕もぜんぶ、自己満足で一方通行な愛。わたしは、ペンライトの光を消す。明日への希望と勇気を、いっぱいに抱きしめて。