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『ほんのささやかなこと』 クレア・キーガン (著), 鴻巣 友季子 (翻訳) 中篇というか、ほぼ短篇なのだけれど、「ブッカー賞候補史上最も小さな本の一つ」として愛されているの納得の傑作。アイルランドにおけるキリスト教と社会と倫理についていろいろ考えさせられました。
『ほんのささやかなこと』
単行本 – 2024/10/23
クレア・キーガン (著), 鴻巣 友季子 (翻訳)
Amazon内容紹介
1985年、アイルランドの小さな町。寒さが厳しくなり石炭の販売に忙しいビル・ファーロングは、町が見て見ぬふりをしていた女子修道院の〝秘密″を目撃し――優しく静謐な文体で多くの読者に愛される現代アイルランド文学の旗手が贈る、史実に基づいた傑作中篇
本の帯 表
1985年、アイルランド。町の教会の秘密を知った男が選ぶのは、沈黙か行動か。
ニューヨーク・タイムズ紙「21世紀の100冊」に選出!
いまもっとも愛される現代アイルランド文学の旗手が贈る、事実に基づく傑作中篇
キリアン・マーフィー主演映画原作
ここから僕の感想
まず、ちょっとだけ鴻巣友季子さんによる「訳者あとがき」を引用する。
原作で百二十ページほどのノヴェラ(中篇)だが、ジョージ・オーウェルの「政治的著作を芸術にまで昇華させる」という志に基づくイギリスのオーウェル政治小説賞を受賞し、ブッカー賞の最終候補となって、「ブッカー賞候補史上最も小さな本の一つ」として愛されている。
そう、この小説の本当にすごいところは、まさにここで書かれている通り、「政治的著作を芸術にまで昇華させた」、それを「百二十ページのノヴェラ(中篇)」で成し遂げた、という点になのである。
中篇といっても、短篇小説に近い。長さだけでなく、小説の作り、技法が短篇小説に近い。短篇小説の持つ鮮やかさと、すべてを語りきらない、という技法が。著者は短篇の名手として世の中に出たのだそうだ。納得である。
それにしてもアイルランドという国の、優れた小説、小説家を次々に生み出す土壌というのは世界の奇跡だと思う。短篇の名手ウィリアム・トレヴァーをここのところ読み続けているけれど、この小説の短篇としての完璧さ、読後感、余韻というのは、トレヴァー小説の傑作に比肩しうる。
著氏自身の書いたあとがき「読者のみなさんへ」の冒頭で
これはフィクションであり、特定の個人に基づいたものではない。
とある通りで、この小説、本の帯には「事実に基づく」とあるけれど、ここで語られた主人公のエピソード自体が事実なのではない。そういう意味の「事実に基づく」ではなくて、アイルランドで国家国民全体に衝撃を与えた、教会・修道会の起こした、ものすごく大きな女性への虐待・何百人、何千人の赤ん坊の死が隠蔽されていた「マグダレン洗濯所事件」(いまだ補償問題など解決しきったわけではないと鴻巣さん解説にある)、教会とその関係組織か起こした極めて長期間にわたる歴史的大事件が明らかになるその端緒を、ごく平凡な主人公のドラマとして作り出した、そういう小説なのだな。
それだけのスケールの大きな事件を、大長編小説として書くのではなく、不幸な生い立ちではあるが今は五人の娘を持ち、人を雇うくらいの規模で石炭商店を営む、そういう幸せな家庭ときちんとした仕事を持つ、ささやかな幸せをつかんだ一人の男性の、ある(1985年、主人公は40歳、現代の話である)クリスマスの時期を描く、見事な短篇小説として仕上げ、強烈な印象と余韻を残す作品にしたのである。
また、このことを、犯罪をした組織の悪を告発する「政治的小説」というよりは、この主人公男性の「内的心理と行動、倫理的決断、選択」のドラマとして描いている。大きな社会や政治の問題を、一人の個人の体験と心理と行動のドラマとして描くという、それこそが文学、小説の精髄とでもいうものである。この小説の素晴らしさはそこにあるのだな。
で、あとは「読んでね。必読、素晴らしいよ」で感想を終えてもいいのだけれど、もうちょっと書きたいことがある。ここからはかなり脱線長話になるので、それはいいや、という方はここで「よし、読もう」でいいと思います。
僕にとっては宗教的小説に読めた。それはアイルランドの小説を理解するためには、ちょっと特殊な知識が必要だなあ、とも思った。「宗教と地域社会と個人が、日本人には想像がつかないくらい深く不可分に結びついたアイルランドの田舎町」ということが分からないと、この主人公の決断の重さというのが、本当のところ分からないのではないかなあ、と思ったのである。
というのはどういうことか、ちょっと回り道をするけれど、つらつら説明していきたいと思う。
ここから以下はネタバレ盛大になります。
POINT1 アイルランドの地域社会とキリスト教、教会。
まず、アイルランド小説をこれまでいろいろ読んできての、アイルランドの地域社会と宗教、そのかなり特殊で複雑な感じ、というのを書いていきたい。もちろん僕にはアイルランド人の知り合いもいないし、旅行で行ったことも無い、あくまで小説で知ったアイルランド社会についての知識を語ります。
そのことがもういちばん強烈に出ているのは、これは北アイルランドのベルファストの話だから、共和国の田舎町とは違うだろう、とはいえ、『ミルクマン』のことに触れざるを得ない。
ベルファストだと、カトリックとプロテスタント(国教会派)が、宗教対立と政治対立が一体化して、しかも狭い町の一本の通りを挟んであっちとこっちで対立しているわけで、それが暴力対立にすぐ発展するような状況が長く続いたから、その感じがいちばん色濃く出ているのである。一方こっちの『ほんのささやかなこと』はアイルランド共和国の南東のはじっこの田舎の港町が舞台だから、そんなふうにカトリックとプロテスタントの対立がはない、と書かれてはいる。でも、教会、修道院が街唯一の女子高を持っていて、五人の娘を女子高に通わせたい主人公(上2人はもう通っている)、教会、修道院と良好な関係は絶対維持しないといけない。娘たちの何人かは教会の聖歌隊のメンバーでもある。
あと、「男性の社会」と「女性の社会」が非常にはっきり分かれていることが『ミルクマン』でも語られるが、そのことはこの小説でも強く感じられる。
地域社会が教会、宗教を通しての「町内会と互助会と教会が一体で濃厚」みたいな、そんな感じである。その中で、男の人たちは仕事と酒場とで男の交友関係を重視し、女性たちは女性同士のものすごく親密と言うか昔の日本の味噌醤油を隣に貸し借りするみたいな、ああいう付き合いをする。そんな表面男尊女卑、しかしかかあ天下で女性たちが怖い。女性は心の中では「男は酒ばかり飲んだり、政治的な議論をしたりするけれど、教会と女性のネットワークがこのアイルランドの生活を支えているということが全然分かっていない。男なんてそういう子供じみたおばかさんである」というような、そんな雰囲気がある。
こういう「宗教と教会と男社会と女社会」みたいな雰囲気というのがアイルランドには色濃くある。そういうことはこの小説でもとてもうまく描かれているけれど、そのことを意識して読むか読まないかで、ラストに向けての緊迫感の理解は違ってくると思う。
というわけで、こういう「地域社会生活とキリスト教」というのがアイルランドですごく色濃い、ということが、この小説理解のひとつの大きなポイントである。「地域社会とキリスト教の異常に深い結びつき」これ、まず押さえておこう。
POINT2 キリスト教はどういう生き方を人に要求するか
もうひとつは、キリスト教というのは、倫理的に人にどういう生き方を求めるものか。という、別の側面の宗教的な話をする。
鴻巣さんは解説で『クリスマスキャロル』と『若草物語』について触れている。『クリスマスキャロル』は、クリスマスを舞台に、キリスト教的な倫理観に主人公が直面する、という意味で、この小説とテーマ自体に近親性があるという意味で言及しており、『若草物語』は娘がたくさんの家庭の話、ということなのだが、『若草物語』にもクリスマスの印象的エピソードがあり、これもこの小説の扱うテーマとすごく関係が深い。もしかすると、『クリスマスキャロル』よりも近いのではないか。僕はそんなことを思ったのだな。そのことを説明していこうと思う。
といっても実は僕、『若草物語』を読んでいない。この前、映画「オッペンハイマー」を見て、フローレンス・ビューにやられて、続けて「ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語」を見て初めて知ったのだが。だからここでいう「若草物語」は映画を観ての映画の話。ごめんなさいね。
父親(牧師)が南北戦争に行ってしまって苦しい生活をしている母親と主人公四姉妹、苦しい生活とはいえ中流の生活は維持できていて、クリスマスの朝に、テーブルにはそれなりに御馳走の朝食が並んでいる。いつもご馳走を食べるほどの余裕は全然無いのだが、クリスマスの日にはご馳走を準備するくらいの余裕はなんとかある。ここがポイントなのだな。(そのお料理もしてくれる家政婦さんがいるくらいの生活である。)
そこに母親が帰ってきて、お隣(といっても郊外だからちょっと離れた森の中のお隣さん)のなんとかさん、若いお母さんと赤ちゃん幼児がたくさん、夫はここも南北戦争に出ているのか不在。幼児も赤ちゃんも食べるものがなくて大変なの。ねえ、この朝食をなんとかさんへのクリスマスのプレゼントとして持って行かない?とお母さんは言うのだな。
普段はおとうさんもいないし質素に我慢していて、今日はやっとクリスマス。朝からご馳走がテーブルにならんでいる。わーい、と思っていた四姉妹だが、母親はキリスト教的に敬虔な人、なのか倫理的で親切な人なのか、その両方なんだと思うが、お母さんがそういう人なのは娘たちも分かっている。娘たち、はじめは一瞬、不満そうな、えー、という顔をするが、朝食のごちそうをバスケットにつめこんで、森の中をみんなでお隣さんの家に持っていく。というエピソードがあるのだな。(それを窓から見ていた、こっちは大金持ちの別のお隣さんが、さらにすごいご馳走を主人公の家に届ける、というオチがついて、そこからお金持ちお隣さんとのおつきあいが深まって、ドラマは展開していくのである。)
これが、キリスト教とどう関係して、この小説とどう関係するのか、説明していく。
僕はクリスチャンではないけれど、キリスト教についてはいろいろと長く考えたり学んだりしてきた。その結果としての、僕のキリスト教というものの理解をここでまとめておこうと思う。
世界観とか救済の道筋段取り(つまりは死生観)とかそういうことを僕は主に考え勉強してきたのだが、それが信者にどういう生き方を要求するか、という点についてはあんまり深く考えていないのだが、この小説のテーマはそこに関係してくるので、ちょっと言語化してみようと思う。
キリスト教の救済の本質からくる信者に要求される生き方というのはこういうことなんじゃあないかと僕は思っている。順を追って説明する。
キリストばどのようにして人類の「救い主」になったかというと。
人間はアダムとイブがエデンの園を追放される原因となった「原罪」(神様にダメと言われてたのに知恵の実、林檎を食べた、とか、セックスした、とか、サタンの誘惑に負けたとか、まあそういういろいろ)を背負っているのだな。アダムとイブの子孫たる人類みんな、生まれながらに原罪を負った罪びとなのである。
ところがイエスキリストは「神の子」だから、原罪が無い、きれいな存在なんだな。
そのイエスキリストが、自分は原罪を負っていないのに、自己犠牲で自ら十字架にかかって死ぬことで、人類すべての罪を救う。清めてくれるのだ。
キリストを信じるものは、キリストが原罪を清めてくれたから、救われるわけだな。
でね、宗派によって教えは色々なんだろうけど、単に「イエスを信じます」って言うだけじゃなくて、信者はそのイエスキリストの自己犠牲の愛、というのを生きていく中で自分も実践することが求められるのだな。
「汝の隣人を愛せ」というのはそういう「自己犠牲を含んだ愛」ということなんだ。単に「隣の人と仲良く」とか「隣の人大好き」とか「隣の人かわいがる」とか言うことではなく、イエスキリストが自分の命を捨ててまで人類を愛してくれたように、汝の隣人を愛しなさい。
いや、出来んて。そんなこと。と思うので、僕はキリスト教信者ではないわけだが。
命を捨てるなんて言うのは普通出来ないわけだが、どれくらいだと「自己犠牲的な隣人愛なのよ」っていうのは、これはまあ、その人の状況と、気持ちによるわけで、基準というのは、無いわけだ。無いけれど、神様の前で、イエス様の前で、どうなのか、と自問自答しながら、自分の行為を選んでいくわけだな、キリスト教徒たるものは。
聖書のいろんな物語、エピソードっていうのは、そのことを問うもの、問われる状況がいろいろ出てくるわけだな。お前の息子の命を差し出せ、とかさ。そんなの無理やん、ていうようなことを突き付けられたりするわけだ。
でね、若草物語のエピソード、そこが絶妙でしょ。すごく豊か、金持ちではない。でもお父さんは南北戦争にいっちゃってるし、贅沢はできない。クリスマスだから、ご馳走を作る。四姉妹、楽しみにしている。
それを、お隣の貧乏食べ物のない若いお母さんと幼い子供たちに上げちゃえるか。ということが突き付けられるわけ。
うちも子だくさん六人の子どもを育てたからよく分かるのだが、お金をどんなに稼いでも、六人子供がいると、いつもお金がない。生活にゆとりはない。
で、クリスマス、六人にそれぞれが「欲しい」というプレゼントを買ってあげようとすると、すごくお金がかかる。
それに加えて、クリスマスのごちそうを作り、日本の場合だと同じ時期に続いておせち料理とお年玉という大出費も「同じ財布」から出さなければならない。これね、想像を絶するものになるの。
それでも「自分の子どもには、年がら年中ぜいたくはさせられなくても、クリスマスとお正月は子供の希望通りのプレゼントとお年玉金額、あげたいな」と親は思う。ごちそうも食べさせてあげたいな、と親は思う。
その時期に、「困っている他人、隣人」を助ける、というのは、家族・子供の分が減るということだからね。お金も気持ちも。それ、ふつうだとすごく葛藤があると思う。
だから、若草物語のお母さんも、「お隣さんに朝ご飯をプレゼントしましょう」と娘たちに言う前に、すごく葛藤する表情の名演技があるのだな、映画では。
『クリスマスキャロル』の強欲で孤独なスクルージが、というほうが、むしろ状況としてはシンプルで悩みは無いじゃん、と思うのだな。スクルージは利己的で強欲でも、自分だけなわけだから。それが改心していくというのは、シンプルじゃん。
それよりも、「普段は贅沢させられない家族、娘たちに」と準備していたものを、娘たちにも犠牲的愛、決断に参加してよ、と言おう、という若草物語のお母さんの決断の方がみていて、心が苦しくなるのだな。
この小説のラストに至る経過というのは、生い立ちでいえばすごく貧しい苦しい境遇なのだけれど、今は五人の娘を地域唯一の名門女子高(教会経営)に通わせられるようなところまで商売を育てて、日々の暮らしはゆとりは全然無いけれど、それでもなんとか幸せはつかんだかな、という主人公が、なのよ。
まさに娘たちひとりひとりにクリスマスのプレゼントを選び、妻と娘たちはクリスマスのごちそうやケーキを作り、
そういう時期に、主人公は、「家族や娘ではない、困った他人の存在を知ってしまう」という状況になっていくわけだな。
だから、これ、「キリスト教の隣人を愛せよということ、どれだけの自己犠牲(自分の家族や子供ではない、他人としての隣人を愛せるか)」ということを迫る状況に、「もう、気持ちわかるー、こまるー、どうするー」というところに、主人公を連れて行くのだな、この作者。
POINT2は、クリスマス時期だからこそ際立つ「キリスト教的、自己犠牲(家族の犠牲)を含む隣人愛」というものの重さなのでした。
POINT1+POINT2で、何が起きるのか。
アイルランドではキリスト教、教会が生活の隅々までものすごく鬱陶しいほど深く、入り込んでいる。その地域と教会の絡み合いの中で人は生きている。そして女の人は特にその中で生きている。
クリスマスの時期、子だくさんの家庭では、普段はできなくても、子どもたちの希望をかなえてあげたい、という気持ちが強くなる。その一方でキリストの「自己犠牲を含む隣人愛」を意識する時期でもある。
そんな時期に、教会、修道院(妻と娘たちがその濃密なネットワークの中で逃れようもなく、生きている、これからも生きて行かなければいけない)が、何かすごくいけないことをしているということに気づいてしまった。
自分が助けてあげられる困った人がそこにいる。でもそういうことをすると、それは教会、修道院との関係を壊す。そもそもクリスマスに、年一回、余裕もない中で、家族、娘たちのためにささやかな幸せを分かち合おうという時期に、その日に、娘や妻を犠牲にするようなことをしていいのか。
このラストに向かう激しい葛藤の切実さというのは、アイルランドとキリスト教、教会と地域社会、そして自己犠牲と隣人愛、それを内的倫理的問題として、行動として実行することを要求するキリスト教、このあたりの理解があるとないとで、読みの深さが違ってくると思うのだよな。
僕の人生に「自己犠牲の隣人愛」はまるでなかった
僕は、僕個人の人生は、すべて自分の子ども優先、自分の家族優先、隣人とは付き合わない、まわりに困った人がいても知らん顔。そういう風に生きてきた。キリスト教徒じゃないし。
そのことに今まではあんまり疑問は抱かずに生きてきたのだけれど、こういう小説を読むと、若草物語の映画から、この小説という最近の流れの中で、クリスマスシーズンを迎えようとすると、なんか、ほんとによかったのかな、と思わないでもない。
そういうことも、もやーんといつまでも考えさせる小説でした。短篇なのに、重たいんだから。
翻訳出版企画を持ち込んでくさった鴻巣友季子さん、に感謝とお願い
訳者あとがきに「私が企画を持ちこんだこの小さな小説の翻訳出版を実現してくださった早川書房の編集部と担当の茅野ららさん」への謝辞が書かれている。私としては、この本の翻訳出版を企画して持ち込んでくれた鴻巣さんに、感謝である。
であるのだが、鴻巣氏、翻訳者としてあまりに大活躍、文芸評論家としても多方面にご活躍でお忙しいのであろう。クッツェーの『イエスの死』、なかなかでないのを私、待ち焦がれているのである。鴻巣先生。あちらもよろしくお願いします、という念を込めて、感想文、おしまい。