『失われた足跡』(1953) アレッホ・カルペンティエル
前回の投稿に引き続き、アレッホ・カルペンティエルの『失われた足跡』について書きます。
今回は具体的な作品のこと。
…いや。その前に、一旦、この作品の「挫折ポイント」について言及しておくことに、意味があるんじゃないかと思っています。
と言うのも、僕自身、この本を何度か途中まで読んでは結局放り出してしまった…。という経験があるからです。
挫折ポイントはひとつに絞って良いでしょう。
それはカルペンティエルの文章が一見すると「蘊蓄(うんちく)ひけらかし野郎」が書いたように見える、という、それに尽きると思います。
大学で音楽史についての講義をするほどに、音楽への造詣も深く、非常にマニアックな楽器や、音楽用語が登場します。
さらに、かつて建築家を志した時期に得たのであろう専門知識も、存分にその文体の中に入れ込んできます。
『聖書』や、マヤ人の神話『ポポル・ヴフ』、『ギリシャ神話』における叙事詩からの引用。その他諸々の膨大な文献、演劇、オペラ、歴史書などから喩えとして人物や神々を登場させたりと、やらかし放題です。(汗)
僕はもう、このあたりの神話や演劇などには全然詳しく無かったので、とにかくきつかった…。
ただ、その場その場で分からない単語や、知らない物語や人物について、検索するうちに、「確かに知っていたら、この比喩を使うしかないかもなあ…」というような事が分かってきたりしました。
やっぱり、ただの衒学者(げんがくしゃ)では無く、それぞれが表現のために必要な描写だったのかなあ…と思いながら、段々とですが、その語りに寄り添えるようになりました。
とにかく、知識をひけらかされるのが気になって、これを途中で投げ捨ててしまうのは勿体無い!
…というわけで、この投稿を見て下さった方に、この小説自体を手に取ってほしいという願いから、出来るだけネタバレを避けつつ(とは言え、最低限のあらすじは喋りますが)、僕自身が興味深いと思ったところや感動したところについて、お伝えできたらと思っています。
今回も長い前置きでしたが、はじまりはじまり。
【前半のあらすじ】
主人公であり語り手である《わたし》は、「都市」で音楽家をしています。しかしその実態は、本来《わたし》がやりたかったはずの芸術活動とは程遠いようなものでした。
かつては熱意を持って取り組んでいた、「音楽の起源についての研究」のことも、今ではさっぱり忘れてしまっているくらい、日々の仕事の中で活力を失ない、舞台役者である妻との生活も、味気ないものになっています。
ある日《わたし》は偶然、以前の研究活動の際、恩師であった〈館長〉と再会。《わたし》がちょうど三週間ほどの休暇に入ることを知った〈館長〉は、《わたし》に中南米の先住民族が扱う、原始的な楽器の収集を依頼します。
《わたし》は、正直乗り気ではありませんでしたが、結局成り行きで、愛人のムーシュと共に中南米へと旅立つことになりました。
このムーシュという愛人が、結構な曲者で、《わたし》は彼女に対して欲望は感じるものの、なにかずっと根本的な「重荷」といったような不快な印象も抱いています。
さて、いざ現地に到着してみると、《わたし》は久しぶりに、母語であったスペイン語に触れたこともあり、「仕方なく依頼を引き受けた」時とは違う、どこかイキイキとした感情が湧き上がってくるのを感じました。
このあたりから、語りが日記の形式になり、章の初めに日付が付与されることが多くなってきます。
初日に宿泊した首都で、突然、政治闘争だか宗教闘争だかもはっきりしないような銃撃戦に巻き込まれてしまったりと、散々な目にもあいますが、《わたし》は結局、(バカンスに来たつもりの愛人の反対を押し切ったりしながら)アマゾンの奥地へと向かい、楽器を探す決意を固めるのです。
道中、やがて《わたし》が心惹かれていくことになる、純心な女性ロサリオや、宣教師、宝探しにやって来たギリシャ人、〈先行者〉と呼ばれる「なにかしらの目的」を持って奥地に進もうとする男…などと合流しながら、旅を続けることになります。
各人の思惑、人間模様、そして全員を飲み込んでいく自然の猛威や美しさ、途中途中の地域で繰り広げられる儀式、上流へ舟を進めていくにつれて変容していく時間感覚…。
「都市」での生活も嫌というほど経験してきた、《わたし》の視点を通して語られる、「奥地」での現実は非常に生々しいです。
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文庫本全体で約440頁のうち、ここまでが大体200頁くらいまでのあらすじかな〜…って感じです。
このあと、もっともっと面白くなっていきます。
印象にのこった描写をいくつか引用。
こんな感じで、自然の描写が独特で、時に驚異的。「綺麗」とはちがった根源的な「生命力」を感じさせます。
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また、カルペンティエルは、「シュルレアリスム」とは一線をかくする、ラテンアメリカ文学に特有の「魔術的リアリズム」創始者の1人であると言われています。
といった、不思議な表現も登場したりします。これは詩的な比喩として捉えることも出来るのですが、やはりどこか本当に植物がその場に現れて喋っているんじゃないか…?と思わせるような…。
つまり、普通は「これは比喩だよね」と納得してしまうような描写だったとしても、この作品のなかでは、「あれ、これって比喩じゃなくて現実なのかも…」と、疑ってしまうような、リアリティを伴うようになるのです。
「シュルレアリスム」の作品に見られる、地に足のついていない(ぼくはそれも好きなのですが…)小手先の奇怪な文章とは違って、ラテンアメリカの自然地帯に入ると「現実として体感される驚異」。
カルペンティエルは、それを追求します。
特に、僕が印象に残った場面。
みんなで焚き火を囲んでいる際に、旅の途中で出会った植物学者が神話的な歴史を語ります。
その時、どこからともなく「神話的な歴史の証言者」として、16世紀頃に活動していた〈征服者〉たちが当時の部下たちを引き連れて現れ、一緒に火にあたるのです。
とても比喩とは思えない、臨場感のある「奥地での現実」として描かれる、(都市での時間を超えた)魔術的な交流の場面。
カルペンティエルはたしかに、小手先の奇異な文体とは異質の「魔術的リアリズム」を表現することに成功したのだ、と捉えることが出来そうです。
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ストーリーが進むにつれて、《わたし》は、「奥地」での解放感に浸っていく一方、「都市」での生活や成功に対する未練を中々捨てきれずに葛藤する場面がちらほら出てきます。
もう都市には戻らないと決意したはずが、奥地で書かれるだけではなんの役にも立たない「楽譜」を書いて、作曲している場面はちょっと滑稽です。しかし、気持ちはよく分かります。
「都市」と「奥地」。両極端の生活領域から発せられる、それぞれの引力によって引き裂かれそうになっていく《わたし》の行く末が、最終的な見どころになるかもしれません。
ラテンアメリカ文化に加えて、ヨーロッパ文化にも深く通じていたカルペンティエルだからこそ、描けた物語、そして主人公の葛藤なのかなあと思いました。
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《わたし》以外の登場人物でいうと、まるで女神のように描かれるロサリオや、壮大な計画を遂行中の〈先行者〉に隠れがちにはなってしまうのですが、個人的には〈宣教師〉のペドロ師が、中々に良いキャラだなあ〜と思います。
僕がこれまで読んできたラテンアメリカ文学(って言っても、まだまだ少ないですが…)の中で、神父は「皮肉」「腐敗」の体現者として登場することが多いなあ、という印象でした。
金に目が眩んだり、弱者を守ると言いつつ、その人たちが(神無しでは生きられないように)強くなることをけっして許さず…といった場面が描かれていたり。
しかし、この『失われた足跡』に登場するペドロ師は、かなり肝がすわっていて、本当の意味で神に仕え、神を必要としている人々に教えを届けようとする気概があるような気がして…。
もちろん、「教会」への執着心が強すぎたり、神へのちょっとした侮蔑ですぐにムッとしたりするような場面も描かれますが、それでも根底にあるのは「神への愛」と同じくらいの「人間愛」です。
神を信じない人たちにも、なんとか理解してもらおうと、工夫したり、自ら危険を冒してでも、信念を通そうとするところには、他の文学作品での神父に対しては中々感じ得ない魅力を生じさせます。
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木村榮一の『ラテンアメリカ十大小説』の解説文によると、この小説の特異点は、“川をさかのぼることがそのまま時間の遡行につながる”という発想だそうです。
たしかに、あらすじでも少し触れたように、語りは日記という形式をとるようになるので、日付が(「都市での時間感覚の基準」として)進んでいきます。対照的に、河をのぼるにつれて、体感的な時間や人間の歴史的な生活様式は(原始農耕や狩猟採集、旧石器時代というように)巻き戻っていくようなイメージを与えます。
この、進んでいく都市の日付と、巻き戻っていく奥地の時間が、とても神秘的に絡み合って、独特の現実を喚起するのです。
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結局、今回の投稿もめちゃくちゃ長くなりましたが、こんな感じです。
前回の投稿でも書いたように、カルペンティエルはシュルレアリストたちに厳しい視線を向けています。
物語の中でも、〈彼ら〉を非難するような場面があり、その文章に力がこもっているので、最後に引用させてください。
ではでは。
是非、手に取って読んでみてください!
(片手にスマホがあると、難しい単語もその場で調べられるのでオススメです)