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聖徳太子×秦河勝×空海「秦楽寺」世阿弥!楽人や猿楽!神仏習合だな【田原本町シリーズ】

「じんらくじ」と読む。聖徳太子は秦河勝に仏像を下賜するのだが、その仏像を安置したのは、京都の太秦にある「広隆寺」である。ただし、やはり奈良にも聖徳太子と秦河勝ゆかりの寺があった!空海が名書を書き上げ、世阿弥が愛したであろう場所でもある。

 秦河勝は奈良と京都に腰を下ろし、大化の改新で播磨に逃げたのか?

 そんなファンタジーな秦河勝ゆかりの寺である。そんな寺の遺跡をまとめた資料を参考にどうぞ。遺跡好きは『秦楽寺遺跡(https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/2/2051/1694_1_%E7%A7%A6%E6%A5%BD%E5%AF%BA%E9%81%BA%E8%B7%A1.pdf)』を見てください

変更履歴
2024/02/20 初版


▼HP

▼アクセス

奈良県磯城郡田原本町秦庄267
※駐車場はないが表三門前に1台は車は置ける。自治会館の駐車場はあるが、関係者以外はNGのよう

▼祭神・本尊と脇時

※後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

→箇条書き説明

  • 秦氏が住んだ場所のようで、雅楽の楽人や猿楽の人が集まっていたとか

  • 647年、秦河勝の建立と伝えられている
    →645年の大化の改新で播磨に移っているとすると、丁未の乱から60年なので、実際は河勝の孫あたりが創建した説がある

  • 聖徳太子が、斑鳩から都に通った道である「大和の古道(太子道)」が寺の少し北にある

  • 本尊・千手観音立像は百済国から聖徳太子に献じられたもので、秦河勝が聖徳太子より賜ったものとされる
    →聖徳太子の師匠的な存在は滋賀・百済寺(私のNOTE)のようなのでつながった感はある
    私のNOTEより『寺伝では606年に聖徳太子が建立したとし、聖徳太子が瓦屋禅寺(建部瓦屋寺町)から東の山中に光を放つ霊木の杉を見出し、立ち木のまま刻んだ十一面観音@重文を囲むようにお堂を建てたのが始まり。朝鮮半島の百済の龍雲寺にならって寺を建てたため百済寺としたそうな。』とのこと

  • 現在の本尊は平安時代の千手観音で、脇侍は秦河勝と聖徳太子であるとも

  • 807年、唐から帰国した弘法大師・空海が、境内に梵字の「阿」の形の池を作ったとされている

  • その池は、本堂前面にある「阿字池」で、弘法大師が池の蛙がやかましく鳴くので叱ったところ、以降は鳴かなくなったとの伝説が残っている

  • 静になって、弘法大師が書き上げたのが『三教指帰(さんごうしいき)』でこの寺で書いたのだとか

  • 秦楽寺には「秦の楽園」という意味があり、古来、付近は秦氏の居住地で、雅楽や猿楽に関係する者たちも住んでいたとか

  • 表門は珍しい中国風で、人によっては黄檗宗?と思ってしまうかも・・・

  • 境内には春日神社などもあり、歓喜天、道祖神、龍神など神仏習合の名残がある

  • 1570年、松永久秀が十市郡に進出して荒廃する

  • 1759年、恵海が再興

  • 門前にある寺の説明板には、「秦楽とは、秦の楽人である」とある

  • 『風姿花伝』には、当寺の前に金春流屋敷があったと記されており、世阿弥は秦河勝の後裔を自認し、秦元清と自署しており、近辺の出身らしい

  • 江戸初期の狂言役者・大蔵虎明が記した『わらんべ草』などには、寺前に猿楽役者の金春大夫の屋敷があったと記されている(金春家は秦氏を名乗っている)

→山門

秦楽寺 略縁起

当寺は推古天皇御宇 ( 554~628 ) 聖徳太子の家臣 秦河勝の創立せる古刹で
あって、寺伝を按ずるに、太子在世の頃、百済国王より西天竺仏毘首羯麿
( びしゅかつま ) の彫刻せる千手観音像を、太子に進献され、太子はこれを
秦川勝公に賜れた。
河勝候も信心篤く、二十町方の地に七堂伽藍を建立し、仏徳を讃じ益々信心を深め本尊法楽の道場とされた。 ( 是れ秦楽寺称号の所以なり )
又、伝説ではあるが弘法大師も当寺に立寄られ、大師の名著三教指帰( さんごうしいき ) の書は当寺にありて撰述されたとされている。
かかる由緒ある秦楽寺も、天正年間に至り国内の内乱により、伽藍僧房兵火に罹り、建立当時のものは表門のみと云われるが、斯る古刹なるが故に明治二十八年三月、内務省より保存資金百円を下賜せられ、永世修理の方法を小礼され現在に法灯を伝えている。

秦楽寺
 当寺の創建は、大化三年 ( 647 ) 聖徳太子の家臣秦河勝によると伝えられ、平安時代には弘法大師が宿し、「三教指帰」を著したとも伝えられる由緒ある寺である。 真言律宗に属し、千手観音が本尊で、聖徳太子・秦河勝を脇侍とする。
付近一体は大字秦庄といい、秦氏の居住地であった。秦楽寺の 「 楽 」 は神楽や猿 ( 申 ) 楽などの 「楽」 であり、秦楽寺とは秦の楽人の意である。
「 風姿花伝 」 の大和の申楽四座の由来を記した条に、秦楽寺の門前に金春屋敷があったとあり、金春家は秦河勝の末裔と称していた。
表門は珍しい土蔵門で、中国風造りである。
境内に、大和三楽寺の三池の一つである梵字 「阿」 をかたどった阿字の池がある。
寺伝によれば弘法大師が 「 三教指帰 」 というお経を執筆中、蛙の鳴声が
けたたましかったので、これを鹿ったことから、それ以来この地では蛙の声はきかれないという。

田原本町境内尾説明文

→山門逆方向より

→本堂と聖天堂

 まずは聖天堂の歓喜天です。見えるわけないか・・・。

 次に本堂です。

  • 本尊・千手観音立像は百済国から聖徳太子に献じられたもので、秦河勝が聖徳太子より賜ったものとされる

  • 現在の本尊は平安時代の作の千手観音で、脇侍は秦河勝と聖徳太子であるとも

  • 秦河勝像の台座には明暦元年(1655年)9月14日_(旧暦)と「多武峯住 藤室法印良盛」の銘がある

→本堂右の「御神木」

→鐘楼

→阿字池と絵馬殿

 春日神社と笠縫神社向かいに絵馬殿があるのだが、これ舞殿か??ここで雅楽が行われたのかな??はたまた神社の拝殿か?池に入って禊もしたとか??

→春日神社、笠縫神社

 秦氏なのでオオヤマグイ(私のNOTE「松尾大社」)、ウカノミタマ(私のNOTE「伏見稲荷大社」)あたりかなと思ったのだが、そうではなかった・・。一度境内に出て神社名を確認した。

 境内の南東には、春日神社と笠縫神社が並んであり、笠縫神社は元伊勢伝承でアマテラスを天皇と離して祀ることにした初めての場所「笠縫邑」の候補地の一つとされている。って、「笠縫邑」は大神神社の摂社・桧原神社(私のNOTE)と思い込んでいたので、なかなかびっくりな感じだ。

  上の写真が春日神社で、下の写真が笠縫神社である。
 春日神社の中央の社殿は春日神社で祭神は天児屋根命(アメノコヤネノミコト)で、厳島神社が相殿となっており、右には小さな祠の八阪神社、左には稲荷神社があった。

 笠縫神社はアマテラスを祀っていますね。「笠縫邑」はどちらが正しいのでしょうかね??

→道祖神、歯龍王神

 池の反対側に「歯龍王神」を祀る社がある。「歯」に御利益がある神様なのか、その由緒のほどははっきりしない。たまに目にする「歯の神様」ほど謎でレアなものはないのではないか(というのは言い過ぎかな)。

 思い出した!!歯の神様は長野の戸隠神社の奥宮の九頭龍神社もそうだった。龍=歯??なんか不思議・・。

▼メディア情報

これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。

▼旅行記

初版以降の参拝は以下の旅行記の纏めで参照です。

▼セットで行くところ

▼仏像展


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