#短編小説「憧れた東京の日々」
大嫌いだった故郷を離れ、憧れた東京に上京して、数年経っていた。
朝5時に起きて、下宿のあった池袋からJR線に乗り水道橋に向かう。駅に到着すると、構内の立ち食いそば屋で350円の朝定食を食う。既に、駅には、仕事を貰おうとする者達を見かけることができた。ホームレスの者も多くいる。僕は、朝飯を食い終わると、その人波と一緒に、駅からすぐ近くの肉体労働の派遣屋を訪ねるのである。皆、一様に虚ろな表情をしていて、僕もその中で、自分の番が回ってくるのを待つのである。
30分か1時間待って、やっと僕の番になると、これまた虚ろな顔をした担当の者が、機械的に何がしの現場へ行け、と命令する。無礼な言葉使いに、殴りつけたくなるが、へいへいと頭を低く何度もお辞儀して、茶封筒を受け取り現場へと向かう。
封筒の中には、7500円入っている。7000円は一日の労働賃で、500円は電車賃である。一律500円であるから、当然、現場が近いと嬉しい。ある時は、筑波なんていうのもあり、労働賃から交通費を出さなければならないし、何時間も掛かるので、そんな時は心底悲しくなった。それでも、文句は言えない。仕事を貰えるだけ良いのだ。高齢の者は、仕事を貰えないのも珍しくなかった。仕事を貰える保証もないのに、毎朝、水道橋の事務所まで、足しげく通ってくるのである。仕事がないと、また彼らは、虚ろな表情で、ダンボールの小屋へと帰っていった。
昼に一つ目の仕事が終わると、運送屋の仕事に入る。コピー機を発注のあった会社に配達する仕事の助手である。たまにエレベーターのない事務所の2Fや3Fに配達することがあり、二人で重いコピー機を手で運ばなければならないので、大変難儀した。
そして、それが終わると、夜9時から朝5時までの事務所移転を手伝うバイトに向かう。あごで使われ罵られても、学費を稼ぐためと我慢して、卑屈な笑みを浮かべ仕事をした。
朝のバイト先で認められるようになると、電話で翌日の予約を入れることができるようになった。次の日の予約を入れておき、事務所移転のバイトが終わると、下宿に帰る時間がもったいないので、近くの公園を見つけて寝袋で寝た。真冬などは凍えながら眠った。いや、心が無性に寒かった。
当初、外で寝るのが恥ずかしかった。だが、そういう生活を続けると、次第に感覚が麻痺していき、とうとう、オフィス街の人ゴミの中でも眠れるようになった。朝、足早に会社へと向かう、ホワイトカラー達は、まったく違う種の人間に見えた。自分には、縁のない世界だと思った。
1日の平均睡眠時間は、2時間ぐらいだっただろうか、その生活を2年続けたら体を壊した。まず、腰を曲げることができなくなった。ヘルニアである。肉体労働で背骨の椎間板が摩滅して、神経を圧迫し、足は常に痺れていた。今も、それは直らない。医者に見てもらうと、70代の背骨と言われた。
また、僕は、心の底から笑うことができなくなった。どこへ行こうとも、自分の居場所はなく、いつも孤独であった。バイトでは、あごで使われ、罵られ、馬鹿にされた。僕が居なくなっても、常に他の者と代替可能な仕事では、自分の意味を見出すことは、決してできなかった。そのため僕は、自分でない自分に成りすまそうとした。違う人格になってしまえば、馬鹿にされ、罵られ、脅されて、どんなに人間の汚い部分を見ても、自尊心を傷つけることはなかった。いや、自尊心を失わないよう、もがき苦しみ、結果、それに失敗したのである。
あの頃、自分が何をしたくて、何のために生きているのか、全く判らなかった。人間らしい気持ちを失い、楽しい、嬉しい、悲しい、そういった感情は消え失せていた。既に、人間として終わっている自分は、どうなっても良かった。ある時は、盗みをはたらき警察に捕まった。ある時は、通りすがりに肩がぶつかっただけなのに、その者を本気で殺そうと殴りつけた。怒り以外の人間らしい感覚は失われ、何とも思わなかった。
善も悪もなく、幸も不幸もない。全く、自分がどこに向かっているのか、目の前は真っ暗闇であった。ある寒い日の朝、いつものように、公園で寝ていると、ホームレスの人達に袋叩きにされた。縄張りがあったのである。くやしくて、悲しくて、涙が止らなかった。しかし、故郷にいた頃のような、人間らしい感情を取り戻した。
僕は、この生活から抜け出さなければ、と思った。
全財産入った財布を盗まれたのだが、不思議ともう全く、悔しくなかった。幸い、ポケットに小銭が入っていたので、久しぶりに、電車で池袋の下宿に帰ることにした。車窓からは、真っ赤で大きな朝日が、昇ってくるのが見えた。澄んだ空気の中、空は朝焼けに燃え、痛いほど美しいと思った。僕は、もう一度、車両の中で人目をはばからず泣いた。悔しいからでも、悲しいからでもなかった。向かい側の席では、晴れ着姿の女性が不可解な顔をして、僕を見つめていた。だけど、その目はとても温もりに満ちたものであった。
ああ、そういえば、今日は元旦なんだと気がついた。
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