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未来を幸福にするためのプレゼント|ディケンズ「クリスマス・キャロル」読書感想文

過去の積み重ねが現在の自分を形づくっている。だからこそ、未来の自分は現在の自分の意思によって作り出せる。ディケンズの「クリスマス・キャロル」は、幾度も繰り返した選択によって迎えた現在という終着点が、ただ一つの結末ではないと教えてくれる絶望の先にある希望を描いた物語である。


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ディケンズ「クリスマス・キャロル」読書感想文--スクルージ老人を通じて知る幸福な人生の歩み方

ディケンズ「クリスマス・キャロル」in ドトール

ディケンズの「クリスマス・キャロル」で描かれている物語を要約すると以下の通りだ。

冷酷で強欲な老人スクルージは、クリスマスにも喜びを感じず、貧しい人々を見下していた。そんな彼のもとに、かつての仕事仲間であるマーレイの幽霊が現れ、自らの過ちを悔いながら警告を発する。その後、スクルージのもとに「過去」「現在」「未来」のクリスマスの精霊たちが訪れる。彼は精霊たちに導かれ、幼少期の孤独や周囲の人々の優しさ、自分の冷酷さによる悲劇的な未来を目の当たりにする。とりわけ、死後に誰からも惜しまれず孤独に終わる運命を知ったスクルージは、恐怖と後悔から改心を決意する。心を入れ替えたスクルージは、人々に温かく接し、惜しみなく施しをするようになり、新たな人生を歩み始める。

ディケンズ「クリスマス・キャロル」

ケチで冷酷で人間嫌いのガリガリ亡者スクルージ老人というプロフィールが、まるで自分のように感じたからではないが、本作は考えさせられる点が多かった。本作は、タイトルや要約から感じ取れる温かみに反して、スクルージ老人の心を冷ややかに抉っていく描写が数多く書かれている。

コインの裏表ほどに明白ではないが、我々が生きる日常にはどことなくゼロサムな要素が数多く存在している。誰かの喜びは他の誰かの悲しみになるし、誰かの幸福はほかの誰かの不幸になる。誰かが祝福される一方で、他の誰かが悲嘆に暮れる立場に置かれる。

誰一人取り残されない社会といった言葉を掲げて活動する人々がよく見られるけれど、現実の社会において誰一人取り残さないのは不可能に近い。ありとあらゆる資源は有限であり、一方で人間の欲望には際限がない。誰かを救おうとする行為は、形はどうあれ必ず誰かを犠牲にすることになる。

ディケンズ「クリスマス・キャロル」の作中において、スクルージ老人は誰かの幸福な姿を通して自身の不幸を突き付けられ、また自身が不幸のどん底に置かれたときに幸福に歓喜する人々の姿を見せつけられる。その点において、本作は温かみとは程遠い冷酷さを感じさせる。

だが、そうしたスクルージ老人に突き立てられる冷たい刃の数々は、かつてスクルージ老人が他者に振るってきた刃そのものであり、彼が目を背けてきた自身の選択によって失ったものたちである。その中には、彼自身の感情や記憶さえ含まれているのだから、人生の複雑さを感じずにいられない。

自業自得を自らの業によって自ずから得ると解するならば、クリスマスの精霊によってもたらされたスクルージ老人の絶望は、自業自得に違いない。彼がこれまで選んできた物語の帰結であり、彼が歩んできた道の行き着いた果ての景色である。

人は何かを得ようと思ったら何かを失わなければならないし、そうした選択の連続こそが人生である。コインの表を見れば、裏は見えない。そんな1:1ならばまだ救いはあろうが、実際にはゼロサムに近い。奇しくも昨年末に書いたその現実が、ディケンズ「クリスマス・キャロル」を読んで一層に意識された。

その一方で、本作は別の視点をもたらしもする。それはつまりスクルージ老人が最後のクリスマスの精霊を通じてより強く抱いた感情であり、その後の彼の人生であり、とどのつまり本作が描きたかっただろうテーマ----未来は変えられる、といった教訓めいた論点にある。

あなたの未来をより幸福にするための方法--ディケンズ「クリスマス・キャロル」からのクリスマスプレゼント

誰しも進んで不幸にないたいとは思わないだろうし、不幸になるための選択などしないだろう。けれど選択の結果不幸になった人々は数えきれないほど存在する。なぜそうしたギャップが生じるのだろうか。

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