真面目すぎても、ぶっ飛びすぎてもいけない『国語教科書の思想』石原千秋
夏目漱石研究者だった著者が、2005年当時の小中学校の教科書を分析した結論は「現在の日本の国語教育は道徳教育」というもの。著者は、PISA(program for international student assessment)の結果をあげて説明する。これは、別の言い方をすれば「日本的な教育文化」でもあるんだと思う。
でも、学校の国語教科書が多かれ少なかれ「道徳的」だっていうことは、多少感性の高いコドモならわかること。あんまりアナーキーにもできないので、それなりに無難にまとめると道徳的になるのは仕方ない気がします。それに、本屋もない田舎の村の小さな小・中学校の生徒だった私には、教科書は自分で選ぶのとは全く違うジャンルの文章が読めて、単純に楽しいものでもありました。
現代のコドモたちは、この本が書かれた時代以上にネットも含めて選択肢が多様にあるわけで、著者が心配するほど教科書の内容を「内在化」させるかは疑問に思う一方、どちらかというと学校の勉強や塾が忙しすぎて読書もできないコドモたちとか、LINEやらTwitterになれて長文がさっぱり読めない、書けないコドモとかの問題もあったり、なかったり。
もちろん、道徳的な文章やら試験に慣れて上手に忖度したり、迎合しているうちに、いつの間にか「忖度」が「普通」になるっていうのもあるし、忖度が嫌で嫌いになるのもあるだろう。試験や学校では無難に忖度して、実生活ではそれを無視するほど器用なコドモは多いとは思えない。結果、独創性やら創造性を発揮する子供は育ちにくいとはいえると思う。
なので、メタ的な視点を持てば国語も楽しいよってことで、娘には以前、著者の『中学入試国語のルール』をすすめてみました。最近は『教養としての大学受験国語』の反応もまあまあ。
私の興味は、本筋から少し離れたところにいくつか。例えば、教育問題に関してマスコミは誤報が多いという話。2002年の検定を通った高校の国語教科書に、夏目漱石も森鴎外も掲載されていない=国語から文豪が消えると報道した朝日新聞。でも、著者いわく、それ以前の教科書にも漱石と鴎外を掲載していないとのこと。なんだかよく聞くトホホな話。
教室は間違ってもいい場所だし、学校のテストはどこがわからないかをはっきりさせるもの。ゴールではなく、中継地点。でも、今は大事なテスト後のフォローができにくい現状になってしまっているそうです。「ゆとり」というのは学生にではなく、教師に与えるべきだった……云々の意見は確かに著者のいう通りかもしれません。
小説は、書いていないことを楽しむもの。どこの書いていないことを楽しむかは、読者の判断にゆだねられている……っていうのは、本当にその通りだと思います。以前、小説オンチの夫に、私のお気に入りの小説の感想を聞いたら「○○について書いてない」とかいうので殴ろうかと思いました。それは小説の読み方じゃなくて、論文の読み方。以後、夫と小説の話はしていません。