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入鹿の斑鳩宮の焼討は乙巳の変の引金

やまとみずほの国に生まれて  第四十二話

聖徳太子のモデルは竹田皇子明治天皇は1906年竹田宮家を創設した。GHQが皇室解体により皇籍離脱。男系男子を増やす目的は叶っていない。第四十一話「蘇我物部抗争に皇統も愛欲入り乱れる」聖徳太子を厩戸の前でスルッと生んだ、穴穂部間人皇女。穴穂部は石上穴穂宮安康天皇の皇居。間人は孝徳天皇皇后の間人皇女。馬小屋は世界共通神話。創作に違いない。

生母二人の同母兄は穴穂部皇子崇峻天皇、二人とも蘇我馬子が殺めるが、これは乙巳の変の正当化。三兄弟ととさんが欽明天皇、かかさんが小姉君、小姉さんとは年の近いお姉さんで、実体がない命名。誰のお姉さんかと言えば蘇我馬子、大姉さんの堅塩媛の間に挟む。小姉君は蘇我馬子を極悪非道の主君殺しにする捏造。堅塩媛も欽明天皇の妃、用明天皇推古天皇の生母。

推古天皇は異母兄弟の敏達天皇皇后となり竹田皇子を生む。敏達天皇崩御時は幼く、用明天皇が継承。この後竹田皇子は登場せず、聖徳太子が本名なく活躍する。わかりやすく日本神話は語っている。遣隋使の後、冠位十二階十七条憲法を成立させた蘇我氏の成果を奪い、国家制度の根幹を築いたと、聖徳太子を伝説にした。仏教を厚く信仰した功績は、太子信仰へ昇華する。

太子の死後、山背大兄王一族は法隆寺で自決する。643年乙巳の変ニ年前蘇我入鹿が斑鳩宮を焼いた。蘇我氏を悪者にして、英雄一族を退場させる。
聖徳は最高にいい名前。聖人の聖に、人徳のあるの徳。仁政しく仁徳天皇は詠った。第三十七話「国生み淡島は眉山!?淤能碁呂島は渭山!?」、阿波国を徳ある島に改名したのは、徳島藩主の蜂須賀家だ。渭山に築城し居城する。

豊臣秀吉が木下藤吉郎だった頃、一夜で築城した墨俣城、その前から秀吉に従った蜂須賀正勝、秀吉は小六と呼んだ。本能寺の変の後、秀吉は長宗我部を討ち、四国を制圧する。四国征伐の後、阿波国を与えられたのが小六だ。小六は高齢にて初代藩主は、嫡男の蜂須賀家政徳島は水都、観応の擾乱に阿波で戦う細川頼之が川に映る山を見て、川を渭水、山を渭山と名付けた。

もっともらしいが戦争中の逸話にふさわしくなく、西から見ると猪が伏せた形に見えて猪山と呼ばれたと言う。これまでのパターンでは猪が出たら嘘。本当は伊山だ。蜂須賀家は阿波に入った際、渭山の辺りを徳島と名付けた。徳島城があるから今は城山と呼ばれ、吉野川分流の新町川助任川福島川に囲まれる中洲。今でも島だから島はわかるが、なぜ徳ある島と名付けた。

それは仁徳天皇が、渭山をオノゴロ島と謳ったからだ。渭山から立ち退きに同意しない清玄坊を謀殺して、蜂須賀家は台与を祀る天石門別豊玉比賣神社を破壊する。台予は卑弥呼の死後、天照が召喚した万幡豊秋津師比売。今は眉山東麓の春日神社の境内社として祀られる。豊臣秀吉は征夷大将軍を諦め 関白となり豊臣姓を賜る。豊の意味を教えられ、交換条件として破壊した。

朝廷とのこんな密約を託せるのは、小六しかいなかった。ブラタモリでは、舟でわざわざ一周し徳島は本当に島と紹介している。中洲をひょうたん島と銘打つひょうたん島クルーズ。水都とくしまだけじゃなく、阿波邪馬台国を広めるなら、オノゴロクルージングと改名すべきだ。伊国の伊は渭水の渭。憤怒話「仁徳天皇の国見歌なぜ誰も気づかない?」、渭水には秦都がある。

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