宇良満照

批評家、評論家、ライター。様々な種類の文章を書きます。慶應義塾出身、大学で理論社会学を専門とし福田和也氏に師事する。noteは、自分が何を考えているか、あるいは考えていたかを明確にするための作業としてのテクスト作成場所。そして書いたものが、誰かの目にとまるならば嬉しいです。

宇良満照

批評家、評論家、ライター。様々な種類の文章を書きます。慶應義塾出身、大学で理論社会学を専門とし福田和也氏に師事する。noteは、自分が何を考えているか、あるいは考えていたかを明確にするための作業としてのテクスト作成場所。そして書いたものが、誰かの目にとまるならば嬉しいです。

最近の記事

miteirukara

   しゅんくんへ    しゅんくん、私がこの世界から、いなくなった事をどうか哀しまないでください。あなたがお酒を呑み、私のことを想い破滅的な生活をしているのを私はこちらの世界からしっかりと見ているのよ。私は自分の病気よりも、いつも、しゅんくんの体の体を心配していたのを、あなたは知っているはずよ。  フェイスブックで再会して、私がこの世界から旅立つまで逢えることはできなかったけれども、私はしゅんくんと一緒に居た、あの頃と何ら変わらず、あなたを側に感じることができていたのよ

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    • 「喜劇という悲劇ー死ねばいいのにー」

      自分は常に父親を恐れて暮らしていた。 父親の帰宅を知らせる車のテールランプが一階の居間に差し込むと、姉は物を云わずに、二階の自室へと階段を上がっていく。 自分もこれから始まるであろう、ののしり合いを予期し自室へと引きこもる。 どなり声が響くと体が硬直してしまう。子供にとって最も辛いことは、両親が仲たがいしている光景であった。 父親の罵声は、物心付く頃には日常になっていたように思う。その日常は自分が中学に入りしばらくして、父親が家を出て行くまで毎日くり返された。毎日が地

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      • 外在的な社会に生きにくさを感じる者へ、あるいは、てーげー理論の再構築

        「てーげー理論」は、実在的なリアリティを排除するものではない。我々は、自己に外在するリアルなるものを想定しているが故に、それに反発し、屈服し、あるいは、その規範的価値に従って生きる選択をするのだから。また外在するリアルなものを想定しているからこそ、境界線を引き区別を設け、観察し、「社会なるもの」を見極めようとするのである。でなければ、区別する意味はどこにもなくなる。  リアルな社会の外在性に苦しむ者への処方箋として、閉鎖的なシステムのオペレーションに着目することが、一つの指

        • 見えるものと見えないもの

          高度な複雑性を保持している世界を、我々は俯瞰できない。 我々は「見ることができるものを見ることができる」。 他方、「見ることができないものは見ることができない」と指し示す。 世界を観察し、可視化された出来事の背景には、欠落し可視化されなかった、多くの選択蓋然性が不可視のままに身を潜めている事実を、我々は知らない。

          #短編小説「ダメ人間の琉球の夜」

           財布の中身を確かめ、確かめ、酒を呑む。琉球の那覇にある、1泊1000円の宿に泊まり、毎日、かび臭いべッドで虚無に苦しめられていた。  夕方になるとベッドから這いずり出て、乱れた髪もとかさずに、無精ひげを気にすることもなく、盛り場へと出かけて行くのである。つま味は、できるだけ頼まずに、あと何杯なら呑めるぞと、軽い財布の中身を気にしつつ、落ち着いた気持ちで呑むことはできない。気の弱い私は、金のことばかりが頭をよぎり、酔えないのである。  しばらく、那覇に滞在していると、私も

          #短編小説「ダメ人間の琉球の夜」

          #コラム「政治を変えれば、社会が変わるという嘘。ていうか「社会」って何?」

          政治を志す方々が口にするステレオタイプの言説ってありますね。 「社会を良くするために、政治を改革します!」的な文言を、特に選挙の時期になると、皆、鼻息荒く、訴えている姿を目にする。政治家なんて、政治改革!と遠い昔から云い続けているが、では、実際に、日本社会が良くなっているかと、自問してみると甚だ心もとない。 社会を変える方々が、やたらと政治的言説を撒き散らし、つまり政治システムに働きかけて、それが結果として「社会」に変革を来すものだと空想しているならば、その思考論理ってあ

          #コラム「政治を変えれば、社会が変わるという嘘。ていうか「社会」って何?」

          #短編小説「生きづらさの旅の中でー出逢いの風景ー」

           ぼくは、恋をしたんだ。    その夏、ぼくは、ヒッチハイクで北海道を旅していた。原生林の静寂さと、ひたすら、真っ直ぐな道の彼方から吹き寄せる風は爽快であったが、ぼくは、陰うつとしていた。理由は判らない。ただ憂うつから、居ても立ってもおれず、旅に出るのだ。けれど、いくら旅を続けても、憂うつは募るばかりで、この旅をしていること自体に意味があるのか、と自問してしまう。  ただ、旅をしていて、1つ云える事があるとすれば、ぼくは恋をしたのだと。    その日も、ぼくは憂悶を抱えなが

          #短編小説「生きづらさの旅の中でー出逢いの風景ー」

          #短編小説「憧れた東京の日々」

          大嫌いだった故郷を離れ、憧れた東京に上京して、数年経っていた。 朝5時に起きて、下宿のあった池袋からJR線に乗り水道橋に向かう。駅に到着すると、構内の立ち食いそば屋で350円の朝定食を食う。既に、駅には、仕事を貰おうとする者達を見かけることができた。ホームレスの者も多くいる。僕は、朝飯を食い終わると、その人波と一緒に、駅からすぐ近くの肉体労働の派遣屋を訪ねるのである。皆、一様に虚ろな表情をしていて、僕もその中で、自分の番が回ってくるのを待つのである。 30分か1時間待って

          #短編小説「憧れた東京の日々」

          「世界」って皆に同じに見えるの?

           皆さんこんにちわ。宇良満照と申します。今回は「世界」は全ての人々にとって一様に、または、同じに存在するか?というお題にさせてください。「認識論」と言いますが、この問いは、学問の世界では遠い遠い昔から重要なテーマでした。  まず結論から申します。「世界」は、皆には同じに見えていません。  人は、あるがままの世界をあるがままに見ることができないし、それぞれ個人が見た、認識した世界自体も同じものではないということです。確かに僕たちは、同じ世界の中で暮らしています。けれど、世界

          「世界」って皆に同じに見えるの?