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自分史
雑多
何かしていないと落ち着かない性分
存在不安と言うらしい。
自分の人生を振り返りたくて、自分史というものを作ってみようと思う。
誕生
俺が誕生した。
九百十グラムというとてつもなく小さい存在だった。
心臓は一度止まった命、
そんなに奇跡的に生まれてしまった。
奇跡だったのになんで今はこんなにも消えたいかがわからない。
小さい時の記憶はないから、次に起こる事と言ったら解離性同一性障害(以下DID)を発症。
「雫」という女の子が一人目の交代人格? IF?として出来上がる。
幼稚園の頃の思い出なら、俺は家の蔵に一日放置された。
冬に変わりそうな寒さだった。
飯も飲み物もなく、遊べるものもないからただ暗闇のなかで震えて待つことしかできなかった。
横になることも嫌だったため、ずっと同じ場所で胡坐の姿勢でいた。
泣きつかれていた記憶が残っている。
雫ちゃんが出てきたのもこの頃?
次は小学校に上がる
入学式は両親共に参加していた。
両親の笑った顔が素敵だった。
自分はどうか知らない。
一年生の頃はほとんど記憶がない、みんな年を重ねるとこの頃の記憶は無くなるだろうから、しょうがない。
でも二年生に上がった時には、すぐ暴れる問題児扱いされていた、俺は何もしていないのに。
多分交代人格のせい??
誰かは未だにわかっていない。
二年生の夏ごろ、学校に行かなくなった。
理由は気分が乗らなかったから、今で言う鬱状態。
気力がなく、体も動かすことが辛かった。
親には「たった七年しか生きてないのに、ゴミみたいな人間になるな。」と殴られた。
ゴミ人間になる人生のレールが敷かれた音がした。
少したって、近くのフリースクールに通うことになった。
僕の母親は何か刺激があったら大爆発をする癇癪持ちだったので、普段は人当たりの良いいい人間だ。
フリースクールに通うことも、一歩を踏み出せて偉いと褒めてくれたし、褒められた俺も嬉しかった。
二年生の頃の生活は殆どフリースクールで過ごした、学校にきちんと通えてる姉と母親に比較されて罵倒されたことは何回かあったが、特に気にしてはなかった。
父親が寛大で出来た人間だったので、父親と一緒に喋ることも、一緒にゲームをすることも楽しかった。
母親が癇癪を起しても、ゆっくり優しく声をかけてくれていたため、俺は生活できていた。
フリースクールには、最大で十一人くらいは見たことがある。
古民家の一階と二階を使っていたので、まあまあ人が入るスクールだったのだろう。
同じ学年の子は少ししかいなかったけれど、五年生の子は多かった。
でもほぼ記憶はないかな、学校に行った記憶も少しはあるが、保健室に行って何かを話したことしか覚えていない。
三年生からも同じような生活だったが、フリースクールのほうに、新しい子がやってきた。
同じ学年の雄太って言う子で、柔道をやっているらしく、体が大きい子だった。
もう一人、那奈っていう女の子で、本をよく読んでいた。
スクールでの居場所が出来た俺は通うことが楽しくなってきた。
この頃は、パニック障害と躁鬱とDIDを抱える。
この症状が出たときも、雄太は一緒にいてくれたし、那奈も発作が収まったら本を読む誘いをしてくれたし、優しい子たちだった。
学校では、保健室と教務室に行っていた。
俺の元担任や教頭と喋ったりしていた。
ただ、この頃に俺は普通の人間のように生活することは叶わないと悟った。
半面、ただ人生を消化する毎日を過ごすのも嫌だとも思った。
狂いたかった。
家庭では、姉と父とCODをやっていた、みんな大好きBO2だ。
人生初のFPSを家族で迎えた。
中々ない経験だと思ってるよ、家族でBO2。
楽しかった。
四年生には、フリースクールが充実していた。
そして、人格が一気に増えた。
八人。
それぞれの名前もあるが伏せておく。
中々皆人間らしくてよかった。
主人格の僕を超えるくらい。
こういうこともあってこの頃から僕は人生を俯瞰することで辛さを減らせると気づいた。
三人称で、どういう選択をすれば相手が幸せか。
どうすると、理想の綺麗な自分が自分で見えるか。
考えて生きた。
スクールと学校でもまあ平凡な生活をしていた。
五、六年生はいろいろあった。
教務室で新しい教頭と話していたとき。
まず僕は教室に行きたくないから教務室に来てるし、フリースクールに通ってる。
と言った。
何故かと言われたので、普通の生活をしている奴と同じにしてほしくないからだと言った。
俺が来た時には先生と一緒でお茶か珈琲を出して、高そうなソファーに座らせて、話をしてくれと言った。
自己中心的な考えだがこの頃は本当にこれを望んでいた。
生徒として扱わないで先生と対等の扱いか、近所の子供と思ってくれ。
とも言った。
俺は特別な存在ありたいと願った。
自分は患者でありたいので金パブを三十錠ODした。
体が小さい俺だったため、ふらふらしている途中で倒れてしまった。
誰に発見されたかもわからず、気が付いたら病室だった。
胃洗浄も終わっていて、一日入院だけしたが消えたい気持ちは変わらなかった。
病室でODしたことに起こった母親に「あんたみたいな弱者いらなかったのに。」と言われた。
俺もなんで生きてしまっているんだと思った。
フリースクールでは雄太に恋心を抱いていた俺だったが、結局最後まで伝えられなかったが現在は幸せそうなので良かった。
那奈も優しいいい子で、本を愛していた愛読家だった、現在も文学を学んでいるらしく、大物になってくれと願っている。
家では姉が大学に実家を出たため、姉が使っていたPCでオーバーウォッチをし始めた。
中々楽しく、スカイプのグループでOWのランクを回し始めた。
最高マスター踏みで終われて楽しかったぜ。
いまでは殆ど繋がっている人はいないが楽しい思い出が出来てうれしかった。
音楽に縋ることが多くなった。
爆音で音を浴びることが快感で、その快感に酔って生きると人生に花が咲いた感覚になって、中毒になった。
六年生の冬頃から急激な躁状態が訪れる。
殆ど記憶がない、解離が激しくなっていた。
この頃は、生きることが楽しくて堪らなかったのかな?
中学生になる。
中学は皆勤賞だった。
学校内でも人格交代が頻繁に起こるので、メモは必須だった。
突発交代が多く、任意で出来るのは雫ともう一人の秋斗って子だけだった。
突発だと、人が変わったかのようになるので周りに友達はいなかった、唯一受け入れてくれた大人な二人がいたので、その子らと一緒にいた。
問題児の人格にも、柔軟に対応してくれたし、中での話も聞いてくれてうれしかった。
この頃は十二人くらい人格はいた気がする。
パニック障害も治ってはいなかったから、大きい行事の日には静かで人のいないところで一人で過ごしてた。
中三辺りから、芸術主義の思想が生まれてくる。
マイナーなものでも美しかったら、正義だし、
メジャーなものでも、汚かったら、悪だし。
でも汚くても美しく見えることもあるしと、自分の中で議論するのが好きだった。
吹奏楽もやっていたが、大会とかには出ずに一人で演奏することしかしていなかった。
三年の夏に初めて大会に出た、緊張はしなかった、気分が落ちていないとき以外は人から見られるのは大丈夫だったので、楽しくできた。
その大会では、支部大会金賞まで行ったので、三つの高校から部活推薦が俺のもとに届いた。
悩みはしたが、選曲が好きだった高校を選んで行った。
卒業の時、アルバムの裏に寄せ書きを書いてもらおうと、片思いだった男のもとへ行った。
書かれたのは、三年間ありがとう、ごめんな。と書かれていた。
同じ日、卒業おめでとう会のようなものを片思い相手から誘われた。
行ってみたら彼の仲いい野球部のメンツ」がいた。
最終的に言うと、俺は全員分奢ったのだ。
払わされたと言ったほうが正しいか、元から、「あいつは優しいからお願いしたら何でもやってくれるぞ。」
と言われていた俺。
しっかりと利用されて中学は終わった。
家に帰って、大金無くなったことを母親に嘘をついて報告した。
ゲームセンターで三万溶かしたと。
俺は近くにあったゲーム機で頭を殴られて頭を切った。
4針縫った。
中学の最後ではパニック障害は落ち着いていて、気分が落ちることも少なく。
すべての病気が治ったと思った。
高校に入って、彼氏ができた。
野球部の坊主くんだった。
俺がゲイなのを公表していたので、早いうちに告白された。
俺も、対面で同じ人と会うのは初めてだったのですぐ付き合った。
付き合っていくうちに相手が大人で、優しい性格をしていたので、付き合っていくことに不満はなかった。
結局大学進学の時に遠距離になるからと言って別れたがいい経験をした。
高校から部活動とゲームを両立してやっていた、始発から朝練に行って、夜の七時まで部活をやって、そこから深夜の一時頃までゲームの練習をして寝ての繰り返しをしていた。
高二の夏ごろ、APEXのアマチュア大会を優勝した。
この経験からプロリーグの一つ手前の大会に出た。
結果は惨敗だったが面白い経験をした。
ゲームの競技なんて知らなかったし、誘われたときは断るか悩んだけれど、やってよかったと今でも思う。
同じく高二の秋、部活で全国大会に行った。
パレードの大会だった。
結果は銀賞だったが、今までの努力も通じた気がして楽しかった。
高二の三月定期演奏会があった、その少し前から、親友だと思っていた四人の友達から嫌われた。
今でも四人は仲がいいらしい。
一年生の頃からずっと一緒にいたし、休みの日にはラインのグループ通話もしたし、偶然街で会って、運命じゃん!と思ったこともあったし、部活のメンバーとして、一番の相方達だと思っていたし、合宿のホテルもずっと同じだったし、夜中抜け出して街頭の点々とした道路を歩いた。
同じ夏を切磋琢磨して乗り越えてきた仲間だったし、悪いことだってした。
のに、俺だけは溢れている人間だったらしい。
ある日の部活の始まりにいつものようにふざけた挨拶をして、楽しい部活が始まると思っていたら、俺のことを避けて四人で固まって、「てかあいつおもんなくね。」と言われた。
聞こえる陰口を何度も言われた。
もちろん学校には行かなくなったし。
パニック障害だって躁鬱だって前よりひどい状態で戻ってきた。
俺が何をしたかも分からず、嫌われる。
やっぱゴミ人間には生きるのは向いていない。
人とも幸せになれない人間なんだと思って、閉じた生活をしていた。
学校も通信制高校に移動して、できるだけ外に出ない生活をした。
俺には音楽しかないと言ってる人に感銘を受けて、俺も同じ思考で、同じ事を言って何とか保っていた。
俺は作曲をしていた。
将来も、普通の人みたいに毎日出勤なんてしたくないと思った。
作曲しかなかった。
だけれども、体調も悪く、行動できる日なんて数える位しかなかった。
音大を受けた。
俺の才能を、本職の人は見透かしてくれると思っていた。
落ちました。
結局なんの才能もない俺は社会の隅で小さく生きていくことに決めた。
進路は姉が教員をやっているので、適当にそれに倣って決めた。
現在。
人生の華が来ています。
同じような境遇で生きてきた人もいるし、本当に助けられている。
自由に生きれると思ってきた。