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外在的な社会に生きにくさを感じる者へ、あるいは、てーげー理論の再構築

「てーげー理論」は、実在的なリアリティを排除するものではない。我々は、自己に外在するリアルなるものを想定しているが故に、それに反発し、屈服し、あるいは、その規範的価値に従って生きる選択をするのだから。また外在するリアルなものを想定しているからこそ、境界線を引き区別を設け、観察し、「社会なるもの」を見極めようとするのである。でなければ、区別する意味はどこにもなくなる。

 リアルな社会の外在性に苦しむ者への処方箋として、閉鎖的なシステムのオペレーションに着目することが、一つの指針となろう。全体社会の中の内的な存在である観察者は、その内在性のために社会全体を表象できることはない。

 システムの閉鎖性は、観察者自らが選択的に、社会という環境から情報を取得することで、外在するリアルな社会を、自らの区別による作動によって構築する事態を含意している。

 つまり、あなたが圧倒され、生きるのに困難さを感じている「社会」というものは、リアリティという実体ではなく、あなた自身がそのように構成したに過ぎない。区別を設け、観察することで構成された社会は、システムの閉鎖性に依拠しているのであるが、同時に、新たに区別を設けることで、生きにくい社会を再構成しなおす可能性を得ている

 この作業で獲得し得る「開放性」は、リアルなるものに囚われるている者に第3の選択を指し示す。それはニクラス・ルーマンの提示した、社会システム理論の文脈とは相違するが、ルーマンの言及とは違う観点から、システムの「閉鎖性」は「開放性」の出所であると理論化できる

 次に我々は、外在するリアルなものが、自己観察されたものであるという、テーゼが如何にして成立するかという問いに、応えなければならない。その端緒として、社会システム理論及び、「てーげー理論」はパラドックスに立脚することで、リアリティを記述する手続きを取る点に言及しておく。

 ルーマンのパラドックスの定義を援用しよう。即ち、パラドックスとは「自己言及的な循環関係における「否定」を含んだ関係」となる。さらに我々は、社会とは、パラドックスであるという公理を提示する。社会が見出されるのは上述したように、観察者の区別に拠っている。従って、実際には観察者により社会はパラドックスであると観察しているということになろうが、今はあえて厳密性を問うことはしない。

 当テクストの目的は、リアリティの外在性に対して、生きることに苦しむ者が、思考転換し得る契機を提示する点にあるから。従って、ここではてーげー理論は観察された社会とはパラドックスである、という公理を理論の中心に添えていると理解できれば良い。また、パラドックスの存在の真意も問題ではない。くり返しになるが、その存在如何は観察者の観察に拠るものであるから。

 システムのオペレーションにおいて、パラドックスの機能はどういったものなのか、発言という具体的なレベルへ立ち返り「例外のない規則はない」という言説を思考の糸口にしてみよう。この言説で我々は「例外のない規則はない」という規則に例外はあるのか、あるいは例外がないならば、当の言説自体成立し得なくなる事態に気付くのである。

 パラドックスが内包する「否定」あるいは「決定不能性」は、コミュニケーションシステムの継続に頓挫をきたす。換言すると、社会のパラドックスが、そっくりそのままシステムで取り扱われ得るならば、即座に、システムのオペレーションは中断してしまう。そこで観察者がパラドックスを認めると、観察者は新たな区別を導入し、パラドックスを不可視なものへと変換することが要請される。そうすることで、システムのオペレーションの継続を可能たらしめている。

 上記の考察によって、我々は、次の帰結を得ることができる。つまり再参入された区別は、システムの作動の頓挫を回避するための、観察者による観察であるために、システムの内的な活動で外在する社会を構成することが可能になるわけである

 最後に、我々は、リアルな社会が観察者によって構築される拠り所を延々と、観察者による観察というトートロジカルな記述に求めてきた。こういった作法は、てーげー理論が学として成り立たないとの批判を受けるやも知れぬが、だが一方では、ルーマンによる「自己言及的」な理論に基づくものであり、その点で、てーげー理論はアカデミックなシステム理論的であると云える。

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