ドラマは「卒業式」の前後に
卒業式の記憶が、ない。
けれど、卒業式の少し前と後のことははっきりと覚えていたりする。
大学では卒業式に出席することさえできなかった。
僕が通っていた大学では卒業式にコスプレをするという奇習があり、ナウシカや王蟲やゴルゴ13や令和おじさんの格好をした卒業生と、その勇姿を見ようという人たちで講堂はあふれていた。
記憶の中にある高校最後の景色は卒業式ではなく、夕陽で真っ赤に染まった黒板だ。
還暦をすぎたベテラン教師がどこかの大学の過去問を解説していた。いつもなら眠くなるゆっくりした口調も、その日はBGMとして完璧だった。
窓の外に目をやると、オレンジと緑に塗られた各駅停車の「みかん列車」がゆっくりと走る。電車が見かっていく先、小さな山の向こうに見える海は夕陽を受けて金色の麦畑みたいに輝いていた。
何百回と見た景色だけれど、この日、はじめて美しいと思った。
この瞬間。まさにこの瞬間に僕は、学校のシーンがテレビに映ると「青春やねぇ」と呟くおじさんたちの仲間入りをしたのかもしれない。
卒業式もひとつの授業だとすれば、なにを学ぶ授業だと考えればいいだろうか。僕はそれを「いまの、ほんとの自分を知る授業」 だと思っている。そして「自分」がふいに顔をだすのは卒業式の中ではなく、その少し前だったり、後だったりするのではないか。
むかし、小さなドキュメンタリーを作りたくて、ある少年を追っていたことがある。その中で「卒業式」はひとつの山場のシーンだった。いや、山場のシーンだと勝手に思いこんでいた。
その卒業式の撮影に臨む僕にかけた先輩の言葉が、その後も現場で迷った時に思い出す言葉となっている。
「卒業式というイベントにとらわれるな。
その前後の彼の変化を見逃さないように。
きっと、その前後に彼にとっての卒業が見えるはずだから」
少年は卒業式の最中も終わったあともずっとケロっとしていた。
だけど、ひとりの少女を港から見送る時、最前列に立って誰よりも声を張り上げていた。彼にとって本当の卒業式はこっちだったのかもしれない。
「家に帰るまでが遠足」はわりと真理
何百年も語り継がれる物語には共通の「パターン」がある。その中のひとつに、どんな壮大な冒険譚も終わりには「家に帰る」というシーンが欠かさず準備されていると指摘したのは、神話学の大家ジョセフ・キャンベルだ。
仲間と出会い、試練に立ち向かい、苦難を超え、仲間と別れた旅路の終わり。その旅で主人公の変化がもっとも分かるのが「家に帰った時」だからだ。
マンガ「ONE PIECE」では、ルフィ達は世界のどこかにあると言われている「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を探しつづけている。
「ONE PIECE」において、秘宝にたどり着くシーンは卒業式だ。
そして、500円くらい賭けていいけれども、ワンピースを見つけたあと、主人公達はきっとそれぞれの家に帰るシーンがある。それぞれの目線で、「あの大航海とは何だったのか」を振り返るシーンがあるはずだ。
きっと、たくさんの読者が(僕も)「ONE PIECE」を全巻読み返すだろう。
弱いコイツが重要キャラになるんだよなぁとか、これがまさかエースとの別れになるとはなぁとか、こんなところにワンピースの正体のヒントがあったとは… と、シーンに「意味」づけしながら。
旅を終え家に帰る、そして旅を振り返る。
それによって「物語」はもっと豊かになる。
自分だけの小さな卒業式
ことし卒業するはずだった皆さんは、突如、卒業式がなくなってしまったことに戸惑っているし、ショックを受けていると思う。
それでも、大事なものは卒業式ではなくその前後、「もう終わってしまったんだ」「何かやり残したことはないだろうか」そんなことを考えながら過ごす日々の中にあると思う。
キャンベル理論に則って、自分だけの小さな卒業式をやってみるのはどうだろう。
あなたの中の学校でのもっとも古い記憶を思い出してみる。校門の桜かもしれないし、受験番号をみた体育館の壁かもしれないし、高くて手が届かなかった靴箱かもしれない。それは「学校生活」という旅の出発点で、いわば「家」だ。
その場所を訪れてみると、かつての自分にも出会えるかもしれない。今より少しだけ若い自分に会えたとしたら、一体どんなどんな言葉をかけるだろうか。
そこで紡ぎ出される言葉は、きっと今のあなたにとっても大事な言葉になるのではないか。それこそが、あなたが学んだもっとも大事なものが詰め込まれた言葉なのだから。
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