基準神話「鳥の巣あさり」の分節分析 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(8)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試みの第8回目。
一連の記事はこちらでまとめて読むことができます。
もちろん、これまでの記事を続けて読まなくても、今回だけでもお楽しみいただけます。
(前回の記事(第7回)はこちら↓)
コンゴウインコとその巣
レヴィ=ストロース氏の『神話論理I 生のものと火を通したもの』の「序曲」につづき、いよいよ本論「主題と変奏」に入ってみよう。
本論はまず「I ボロロの歌」「a 鳥の巣あさりのアリア」という節から始まる。この冒頭に「コンゴウインコとその巣」という神話が登場する。
レヴィ=ストロース氏が広大な『神話論理』の世界の入り口においたのが「コンゴウインコとその巣」という神話である。
この神話をレヴィ=ストロース氏は「基準神話」と呼ぶ。
この神話との関係で、この神話からの”変奏”として、他の神話を分析していくことになる。
ちなみに、この神話が基準神話に選ばれたのはたまたまであり、この神話に他の神話には無い何か特別な本質や根源性があるわけではないという。
このことについての詳しい話は前の記事を参考にどうぞ。
「コンゴウインコとその巣」がどういう話なのか、あまり細かく引用するのは憚られるので、ぜひ細部は『神話論理I 生のものと火を通したもの』を直接手に取って読んでいただけると幸いである。
ちなみにどのあたりが”憚られる”かといえば、話の筋書きをざっと眺めてもらうだけでも、現代人の常識からするとケシカランとなるであろう要素が目白押しであることがお分かりいただけると思う。「コンゴウインコとその巣」は次のような場面から始まる。
冒頭からいきなりインセストタブーが侵犯され、父親が息子を殺害しようと画策する。”猿かに合戦”のようにマイルド化されていない、なんとも生々しい話である。
とんでもない話だと思うが、これこそ「明確に定義できる経験的区別」を「概念の道具」として思考することが「どのようにしておこなわれるか」を示そうと言うレヴィ=ストロース氏の目的にぴったりな話である(『神話論理I 生のものと火を通したもの』p.5)。
ここで重要なことは、父親/母親、母親/息子、父親/息子、男/女、年長者/若者といった「明確に定義できる経験的区別」を用いて、神話がその聞き手を、概念と概念の二項対立関係を分けつつ結びつけようとする深層の隠れた動きの方へと誘おうとしているということである。
これらの対立する二項は、過剰に接近して区別がつかないほど一体化してしまったり、過度に分離してもはやペアであることがわからなくなってしまったり、あるいは付かず離れずの位置で対立関係を安定させたりする。ある二項対立が付かず離れずに維持されるためには、もう一組の二項対立が必要であり、この二つの二項対立からなる四項関係を切り結ぶには、もう一つ別の四項関係が重なり合っている必要がある。
「息子!」
「母親!」
「父親!」
こういう言葉を前にすると、とりあえず”息子”とくれば然々であるべき、”母親”とくれば然々であるべき…、といった言い換えをして、息子の意味、母親の意味なるものを確定固定させようとしたくなるのが通常の思考のやり方である。
そこでは、個々の”項”を前にして、これらの項の置換先をどの項に固定しておくべきなのかを決めておくことが問題になる。
これに対して今、神話論理で問題になっているのはそういう言葉の意味をひとつに決定し客観化しようという話ではなく、神話の論理、言語的思考を可能にする八項関係からなる意味分節の対象構成単位の発生をそのまま言語化することなのである。いずれにせよ、私たち人類にあれはこれでこれはあれでという論理的な思考を可能にしている諸々の「項」たち、「概念」たちのの対立関係が、過度に分離したり、過度に結合したりしながら、付かず離れず=分かれつつ結びつく調和の状態へと収まっていく動きの動き方がどうなっているかということが、神話論理的には超大問題なのである。
□ ◇
ある項・概念の起源神話
神話論理でいうところの神話は、ある項の起源について、言語でもって語ろうとする活動である。この際、あらゆる項は、なんらかの本質とか”自性”をもって、それ自体として、他の項とは一切無関係に存在しているものではない。
ある項Aがその項Aであるのは、項Aが項非-Aと切り分けられるからである。(つまりAがAであるのは非Aではないという位置を占めるからである)。
そして、Aと非Aを切り分けつつ結びつけることができるのは、この二項対立関係が、別の二項対立関係とセットになって四項関係を成しているからである。
さらに、この四項関係はこれと45度ずれて重なり合う第二の四項関係によってーー第一の四項関係に対しては中間的・両義的・媒介的な位置を占める第二の四項関係によってーー付かず離れずに切り結ばれている。ちょうど下図のような具合である。
静的な分離と結合を、動的な分離と結合へ
「コンゴウインコとその巣」のつづきに戻ろう。
この神話の背景には母と子、父と子などなど、人類にとってありふれた日常の関係性を織りなす二項対立関係の両項は付かず離れずであるという考えがある。両項がはっきりと別々の項として分かれつつ、しかし分かれつつも繋がっていることができれば、人間の世界は安泰だよね(実際には難しいのだけれども)という話である。
しかし、インセストタブーを犯し、父親に殺されかけている主人公は、”母と子”の対立関係については過度に接近しすぎ付かず離れずの(分かれつつつながる)二項対立関係を破綻させているし、”父と子”の対立関係についても、殺されようとしているという点で過度に分離してしまい、こちらもまた二項対立関係を破綻させている。
両親と子供の関係を、仮に図に描くと次のようになる。
親 =( 父 =/= 母)
||
/
||
子
父と母は別々に異なりながらも一つに結合している。
また、親と子も、別々に異なりながらも結合している。
分離しながら結合し、結合しながら分離し、適度な距離=差異を保っているのが素朴なよくある夫婦親子関係である。
ところがこの神話では、この親/子、夫/婦という二つの対立関係の付かず離れずの絶妙なバランスが壊れる。まず母と息子が過剰に接近する。そしてこの母と息子の結合によって、息子が母の「夫」の位置に収まってしまう。つまり「父親」と「息子」が同じ位置に収まってしまうのである。
これにより父と息子の間にも区別できないほどの混同、あるいは一体化、過剰な結合が生じる。
主人公(子)→過度に接近←母
↓
過度に接近
↑
父
この過度な結合から一挙に反転して父と息子が過度に分離する。
父 < < 過度に分離 > > 息子
息子は、父により遠くへ旅立つように追い立てられる。物理的に距離を隔て、分離するのである。またその度は死に赴く道でもある。生と死の分離ほど、経験的に決定的な分離もない。
親子、夫婦の間での、過剰な結合からの過剰な分離への急転換。
ここから神話の論理が動き出す。
続きをみてみよう。
社会の表の常識から離脱してしまった主人公は、付かず離れずであるはずの日常の安定した対立関係にある二項を、過剰に近づけたり、過剰に引き離したりする”距離を変更するよう動かす力”を体現することになる。
ここで主人公は、対立する二つの項の間に通路を開くことができる中間的で媒介的な存在へと変身する。
人間/動物
対立する両極を媒介する者
その証拠に、主人公は動物の協力を得ることができるようになっている。
人間 >協力< 動物
私たちは通常であれば「ハチドリ」や「ハト」や「バッタ」のような動物たちに対して、何かをどこかから取ってくるように言葉で命令したり依頼したりすることはほぼできない。
しかし、この主人公はハチドリに助けを求め、手伝ってもらえる。
主人公は動物とコミュニケーションができる特別な人間になっている。
両義的で中間的な主人公は、「人間」と「動物」という、経験的に通常は異なりはっきりと分離している二者の間に通路を開くことができる。
生/死
対立する両極を媒介する
媒介的になった主人公は、さらに、生と死、地上の世界と水中の世界という、これまた通常はっきりと区別された二つの世界の間に「がらがら」の移動という事態を引き起こす。
◇
コンゴウインコとその巣の展開
ー両義的媒介項の発生
仮に先ほどの図1で、青丸で示した四項の対立関係を通常の世界の物事の分別を象徴するものと置けば、インセストタブーを犯し父親に命を狙われることで媒介的になった主人公は、橙色の四項関係の方の一項の位置を占めるように移動している、と言える。
この橙色の項は、青色の項の対立関係に対しては、対立する二つの青色項のどちらでもありつつどちらでもない中間的な位置を占める。
*
主人公の”父親”は、主人公を生に対する死の側に送ろうしたのであるが、すでに通常表層の二項対立の中間にシフトした主人公は生/死、水/陸の対立を超えて一方から他方へ自在に移動し、死の世界のものを生の世界へとやすやすと持ってくることさえ、できるようになっている。
この神話が面白いのは、水中=死の世界と生の世界との往来が「3回」反復されることである。主人公は三者の異なる協力者=空中を飛ぶことができる動物の力を借りて、三つの異なる「がらがら」を死の世界から生の世界へと移動させる。
主人公 - ハチドリ/アメリカシャコバト/バッタ
四つの媒介項=媒介者からなる、三組の媒介ペアがここに登場する。
のちに詳しく検討するが、媒介者もまた四項がセットでなければならない。
ところで、上のような図式を描いてしまうと、どの項をどの位置に配列したら綺麗に並ぶのか、といったことを考えたくなってしまうところであるが、そのような正しい置き場所を静的に固めようという配慮は、両義的な項たちについては必要がない。
なぜなら、ある二つの両義的な項たちは、互いに区別ができないほど一体化したかと思えば遠くに分離し、そうかと思えば分離した先でまた別の両義的な項と不可分にみえるほど密着し、そしてまた急に分離したりする。
両義的な媒介項たちは、区別ができないほど密着したかと思えば、ペアになっていることがわからないほど遠くへ遠ざかり、そしてまた急激に短絡を引き起こし密着するという分離と結合の脈動を生きている。
つまり図1に橙色で記した四項は、それぞれがあらかじめそれとして固まっている実体のようなものではなくて、一即四の分離と結合の脈動が描く波紋のパターンのようなものとして、そのひとつひとつの形を束の間示現する限りの事柄である。
このことを表現するために、以後の記事では、下記の図も用いていくことにする。ちなみにこの図は空海の『吽字義』を参考に描いたものである。
図2で表現したいのは、次のようなことである。
出来合いの固定的事物が後からついでのように綺麗に並べられる、というのではなくて、何もないところから、というかあるとかないとか言えるようになる以前のところで脈動する動きから、ある何かβ1とそれに対する非-何かβ2と、この二者のペアとペアになる別の何かβ3と非-何かβ4のペアが、その姿をゆらゆらと浮かび上がらせる。そこでは四つのβ項はそれぞれ他と区別され異なったものとして際立ちつつも、しかしどれがどれだかいまひとつはっきりと定まらない「不可得」なゆらぎのままでもある。
◇
水/陸の分離がダメなら、天/地の分離を利用しようと画策するも・・・
生に対する死の世界に送っても、この息子はすぐに戻ってきてしまう。
悔しさに地団駄を踏んだであろう父親は、今度は水/陸の対立ではなく、天/地の対立を利用して息子を排除すべく、高所に赴かせる。
ここで息子は地に対する天の方へと分離されたのだけれども、この天はただの天ではなく(つまり地と完全にはっきり分離された天ではなく)、岩山の中腹の鳥の巣である。岩山の中腹は、地上ではないが、しかし天でもない。そこは天/地の中間であり、息子はそこに宙吊りになるのである。
ちょうど前に、「がらがら」が水中にぶら下がっていたように。
生きた人間の世界を区切り出している”青”の四項関係を離れ、”橙色”の四項関係に入ってしまった”息子”は、またしても青の四項関係からみれば天/地のような対立の”中間”に宙吊りになる。
ここで父親の企ては一次的に成功したかに見えるが、しかし主人公はより高いところへ移動を開始する。
主人公は天地の中間のある一点に静止・停止することなく、中間領域を天の方へと、そしてのちに地の方へと、行ったり来たり、プラスとマイナス、それぞれの方向に順番に動き回る。
動いてこその中間性、媒介性である。
主人公の対立する両極の間で移動する、動く力はなかなかのものである。
主人公は岩山の頂上に登り、食べ物を得て、生き残ることに成功する。
岩山の頂上というのは地と天の中間であるが、より天に近いところであり、つまり”橙色”の四項関係の中にありながら、通常の”青”の四項関係のうちの一項により接近しているところである。この接近のせいで、二重の四項関係の重なりが、ぐにゃりと曲がり、いたるところで付かず離れずの関係がゆらぎ、つきすぎたり、はなれすぎたりするように動き始める。青の四項関係から見れば媒介的で中間的な位置に移動していた主人公は、ここへきてまた青の四項関係のうちの一項に場所を占めるべく、戻ろうと動き始めたのである。
以下、詳しく読み解いてみよう。
二重の四項関係
内側の四項関係から、外側の四項関係への移動
第二(図1では橙、図2ならβ)の四項関係から、第一の四項関係(図1なら青、図2ならΔ)への帰還は決して容易なことではない。これに成功するためには、両義的で中間的な「β」項同士のペアが、過剰に接近したり、過度に遠ざかったりしながら、やがて適度に分離しつつ適度に結合して止まることができるポジションを見つけなければならない。
トカゲ / 腐敗したトカゲ
まず、人間が食べることのできるトカゲと、人間が食べることのできない腐敗したトカゲの対立が前面に出てくる。人間が食べられるものと人間が食べられないもの、人間が生きられる世界をそうでない世界から分節するもっとも基本的な対立関係のひとつである。
トカゲ / 腐敗したトカゲ
||
人間が食べられるもの / 人間が食べられないもの
この二項対立は、”人間の世界”を”非-非-人間の世界”として”非-人間の世界”と分けて対立させ、この対立を固める強力な材料になる。
**
ここにコンドルが登場する。
コンドルは腐肉を食べることができるというところがポイントになる。
人間が食べられるもの / コンドルが食べられるもの
||
人間が食べられないもの
||
腐ったトカゲ・本人の尻
コンドルの登場により、同じトカゲの腐肉が、食べられないものから食べられるものへと転換する。「トカゲの腐肉」は食べられるわけでもないが、食べられないわけでもない、あいまいで中間的なものとなり、橙色のβ四項関係へとシフトされる。
*
そしてさらに、主人公自身(の尻の肉)が「コンドルが食べられるもの」の位置に置かれる。ただしここで主人公は「まるごと」コンドルに食われるわけではなく、半分に分けられる。食べられてしまった「尻」と、食べられていない身体の他の部分に、分かれる。
ここで橙ーβ項として、青-Δの四項関係に対しては両義的で中間的、対立する二Δ極のどちらでもあってどちらでもないような存在だった主人公が、二つに分離され、しかもその分離が確定される(再びくっつくことがない)。
主人公は橙のβ四項関係の中の項であることから、青のΔ四項関係の中の二つの項の位置へと分離しつつ移動していく!
*
主人公がまるごと全身食べられるのではなく、半分だけ食べられる、下半分というか、後ろ半分だけ食べられる、というのがポイントである。
青のΔ四項関係の一辺をなす二極に対して中間的な領域に移動している主人公を「半分食べる」ことによって、彼を半分に切り分ける(食べられた部分と、食べられなかった部分)。そうしてはっきりと二つに分かれた主人公の一方は、ふたたびΔ四項関係の中の一項の位置に戻ることができる。図1の橙色のβ四項関係の中で半分食べられることによって、Δ四項関係的には「二」になっていた主人公をΔ四項関係的な「一」に変換できる。
β樹上からΔ地上へ
主人公の”半分”を食ったコンドルは途端に協力的になり、わざわざ地上へ、天と対立する地へ、人間の世界へ、第一の四項関係が区切り出そうとしている人間の世界へと、主人公を届け返してくれる。
つまり第一の青の四項関係の一角に戻ってきたのである。
こうして主人公は人間の世界へ、物事が混じり合うことなくはっきりと固定的に分かれているように見える通常の経験的世界である青のΔ四項関係の一項へと帰還する。
もちろん、まだこれでめでたしということにはならない。
いったん、第二の四項関係の方に入ってしまった主人公が、再び第一の四項関係の一項として再生するには、もう少し工夫が必要になる。
地上に降りたばかりの主人公は、コンドルに食われたまま体に穴があいており、口から食べたものがそのまま体外に出てしまう「食べられない」体である。
両義的なβ四項関係から経験的なΔ四項関係へ戻るために、主人公は一度「半分」になり、分かれた二つのうちの「一」の位置に収まる必要があったのだが、2でなければならないβ項でありながら、二つに分けられ1になった主人公が、そのままΔの四項関係に入ってくると、今度は1/2=0.5)になってしまう。
いざ人間の地上へと帰ってきたからには、半分のままではまずい。
彼は”人工の尻”をこしらえ、欠けたところを塞ぎ、Δの四項関係の世界の「一」となり(この「一」は橙β四項関係では、”人工にして自然”=”人工でもなく自然でもない”という点で「二」である)、晴れてもとの村へと生還する。
尻だけ喰われて二つに分かれ、その欠けたところを別のもので塞ぐ。
なんとも面倒というか、樹上からの帰還という本筋からすれば必要のないエピソードのように思えなくもないこのくだりこそ、分離と結合のあいだで脈動する橙β四項関係と、そこから静的安定的に切り分けられ配置されたΔ四項関係、二重の四項関係の一方から他方への変換、あるいは次元の縮減のようなことを意識させようとしているのである。
人間の村へ
こうして大変な試練を経た主人公は、私たちの経験的な世界、経験的にあれこれの事物がはっきりと分かれ綺麗に配列されている世界の建立へと進む。
村が(主人公が最初にそこにいた村が)無人になっているというのがポイントである。神話の冒頭で登場した、主人公とその両親や祖母達がくらす村は存在しない。
*
ここでは「もともとあった村が、なくなっていた」という話になっているが、実はもともと村などなかった、という言い方が的確かもしれない。
つまり、この神話を語り聞く後世の人間たちが慣れ親しんだ経験的な村の世界というものは、この神話の時代には、まだ全く存在していない。というよりも、この神話の主人公達の活躍によって、初めて、後世の人間たちが暮らしている世界が作り出された(あるいは区切り出された)のである。
神話の主人公達の活躍によってそれとして区切り出される前に、人間が生きることのできる世界と非-人間が生きることができる世界(つまり人間が生きることのできない世界)は、どちらも存在していなかったのである。
そうは言っても神話が経験的な対立関係を織りなす言葉たちでもって語られる以上、「なんとも言えない領域で、なんとも言えない者達が付かず離れずに脈動して・・」と抽象的なことは言っていられない。
仕方なく、父親と息子とか、母親と息子とか、経験的な世界の秩序に”も”登場するペアが、借り出されてくる。神話は、経験的世界の区別をいわば流用して(レヴィ=ストロース氏の用語でブリコラージュといっても良いかもしれない)、互いに区別される物事があらかじめそれとして存在するのではないところから分節してくる動きを描き出そうとする。
上の引用を詳しく見てみよう。
新たな青のΔ四項関係を切り分ける、主人公はまずトカゲの姿で回帰する。トカゲといえば、橙色の四項関係にあって「食べるもの」としての彼が「食べたもの」であると同時に、同時に彼の”半分”がコンドルによってそれと混同されたところのものでもある。
青のΔ四項関係を自在に切り結ぶ力を身につけた主人公は、この時点でいまだ、橙色のβ四項関係の一角を占める項としての自在な姿をしている。
*
この主人公がトカゲの姿を脱ぎ捨て、人間に戻り、いよいよ祖母と兄弟に再会する。その夜、世界には激しい雨が降る。
闇夜の黒牛というように、雨の夜はまっくらで、眼に見えるものたちのあいだの区別分別がはっきりしなくなる。しかもそこに豪雨とくる。天から落ちてきた水で地上が満たされる。天にいるのか、地上にいるのか、水中にいるのか、よくわからなくなる。
そうして分別、区別、分節があいまいになる”雨の夜”の時空を経て、水没した村と、唯一残った祖母の火、つまり水と火の二項対立がきらきらとゆらめくのである。
水と火が区別されていること。
それは「生のもの」と「火を通したもの」の区別の始まりでもあり、調理して食べる人間と調理しないで食べる動物との区別の始まりであり、すなわち、人間が生きる世界のまさに始まりである!!
*
この火を求めて、人々が集まってくる。火をともし、人間の世界を新たに作り出し始める。
ようやくめでたしめでたし、という感じであるが、そう簡単には話は終わらない。
最初に主人公を殺そうとした、例の父親も元気に戻ってきたのである!
おもしろいことに父親は”なにごともなかったように”息子の帰還を歓迎する。
しかし、息子の方は殺されそうになったことをよく覚えていて、復讐をする。
ここにはなんというか「許す/許さない」「忘却/記憶」といった対立が見え隠れする。
主人公はこの父親を狩に誘き出す。
狩とは「狩猟者としての人間」と「 獲物となる動物」の対立関係、狩る、狩られるの対立関係である。
狩猟者としての人間 / 獲物となる動物(この場合、鹿)
狩る/狩られる
またまたおもしろいことに、主人公は父親を、最初「狩猟者」としてこの狩の場に招待するわけである。
そして自分はといえば「鹿」に、つまり「獲物となる動物」に変身する。
そうして獲物となる動物=鹿の姿で、狩猟者としての人間である父を”狩る”。
ここで父親は狩る側から狩られる側へ、狩猟者の側から獲物の側に、対立する極に移動し、主人公は逆に獲物の側から狩猟者の側へと移動する。
ここで”うつつ”の世界を分節するもっとも基本的な二項対立のひとつである生と死も、二つに分かれ、それぞれ互いに他方では無い限りでの一方として姿を表す。
*
さらに、狩られた父親はわざわさ水中に突き落とされる。
最初に登場した地上の生の世界に対立する、水中の死の世界である。
主人公は、祖母やハチドリの助けを借りて、この水中の死の世界から戻ってきたわけであるが、父親はそうはいかない。
父親の体は、水中と水面に、異界と人界に、骸骨と肺に、重いものと軽いものに、二つに分かれる。
水中 / 水面
死の世界 / 生の世界
骸骨 / 肺
こうして、人間の世界とそうでない世界とが、はっきり分かれつつ隣り合って繋がり合うという関係が設定される。
晴れて、青のΔ四項関係が立ち上がるのである。
鳥の巣あさりの八項関係
長くなったので、一旦ここで締めくくりとして「コンゴウインコとその巣」の二重の四項関係を図にしてみよう。
以前、さるかに合戦について書いた時には、青の四項関係の方を「人間の世界を分節する四項関係」と呼び、橙色の四項関係の方を「柿の木の四項関係」と呼んだ。
(猿かに合戦についての分析は下記に書いてあります)
柿の木は、鳥の巣あさりの主人公を宙吊りにした岩山とそっくりである。しかしそれでは鳥の巣あさりの主人公は、猿かに合戦の「樹上の猿」と同じかといえば、どうもそうではなく、猿と対立する子がにの方とやっていることがそっくりである。
ここで注意していただきたいことは、二重の四項関係=八項関係というのは、これを書いている”わたし”の気ままな”読み”であり、レヴィ=ストロース氏がそのような用語を使って書いているわけではない。
八項関係というのは、弘法大師空海の「吽字義」に着想を得た、ひとつの読みのための補助線の束である。
小括
神話が明かしているのは、人類が自分たちの世界の意味(その起源や、由来や、存在理由)について問い、答え、語るときに、その語りを可能にしている基本的な分節が隠れているということである。
その分節とはすなわち、容易に直接思考できるものとしては二項関係、次にこの二項関係がその中で切り結ばれている四項関係、さらにその四項関係を切り結んでいる第二の四項関係と、二重の四項関係としての八項関係である。
この分節が、いったいどのようになっているのか、特に、あれこれの思考の対象となる項たちが、他のどの項と対立関係に置かれ、近づきすぎたり、遠ざかりすぎたり、つかずはなれずに落ち着いたり、あるいは両義的媒介項の位置を占めるのか、その様子を一端を明るみに出すのが神話の語りである。
◇
今回取り上げた「コンゴウインコとその巣」は、南米の先住民、ボロロ族の人々が語ったものを人類学者が記録したものであるが、ひるがえって、今日の私たちがいま自分たちの生きるこの現実の意味について語ろうとする時、はたしてどういう二項関係に、四項関係に、八項関係に、いったいどのような項たちを配置しているのだろうか?
「私とは何か?」
「私が存在する意味とは?」
「生きる意味とは?/死の意味とは?」
例えばこのような問いを問おうという時、私たちはこれに答える言葉たちの一直線の配列をなす項たちを、どのような四項関係の連鎖の中から選び出してくることができるだろうか。
こうしたことを考える上で、空海の『秘密曼荼羅十住心論』などは、圧倒的な手がかりになると思うのであるが、いかがだろうか。
絶対無分節の自己分節の、分かれつつつながる動きの、その影の観察・記述を可能にする。そのための分節システムである言語。
言語の線上に自己分節する絶対無分節の影を浮かび上がらせる。
それ自体”絶対無分節の自己分節”の影の一つである”言葉”の配列へ
それ自体は言葉をもたない無分節の分節を置き換える。
このとき、第一の影と第二の影は互いに互いの影である。
そこでは一もニも、原因も結果も、始まりも終わりも無になる。
つづく
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