牛田悠貴

1998生まれ。中南米の文学が好きだけど、スペイン語もポルトガル語も出来ない。にほんご…

牛田悠貴

1998生まれ。中南米の文学が好きだけど、スペイン語もポルトガル語も出来ない。にほんごおんりー。 普段は太鼓を叩いたり、詩・川柳を書いたりしています。日本音楽療法学会認定音楽療法士。

最近の記事

【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 井上剣花坊(1870-1934)

“要するに”と言ってるくせに、十音で済んでいるはずの諺「どんぐりの背(せい)くらべ」を、むしろ十七音に増やしてしまっているところがまず面白い。 “要するに”を抜いたって十二音だ。 ただ、「どんぐりの背くらべ」という諺は、じつは会話などの中で、それ単体でどーんと現れることはないような気がする。 「結局、あの二人ってどんぐりの背くらべだよね」とか「どうせあいつら、どんぐりの背くらべじゃん」…みたいな感じで言われることが多い印象。 対して、 “要するに大どんぐりに小どんぐり

    • 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 今井鴨平(1898-1964)

      ストローを噛んでいる景から、語り手が貧しさの持続を確信するまでの流れがありありと分かる。 “明日”を「あす」と読むなら、句全体で十七音。「あした」なら十八音。 川柳だし、十七音で読みたいところ。だが、そうだとしてもきれいな5-7-5ではなく、9-8というリズム。(もっと細かく分けるなら4-5-3-5かも?いや、でも9-8だと思うなー…。切りすぎちゃいけない感じがする…。) これを、下手に5-7-5「ストローを噛んで明日(あした)も貧しいか」にしてしまっては、このむなしい確

      • 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 森井荷十(1885-1948)

        6-7-7というリズム。七七で終わるところに、どことなく短歌的な雰囲気を感じたりもする。 読者を置き去りにすることもなく、「祭りのあと」の景と感情とを綺麗に、上手に表した句だと思う。 でも、正直、“宴”のあとにみんながそこを通って帰った“廊下”があるってだけでも、まだいいよなあ…。なんて思ったりもする。 ぼくはもう、知り合いや友人たちと「zoom飲み会」自体はやらなくなったけれど、それでもコロナ以降、例えば「読書会」などをはじめとしたイベントや、打ち合わせなど、なんらか

        • 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 木村半文銭(1889-1953)

          これ、携帯で文字打ってるんですが、“──”のところ、どうしよう、打てないじゃん…と思ったんですよ。 「ああーー黄金の欠伸を見よ」 は、流石に、著作権切れてても怒られるでしょ。 そしたらね。「けいせん」って打ったら、そっから変換できました…ってことにまず感動しています。 すみません、本題に入ります。 …はい。本題。 木村半文銭には、 とか など、現代川柳をやっている人たちの間でも大人気な有名句が沢山あります。 スケールが大きくて、ちょっとキザで、一句の中で時空を

        【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 井上剣花坊(1870-1934)

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 伊藤愚陀(1909-1932)

          これは中々…。 もう現代川柳じゃん。今の。 語尾が「よ」なのも、今っぽい。 人工物がものすごいスピードで、ありありとした臓器を連れてくるようなグロさがありつつ、“来たよ”が絶妙な雑さというか、軽みをもたらしてくれる。 まあ、“汽車”っていうのは、やっぱちょっとその時代だなあ…って感じだけれど。 なんか、「そのままよみ」でグロい景を想像する面白さももちろんありつつ、産業革命以降、一気に資本主義化していった「欲望の世界」に対する風刺・皮肉…というふうにも、読めなくもない。

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 伊藤愚陀(1909-1932)

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 松村柳珍堂(1880-1919)

          かなり良質な七七句だと思う。 “サーチライト”の機能・役割が「探す」「探る」「追う」とかっていうのは当たり前のことだけど、そこに“みれんたらしい”というキャラクター設定の可能性を見出したことが素晴らしすぎる。 これは、発見だ。 そうか…!サーチライトって未練たらたらで、目標物をしつこく追いまわし探しまわるような光だったのか!!という驚きがある。 そして、ものすごくしっくりくる。 漢字が一文字も入っていないのも好い。 おどろおどろした「未練」よりも、すこしかわいい“みれ

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 松村柳珍堂(1880-1919)

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 川上日車(1887-1959)

          なんかどうしようもなく遠い感じ。一字空けはそれなりに使う川柳人もいるけど、二字空けは中々しない。覚悟がいる。 …とはいうものの、川上日車には という五字空けの句(※1)もあったりするので、それに比べたら二字空けくらい…と思われるかもしれない。 しかし、“錫”の句は本当にただ即物的な単語を並べ、ある意味で解釈それ自体を拒絶しているのに対して、“みどり”の句にはどこか情緒があるように感じられる。 女性三人の下の名前。 元カノなのか娘なのか、教え子なのか、アイドルなのか…。

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 川上日車(1887-1959)

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 川上日車(1887-1959)

          さあ、まずはみなさんご一緒に。せーの、 「「「「「なにをや!!!!!」」」」」 はい。分からない。まじで分からないのです。これが日車さん…。 これで一句が完結してるって、信じられる? このなんとも言えない語りのテンション。 ついカッとなって、切ってはいけないものを切ってしまったのでしょうか…。 その上で、なんかもう既にどこか開き直っているようにも見える。それとも、もはやただただ茫然自失してしまっているのか…? いずれにしても、泣いている気配も慌てている気配もない。悔

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 川上日車(1887-1959)

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 竹林奈良武(1880-1910)

          これは、“詩人”の詠嘆に対する、皮肉まじりの応答なのだろうか。 そうだとしてもこの句には、ただ単に“詩人”を小馬鹿にしている…とか、茶化している…と評するだけでは言い尽くせないような、スケールの大きさがある。 なんてったってその“詩人の口”に、星がおちてきやがるのだ!! むしろこれは、皮肉をこえた詩人の“アゝ”に対するリスペクトなのかもしれない。 川柳人として、詩人の詠嘆を上回るような言葉をぶつけるには、“星”をもって制圧するくらいの覚悟でないと…というような。 いや

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 竹林奈良武(1880-1910)

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 近藤飴ン坊(1877-1933)

          1918年発表の句集に入っているらしい。(新葉館出版『近・現代川柳アンソロジー』からの情報) 今から百年以上前に、さらっとこういう破調の句が詠まれているという驚きがある。 5-5-5-4の十九音。5-7-5からはほど遠く感じるが、これもまた川柳。 “踊つてる踊つてる”の5-5の繰り返しによって、なにか身体を廻転させているかのような踊りのリズムを作り出しており、下の5-4“懐はからつぽ”で川柳独特の軽みや、生活感のあるおかしみに着地している。 冒頭五音の繰り返しが、絶妙な狂

          【著作権のおわった柳人の句をよもう!】 近藤飴ン坊(1877-1933)

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ④

          ********** 前々回の記事で、【弓と竪琴】における問いを、①~③として示した。 ① 詩という表現形式の〈独自性〉についての問い ② あらゆる詩的発話における〈普遍性・本質〉に対する問い ③ 詩が「詩として体験される」際の、〈独特の作用機序〉に対する問い 膨大な議論になるので当分、これからの記事では①の問いを中心に扱うこととする。 (②③の問いに関しては、直接は扱わないが、間接的には関係してくるかもしれない。) 今回の記事では、特に〔序論〕を中心に読みながら

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ④

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ③ 〔序論〕 –詩情(ポエジー)と詩作品(ポエマ)–

          _______________________ 今回は、前回の記事で説明しきれなかった、「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」の区別について扱う。 【弓と竪琴】における、パスの主張を理解するためには、この「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」という概念の区別と整理が必要不可欠となる。 なぜか? それは、前回の記事で示した問いのひとつである、①詩という表現形式の〈独自性〉についての問いに答えるためである。 より正確言うと、(「表現形式」という言葉は「芸

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ③ 〔序論〕 –詩情(ポエジー)と詩作品(ポエマ)–

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ② 〔序論〕−特に40頁でたてられる問いについて–

          今回は〔序論(ポエジーと詩)〕についてまとめようと思っていた。…のだが、諦めた。 〔序論〕における議論は、そこにさかれた少量の頁数からは想像できないほど膨大なので、とてもひとつの記事には書ききれないような気がする。 しかも、僕がここで書きたいのは「要約」ではない。 【弓と竪琴】についての一連の記事においては、僕は「はしょる」ことへの抵抗でありたい。 ゆっくりでも良いから、出来るだけパスが記した言葉に対して誠実さをもって歩けたら…と思っている。 ただ、だからと言って、〔

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ② 〔序論〕−特に40頁でたてられる問いについて–

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ① 〔初版への序〕

          岩波文庫版の【弓と竪琴】。その末尾に、解説として収められている、詩人・松浦寿輝による[大いなる一元論]、冒頭の一文。 まさに、その通りだと思う。 驚くべき綜合すぎて、ひととおり読んだものの、自分の中でまだ全然整理がつかない。 いつまで続けられるかも分からないが、何回かに分けて、この【弓と竪琴】について書くことで、僕の中でもすこしは「綜合」ができたら良いな、と思う。 あわよくば、これがささやかな「読書案内」となって、周りにこの本についてあーだこーだ言い合える人ができたら万

          【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ① 〔初版への序〕

          "Fog" by Carl Sandburg 意訳か誤訳

          霧              カール・サンドバーグ 霧が 来る ちいさな猫足を 忍ばせ 座して 見下ろす 港と街を 静かに 腰を据えた  のち   前進 (日本語訳詩 : 牛田悠貴)

          "Fog" by Carl Sandburg 意訳か誤訳

          "Sudden Light" by Dante Gabriel Rossetti 意訳か誤訳

          ※スマホの場合は横向き画面推奨(行の関係で) 突然の光 ダンテ・ケイブリエル・ロセッティ  ぼくは以前 ここに来たことがある それなのに   一体いつ どうやって来たのか 言うことが出来ない…  知っているんだ 扉の向こうには草原があって   つよく 甘い 香りがすること そしてあの ため息の音 岸辺では光が灯っていることも 知っているのに…   あなたは以前 ぼくのものだった——   それがどのくらい前のことだったか もう思い出せない…  ただ あの時 燕が舞い上が

          "Sudden Light" by Dante Gabriel Rossetti 意訳か誤訳