「世界」って皆に同じに見えるの?
皆さんこんにちわ。宇良満照と申します。今回は「世界」は全ての人々にとって一様に、または、同じに存在するか?というお題にさせてください。「認識論」と言いますが、この問いは、学問の世界では遠い遠い昔から重要なテーマでした。
まず結論から申します。「世界」は、皆には同じに見えていません。
人は、あるがままの世界をあるがままに見ることができないし、それぞれ個人が見た、認識した世界自体も同じものではないということです。確かに僕たちは、同じ世界の中で暮らしています。けれど、世界は僕たち、それぞれによって違うものとして見られているわけです。
ここで社会学における「<システム/環境>ー差異」という概念図式を提示させてください。社会学の専門家ではない方々のために、めちゃめちゃ、かみ砕いて上記した概念を説明します。それは、僕たちの世界認識(システム)と僕らを取り巻く、あるがままの世界(環境)には違い(差異)の落差が存在するために僕たちは、世界を自己の立場から認識し構成していることを意味します。
では、「世界を認識する僕たち」(システム)と「世界」(環境)に対して、どういった「違い」に着目すれば、世界認識の問題を考察できるのでしょうか?その違いは、「複雑性」の違いです。皆さんは、世界を認識する僕たちという存在と世界とでは、どちらが「複雑」なものと考えますか?
答えは、むろん、僕たちよりも世界のほうが「複雑」です。
説明します。例えば、僕たちはテレビやネット、ラジオや直接、友人たちと会話することで、自己に取り入れた情報から、世界で何が起こっているかを知り、情報を様々に結びつけることで、ある世界像を構築しています。一方で、「あるがままの世界」では、僕たちが、取り入れた以上の出来事が起こっているはずです。僕が、この文章を書いている瞬間にも世界では、テレビやネットにおいてさえも取得できない出来事が起こっており、僕たちという存在が、「世界」で継起している情報を全て取得するには、情報を取得する術においても、情報を処理するキャパシティにおいても、心もとない。僕たちという(システム)は、僕たちを取り囲む環境(世界)と比して「複雑」ではない。換言すると、僕たちという存在は、世界に比して余りにも単純であるということです。
上述したことから考えて、かりに「あるがままの世界」と、より深く関係を持ちたいという方がいたとしたら、世界認識に必要な情報のストックやその情報処理能力を、より複雑なものとすることです。そうすれば、「複雑性に満ちた世界」と、より高次に関係を取り結ぶことが可能になるでしょう。
自分自身を複雑にする事。もしかして、それは、たくさんの書を読んで考えたり、あるいは様々な違う他者とコミュニケーションすることで、世界に存在する様々な価値観に触れてみる事かも知れません。これを、僕は人間が「成熟」することだと、捉えています。
★小難しい文章を読んで下さってありがとうございます!!このテクストが皆さんにとって、何かを考える端緒になってくれたら嬉しい限りです。
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