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【失感情症】リハビリの安易なやりすぎには注意すべし、という話。

私は若干……いや、そこそこ『失感情症』の傾向がある。なので現在、自己流ながら「自分の感情を気をつけて認識する」リハビリに励んでいる。


土曜日のことだ。小4息子の夜尿症(要はオネショ問題である。この件はまた別の記事に書きたい)の薬を受け取るため、私は宿題が終わらない息子を置いて一人で小児科に行き、続けて薬局に行った。
薬の順番待ちの間、私の目の前の座席には、二組の親子の姿があった。

片方は、1歳半ぐらいと思われる女の子を抱いたママさん。
もう片方は、いかにも「2か月児以下です!」というサイズ感の、首も座らない小さな小さな赤ちゃんを抱いたパパさん。

私はしばらく、私をチラチラ見てくる1歳半の女の子(推定)に向かって、マスクから出ている範囲で可能な変顔の考案と実践を行っていた。が、間もなく観客に飽きられてしまい(当然だ)、更には女の子が眠ってしまったようだったので、隣のパパさんが抱く「2か月以下っぽい赤ちゃん」の方に視線を移した。赤ちゃんは泣くでもなく、ただスヤスヤと、パパさんに抱かれて眠っているようだった。
こんなに小さな赤ちゃんを、外で見ることは珍しい。

やー、手とか超ちっちゃいなぁ。
そんな風に思いながら眺めている内、私は強烈な「切なさ」に囚われた。

赤ちゃんから、目が離せない。
だが、物凄く「切ない」。そして「辛い」。
隣の1歳半女児を見ている時には感じなかったネガティブな感情が、ホースに穴が開いたかのように湧き出してくる。

これは何の感情だろう。「切ない」「辛い」、他には……?

パパさんに不審に思われないよう、自然な目線の角度を探りながら、私は噴き出す感情の分析をしようと試みた。

「悲しい」、ではなさそうだ。「罪悪感」が近いか?かなりの大きさの「怖い」がある、だが私はネガティブな感情の大半を「怖い」に変換してしまう癖があるから、「怖い」はあまり当てにならない。
どう怖いのだろう。泣かれるのが怖い……訳ではないな、泣く姿や音声を想像しても変化がない。こんな自力で動けないサイズの赤ちゃんには、危害を加えられる恐れも皆無だ。
でも「触れたら壊しそうで怖い」のとは違う、「自分の存在が脅かされる」感覚がある。息子が新生児だった頃に持っていた感情だろうか。でもそれだけではない。胸がぎゅっと締めつけられるような、何かに貫かれるような「切なさ」、この正体は何だろう?

赤ちゃんを見たいのか、見たくないのか。それさえも分からない感情に名前を付けようと、私はしばらく赤ちゃんを見つめながら考えていた。
大きな槍が刺さっているようなその感触を辿って、「嫌悪」じゃないし、「寂しい」でもないし、「恨み」でもないし、と取捨選択を繰り返す。

心拍数が上がってきているのが分かった。でも、「怒り」ではない。
頭の芯が痺れたような感触。だが、「喪失感」でもない。
視野が狭まってきている気がする。しかし「恐怖」で終わりにしたくない。
西遊記の方の孫悟空のアレのように、頭の外側に嵌められた輪っかが少しずつ締まってくるような「苦しさ」。でも頭痛と呼ぶほど痛くはないし。
呼吸が浅く、早くなってきて――

あ。やべ。
過呼吸を起こす、2、3歩手前だこれ。

十数年前、SEを退職する直前の時期に頻発していた過呼吸発作が、久々に顔を出してきている――と気付いた私は慌てて思考を中断し、赤ちゃんに吸い寄せられていた目を閉じて、マスクの中で独自の「過呼吸発作対応」ルーチンを開始した。

腐っても元・吹奏楽部員である。
頭の中にクラリネットと、テンポ60のメトロノームを用意して、構える。「7拍・1拍」と高校時代に呼んでいた伝統のロングトーン練習をイメージして、腹筋を意識しつつ腹式呼吸。7拍は口から息を吐き続け、その後1拍だけ息を吸う動作を、1オクターブ分実行しきって、目を開ける。

OK、過呼吸の予兆は消えた。しかしちょっと、いやかなり気分が悪い。
薬局の中の雑音、特に人の音声が、自分の周りをぐるぐると渦巻いてしまっている。何もかも耳障りで酷く不快だし、人の声の意味が追えない。狭まった視野が、戻らない。

まずいな。一旦外に出るか?
でも、もうすぐ順番来そうなんだよなぁ。

「ご気分が悪くなった方は、コチラの青い洗面器をご利用ください」の貼り紙が目に入って、外に出るか洗面器に近寄るか迷っていると、目の前の「赤ちゃんのパパさん」が名前を呼ばれ、赤ちゃんと共に立ち上がった。
そして赤ちゃんが視界から消えた途端、周囲の雑音が「意味のある音声」に戻り、気分の悪さが2段階ほど良くなり、視界がクリアになった。これなら大丈夫、と言えるレベルだ。

赤ちゃんは、どうやら風邪の薬を処方してもらったらしい。「べーって出しちゃうようであれば、それはそれで……飲ませられる分だけで結構ですので……」と薬剤師さんが説明している。どこかホンワカとした気持ちで「早く良くなるといいねぇ」と、さっきまでとは裏腹に呑気な感想を抱ける私は、赤ちゃんを見さえしなければ大丈夫なようである。

あー、びっくりした。

続けて私の番が来て、無事に薬を受け取って外に出ると、残っていた気分の悪さが綺麗さっぱりなくなった。ぐるぐる首を回しているうちに頭の芯の痺れも取れて、雨粒のひんやりした感触に爽快さを感じる。やれやれ、一過性のもので良かった。

それにしても、「新生児のような小さい赤ちゃん」をしばらく眺めていただけで過呼吸発作を起こしかけるとは思わなかった。恐らく息子の育児をしていた時のストレスを体が思い出したのだろうが、「(推定)産後・育児うつだった」自覚はあっても、そこまで強烈な事件があった訳でもなし、自分にそんな弱点があったとは、結構真面目にびっくりだ。

例え将来息子が結婚して子供を持ったとしても、0歳児の育児を手伝うのは無理なような気がするなぁ……と「捕らぬ狸の皮算用」式の思考が走る。息子が結婚するかどうかもまだまだ予測のしようがないのに、悲観的なのか楽観的なのか、自分でも完全に謎である。

どうあれ、ネガティブな感情を拾うリハビリは、慎重に進めないといけない種類のものらしい、ということが分かった。最近上手くいっている気がして、ちょっと調子に乗りすぎていたようだ。
反省した私は当面の間「生後2か月以下(推定)の乳児を見た時の感情の分析」は諦めることにして、同時に「今日は自分を甘やかす(カロリー的に)」と定め、隣のスーパーで買い物をするにあたり、若干カロリー高めのお昼ご飯&目についたオヤツを買って帰宅した。

そもそも普通の人が普通に持っている感情を、わざわざ封印して見えなくするという選択を(無意識に)してしまったのが私である。そうせねばならない程のストレスがそこにはあった訳で、強過ぎる感情を無暗に掘り起こそうとすると、今回のように体の方が耐えられなくなる、という仕組みになってしまっているのだろう。もう少しゆっくり、しばらくの間はもっと安全そうな感情をメインに発掘作業をするように気をつけねばならないようだ。

「辛い」「苦しい」と思った時は、感情の分析を当面控えて、「辛い」をやり過ごすことにしよう。何でもかんでも考え尽くせばいいというものでもないようだし。
何であれ、一度やる気を出すと猪突猛進にやりすぎるのが、私の悪い癖でもある。

急いては事を仕損じる。慌てる乞食は貰いが少ない。
だが、千里の道も一歩から。そんな精神で、「無理せず」やっていくことの大事さを痛感させられた出来事だった。

ちなみにお昼ご飯+おやつの、海鮮お好み焼き+タコの磯部揚げ+レモンチュロッキーは、非常に美味しかった。
ダイエットをすると実感する。カロリーは、美味い。


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