本好きの本あつめ。『日本における書籍蒐蔵の歴史』川瀬一馬
商業出版が始まった江戸以降、名家の蔵書がどんな風に保管され、まとめられてきたのかを知りたくて入手した本。川瀬先生がこの本を書くきっかけになったのは、大英図書館のアーネスト・サトウコレクションの調査だったとか。
ちなみに、大英図書館の古典籍資料はE・ケンペル、フォン・シーボルト、W・アストン、アーネスト・サトウなどが寄贈したものだそうです。アーネスト・サトウさんって、その名前から日系の方かと勘違いしそうなんですが、satowと綴るイギリスの方なんですよね。佐藤愛之助という日本名を持っていたとか。海外で働くアジア人がジェイとかアンジェラとか、その国の人が呼びやすい名前を持っているのと同じですね。
川瀬先生曰く、どんなすばらしい蔵書も持ち主がなくなった時点で散逸を免れないから、せめて目録でも作成しておかなければ、あっという間になくなってしまうとのこと。川瀬先生自身も有名な安田文庫に尽力された方で、このあたりの苦労は身にしみておられるのが辛いし、よくわかります。
というのも、私も以前、資料の目録作成のバイトである方の蔵書を整理したことがあるのですが、その方の蔵書はたまたま遺族が自治体に寄贈してくれて、しかもそこがかなり広い倉庫をもっていたから大きな木の茶箱や昔の木の箱のままでの保存が可能でした。ただ、そこの責任者の専門外の本ばかりだったので、10年以上未整理でした。
自分たちにわからないものに手を付けないというのはプロの対応です。でも、どんな施設でも人的資金的に限界がありますから。保存状態が悪ければ虫も食いますし、紙も劣化していきます。日常は気づきにくいですが、本はなまもので、しかもいつ在庫切れや絶版になるかもわかりません。
川瀬本は、奈良・平安時代の官庫や博士家のあり方に始まり、中世、近世の書籍のありようについて書かれています。以前読んだ『和本入門』は古書店店主の視点で書かれていたけれど、こちらは書誌学者の視点で書かれているので、また違った趣があります。
例えば、奈良時代から平安時代にかけて。国家をあげて律令格式を始め、漢籍を集めたけれど、数多く複写するわけではなく、大学の教科書など必要な数だけ写しとられました。その他の書物は官庫に1部所蔵する程度。誰でも自由に学べるわけではありませんでした。漢籍を学ぶ専門家は博士家だけ。それぞれが明経道や文章道など専門が違って、内容は秘伝。親から子供に伝えられたそうです。
清少納言は清原家。紫式部は藤原家で、それぞれの家学の中身が彼女らの仮名文学の作品内容を反映しているそうです。とはいえ、博士家でも娘に直接漢籍は教授しなかったそうです。超例外は高階成忠の娘の貴子(儀同三司の母)で漢学の素養があり、中宮定子に仕えたので『枕草子』にも描かれています。『うた恋い。』だと3巻にステキな貴子のエピソードがあります。
その他の娘たちは、直接教わっていないけれど、兄弟が親から教授されるのを耳で聞いて文を覚え、講義を聞いて意味を理解したのだとか。テキストを音読し、オウム返しに覚え、できがよくないと繰り返すのが当時の勉強方法。女の子たちはよく覚えたので、清少納言は耳学問の優等生だし、紫式部も同類の才女だったとか。各家の秘伝の学問が、彼女たちの作品に姿を変えて表現されているなんて、初めて知りました。
それから、人が亡くなるだけでなく、時代が変わると必要な書籍も変化します。江戸中期まで出版の中心は歴史ある京都や大阪でしたが、江戸中期以降、出版の中心は江戸に移りました。そして明治になると、和本の需要はだんだんなくなり、また大名たちがたくさんの本を手放し、古書が取引の中心になっていきます。
新しく政治の中心地になった東京は、和漢の古書・古文物の市場にもなり、蒐集するのにも便利になりました。そして、外交の仕事で日本にやってきた外国人の識者が収集家として登場しました。イギリス人のアーネスト・サトウや中国人の楊守敬なんかもその一人です。
楊守敬は、中国で失われた文物を集めて持ち帰り(逆に、日本になかった中国の金石関連のものを日本人に売って)、それらの古籍を北京の故宮博物院に納めました。それが、現在は蒋介石の敗戦とともに台湾に逃れ、現在は台北の故宮博物院にあるのだそうです。楊守敬のコレクションのもとは狩屋棭斎の旧蔵書が中心だそうで、森立之が持ち出し、琳楼閣というお店を経由したり、その後は森から直接購入したりしたことが日記からわかっているそうです。
こんなおもしろい蔵書の来歴や、本を集めた人たちの逸話に興味がある人は、ぜひ川瀬先生の本を手にとってみてください。以下、目次をあげておきます。